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弟子とのトラブル増える 嘉永7年6月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年06月27日 | 大原幽学の刑事裁判
弟子とのトラブル増える 嘉永7年6月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年6月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・節五郎殿は脚気治療の高橋医者に行かれた。
・晩に節五郎殿と伊兵衛父が羽織を来て辻番へ。幽学先生は、「羽織を来て行くなと以前も言ったはず。反省もせずに、同じことをするのか。不義理である」とご不満である。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・節五郎は脚気治療で高橋医師方へ通院。脚気は江戸時代において非常に多くの人が悩まされていた病気です。
・晩には節五郎殿と伊兵衛父が羽織を来て辻番の仕事へ。羽織は、当時の正装で、理由があれば羽織着用は一般的には問題ないのですが、幽学先生は羽織着用は贅沢として、禁止しています。

〈その他の記事〉
・(五郎兵衛は、)早朝、佐竹様の辻番に惣右衛門殿の道具を取りに行った。
・昼からは節五郎殿が来られ、脚気治療の為に高橋医者に行き、夕方に戻られた。その時分に正太郎殿と新四郎殿も来られた。

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嘉永7年6月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・昨夜辻番の仕事をしてきた伊兵衛父は、今日も長部村の役所の用事で外出。
・良祐殿と正太郎殿は帰村することに決めたそうだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
これまでは幽学先生と五郎兵衛は借家に住み、他の道友は辻番等の仕事を住込みでしていました。しかし、伊兵衛等仕事を辞める者が出てきて、従前とは様相が変わって来ています。伊兵衛父は役所と何事かを折衝していますし、良佑やは帰村を決めています。

〈その他の記事〉
・正太郎殿と新四郎殿は本日も借家におられた。
・朝早く惣右衛門殿は藪様の仲番の仕事に行かれた。
・昼過ぎ幸左衛門殿が来られ、本日借家に泊まり。



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嘉永7年6月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生の愚痴。「(幸左衛門殿に)朝の豆腐揚げの買い方がケチになっているようだぞ。食べるときに嫌な気持ちになる。誠に困った」
・良佑が帰村するのと交替で良左衛門君(良佑の父)が江戸に出てくる。これを聞き、幽学先生は安心された。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は、幸左衛門殿に、「朝の豆腐揚げの買い方がケチになっているようだぞ。」とグチってますが、どうも幽学先生細かいことにこだわり過ぎです。長期の江戸滞在(しかも待機)を余儀なくされ、精神的に敏感になっているようです。一番弟子の良左衛門が江戸に来れば安定するでしょうか。

〈その他の記事〉
・朝食後、幽学先生から道のことにつきお話しがあった。「予は日々見たり聞かせたりしているから全然自分の為にならないのだ。誰かがどう考え、今どのように考えて、今後はどのように考えるかが、すーっとわかるようでなければならない。」
・昼から幽学先生は、正太郎殿と良祐殿に話しをされた。「良祐が帰村するということは、父親の良左衛門が江戸に来ることになるから、その間の村は良佑と正太郎と二人で引き受けることになる。問題が解決するまで骨を折って事に当たるように。出来ないことなどないと思いなさい。」と、これまでにも仰ったことを再度噛んで含めてお教えになった。正太郎殿と良祐殿は「必死になって事にあたる所存です」と決意を述べられた。
・良佑の代わりに良左衛門君が江戸に出てくることを聞き、幽学先生も安心された。先生は、「門人は4000人余りいるが、親子そろって予の志を受け継いでくれるのは、良佑と正太郎しかいないであろうな。予は18歳から艱難辛苦に、妻子も持たずにやってきた。これまでのことを後悔することはないが、お前たちがそのような覚悟であるならば、きっと良い方向に進むであろう」と仰られた。
・幽学先生は小生に、「干潟の荒部兄弟は自分勝手この上ないが、五郎兵衛は荒部兄弟の仕事の10分の1も出来ないな。以後は、良左衛門を見習うように」と仰られた。



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嘉永7年6月14日(1854年)
・伊兵衛父は、朝早く御役所へ出かけて行った。
・惣右衛門殿と節五郎は昨晩借家に泊まり、両名とも午前中には仕事場に戻られた。
・小生は旗本の石川様屋敷の新部屋へ米を取りに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が旗本の石川様屋敷の新部屋に米を取りに行くという記事が先月あたりから何回か記事になっています(初出は5月15日条)。旗本の石川様には良祐や節五郎が働いています。彼らが働くことになったのは、長左衛門の口利きによるので、その辺りのコネで米を取りに行くようになったのかもしれません。

