高額窃盗犯を流罪に処す #仮刑律的例 #17 流罪
#仮刑律的例 #17 流罪
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
多数の窃盗を行った者がおり、被害は金105両3分、銀9匁にのぼっております。この者本来は死罪とすべきですが、今般大赦がありましたので、一等を減じて流罪7年といたしますが、よろしいでしょうか。
【返答】伺いのとおりでよい。
(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
無宿で入墨をしている熊蔵(宮後西河原町の源四郎の伜)に対する刑についてお伺いします。
〈前科〉
①元治元年(子年)12月に盗みを行い、吟味の上、敲50回の刑に処しました。
親の源四郎に引渡しましたが、熊蔵の身持ちがよろしくなく、慶応元年(丑年)10月に家出をし、無宿となりました。
②再び盗みをしたことから、慶応二年(寅年)6月に召し捕らえ、吟味の上、敲100回の刑に処しました。
〈本件犯行〉
①去年(卯年)6月ころ、宮後西河原町の脇田宅で銀札3両と3匁を盗みました。
②同年9月ころ、吹上町の信州吉で銀札1両と丸餅30個を盗み、餅は食べてしまいました。
③本年(明治元年辰年)2月ころ、宮後西河原町の又兵衛方で木綿綿入れ一つ、同袷一つ、同単物二つを盗み、綿入れ一つと単物一つは氏名不詳者に銀18匁で売ってしまいました。
④同月、一志久保町の半兵衛方で、八丈縞綿入れ一つ、木綿女浴衣一つ、金巾一つ、同切れ三つ、唐織羽織一つ、金巾腹当て一つを盗み取りました。
⑤同月ころ、江州水口在の氏名不詳者宅で、脇差し二腰、御召羽織一つ、木綿袷一つを盗み取りました。
⑥同年閏4月28日ころ、吹上町の氏名不詳者宅で、二分金5両、銀札1両と3匁を盗み取りました。
⑦同年5月晦日夜、一志久保町の次郎兵衛方で、二朱金26両2朱、銀札30両を盗み取りました。
熊蔵が山田町を徘徊していたところを召し捕らえて取り調べたところ、このような盗みをしたことが分かりました。
被害合計は、金105両3分、銀9匁であり、熊蔵を召し捕らえたときは、39両2朱と銀3匁等しか所持しておりませんでした。
他にも余罪があるのではないかと追及しましたが、これ以外はやっていないとのことです。この者本来は死罪とすべきですが、今般大赦がありましたので、一等を減じて流罪7年といたしますが、よろしいでしょうか。
【返答】伺いのとおりでよい。
【コメント】
・度会府からの伺いです。度会府は慶応4年
7月6日に設置されました。伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。
・なお、度会府は明治2年7月(1869年)には、 度会県に改称しています。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・熊蔵の実家があった宮後西河原町は「みやじりにしかわらまち」と読み、現在でも伊勢市には宮後町があります。
・熊蔵には2回前科があり、いずれも盗み。最初は敲50回でしたが、2回目は敲100回。前科に関する文章には入墨の刑への言及がありませんが、熊蔵が入墨をしているのは、盗みに伴う刑によるものだった可能性もあります。敲の刑については以下のサイトが参考になります。
・窃盗については、公事方御定書で、10両以上の窃盗は死罪と定められており、明治元年10月に「倉庫破りをしたが窃盗には至らなかった場合は笞50回、盗みをした場合は被害金額が20金以下であれば笞百回」との修正が加えられています(刑律改定についての行政官布告)。20両超は死罪なので、熊蔵も本来は死罪となります。
・しかし、明治に大赦が出されており、①明治元年となった年の正月以前の犯罪であれば大赦となり、②9月8日以前の犯行であれば、罪一等を減じるというルールになっています。明治元年の犯罪かあるため、一等を減じて流罪となっているのです。