南斗屋のブログ

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「裁判所による裁判」への移行作業は一大事業

2022年04月18日 | 歴史を振り返る
(司法省)
今の法務省は、明治期には司法省といいました。明治4年7月9日に設置されています。
今の法務省と違うのは、司法省の中に裁判所も含まれていたこと。戦後、法務省と裁判所は別の組織になりましたが、それ以前は同じ組織でした。

(司法省の課題)
司法省が設置された当初の課題は、裁判所を各地に設置することでした。
裁判所による裁判が今や当たり前なので、それ以前に誰が裁判をしていたのかは忘れさられていますが、裁判所が設置される以前には、各地方官が裁判を行っていました。今の県庁の中に裁判課というのがあって、そこで裁判をやっていたというイメージです。このような地方官による裁判を、「裁判所による裁判」という近代的なシステムに乗せていくかが司法省の課題でした。

(地方官による裁判)
 先ほどは、地方官裁判をイメージで説明しましたが、もう少し正確に申し上げておきますと、府県に「聴訟課」というセクションが設けられ、そこで裁判が行われていました。「聴訟」という言葉は現代では用いられませんが、今風にいうと訴訟という意味になります。
 地方官による裁判では、府知事、県令の名前で裁判が行われていました。もっとも、実務は典事以下の職員が行うという執務体制だったようです。

(裁判所での裁判とする理由)
 司法省が「裁判所による裁判」を目指したの、欧米流の権力分立システムを取り入れる必要があったからです。
 欧米からみると、行政が裁判も行うのは「遅れている」仕組みだったのです。だから、そんな国には自国民を裁判させることはできない⇒治外法権(自国民は日本の裁判を受けない)という不平等条約が押し付けられたのでした。
 不平等条約から脱却するには、欧米から自分たちと対等、当時の言葉でいうと「文明国」の地位を得なければならなかったのです。
そのための、権力分立システム=行政から独立した裁判所による裁判としなければならなかったのでした。

(裁判所での裁判への移行)
 裁判所での裁判への移行と一言で言いますが、なかなか簡単なことではありません。これまで、地方に丸投げしていたものを、司法省所属の職員にやらせなければならないからです。裁判所を設置するのも一気にというわけにはいかず(莫大な予算が必要です)、漸進的でした。
 裁判所はまず、東京にだけ置かれ、明治5年8月に神奈川、埼玉、入間の3県に設置。続いて同月に足柄県等8県に設置されます。
 ここでいう8県は、足柄、木更津、新治、栃木、茨城、印旛、群馬、宇都宮です。現在の千葉県、茨城県、神奈川県、埼玉県、栃木県、群馬県です。

(司法省への訴訟事務の引渡し)
 地方官裁判から、裁判所裁判の第一歩は、県の事務から訴訟事務(当時は聴訟断獄といいました)を司法省に引渡すことでした。新治県(今の千葉県・茨城県)では、「今般当県に裁判所が設置されたという御達がありましたので、9月2日に聴訟断獄の事務を司法省に引渡しました」という趣旨の文書を出しています。
 司法省の方からみると、裁判権を接収したこととなり、これで司法省の役人に裁判をさせる入口にようやく辿りつきました。


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