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嘉永7年6月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
神谷様が幽学先生にご相談に来られた。御内室の実家で火災があったとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「神谷様」というのは水戸藩の隠密。高松力蔵の知り合いで幽学先生のところに来ましたが、家庭内で色々と問題があったらしく、その後御内室も一緒に幽学先生のいる借家に来るようになり、幽学先生を頼るようになっています。

〈その他の記事〉
・正太郎殿と新四郎殿が帰村。朝早くに江戸を立たれた。
・昼に高松力蔵様が借家に来られた。
・昼過ぎに武左衛門と又左衛門殿が来られた。

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嘉永7年6月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生と良祐殿は、牛込の神谷様方へ行かれた。昼には幽学先生はお戻りになり、小生と二人で髪結いをした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日神谷様(水戸藩隠密)が相談に来られたからか、幽学先生は良佑殿と神谷様方を訪れています。相談内容が御内室の実家の火事のことでしたから、御内室と話しをしようと思ったのかもしれません。幽学先生は単独行動が多いのですが、今日は良佑殿を連れて行っています。

〈その他の記事〉
・又左衛門殿は小石川の高松様方へ行かれた。
・伊兵衛父は昼から医学館の辻番へ碁を打ちに行った。
・晩に節五郎殿が来て借家に泊まった。

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嘉永7年6月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は小石川の高松様方へ疱瘡見舞いに行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
小石川の高松様方で疱瘡(天然痘)に罹患した人が出たようです。幽学先生はお見舞いに行っています。天然痘は感染症で空気感染、飛沫感染をしますから、現代の医学常識からすれば、患者は隔離すべきもの。お見舞いに行くのは感染の危険性を増大させることになりますが、この時代、そのような発想はなかったようです。

〈その他の記事〉
・節五郎殿が早朝に高橋(脚気の医者)へ行 き、薬を買ってきた。
・武左衛門殿が借家に来られた。
・良佑殿が番町の幸左衛門殿方へ行かれた。
・昼に惣右衛門殿が来て借家に泊まられた。
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嘉永7年6月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・惣右衛門殿は、朝早く本所へ行き、用事を済ませた後、昼前に職場に戻られた。
・昼過ぎ、神谷様の御内室がいらっしゃった。
・昼前に幸左衛門殿来る。また、長左衛門殿も来て碁打ち。両名とも借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も神田松枝町の借家は今日も人が出入りしています。幽学先生の行動が記録されていない日もありますので、五郎兵衛日記は師の幽学先生の言行を記録するというよりは、関係者の出入りの記録、自分の覚えの為に記録されたものといえるでしょう。


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嘉永7年6月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿は幽学先生から奢っていると指摘されたが、それに腹を立て、先生の御思召を蹴飛ばして、「勤めて御目にかけます」と捨て台詞を残して職場に戻ってしまった。
幽学先生は、「こういう奢り根性が抜けない者は事業をやっても成功しない」と仰られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・幸左衛門殿が幽学先生の教えに対して反抗的な態度を取ってぷいと席を立ってしまいました。五郎兵衛は、「先生の御思召を蹴飛ばして」となかなか激しい表現でこのことを記しています。
・幸左衛門は「性質は柔和・沈着・実直・胆量のあるもの」といわれただけの人物であり、これまでもこのような態度をとったことはありませんでした。よほど幽学先生の言葉が理不尽だと感じたのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/9b8f49b505f8e1459227f2465d2228b1

〈その他の記事〉
・長左衛門殿は早朝に自宅に戻られた。
・伊兵衛父から小生に、「良左衛門のようになるには、先生の気持ちを助ける心掛けで、何年も自分のものとして引き受けなくてはいけない。俺がしたことても遠慮なく叱ってくれるようでないとな」との話しがあった。
・晩に節五郎殿が来て借家に泊まられる。
・幽学先生から皆へ単物一枚ずつを褒美として下された。


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嘉永7年6月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生はお疲れのため、保養で昼から3時間ほど散歩に行かれた。
・武左衛門殿が奉公先から王子詣でをしてきた。王子からの帰り際に松枝町の借家に立ち寄られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「王子詣で」
王子には王子神社や王子稲荷があり、後者は関東稲荷総社の格式を持っています。江戸時代より庶民に親しまれた神社です。また、江戸時代から桜の名所である飛鳥山があり、王子周辺は江戸庶民の娯楽の場でもありました。

〈その他の記事〉
・御成のため、節五郎殿は早朝に職場に戻られた。
・昼過ぎ、高松力蔵様が、太郎様の疱瘡祝いに赤飯を持参された。

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