文政10年11月下旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政10年11月21日(1827年)
昨日は小寒。先日かなり寒いときがあったが、寒に入ったというのに暖かい日であった。気温が高く、天候不順である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
11月8日に「寒気はじめて甚だし」との記事ある、それ以降少し暖かくなったようです。小寒は今の暦ですと1月5日、6日あたりですから寒くて当りまえなのですが、暖冬のようであり、天候不順です。天保は刻々と近づいてきています(天保まであと2年)。
文政10年11月8日(1827年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) November 7, 2022
・夜になってから川口で隠居している祖父のところに行き、昨日間原様から要請のあった土地のことにつき相談。
・寒気甚だし。霜月になってからはじめて。#色川三中 #家事志
文政10年11月22日(1827年)
#色川三中 #家事志
(編集より)本日、三中先生は都合により休筆です。
文政10年11月23日(1827年)晴
家にある太閤記は寛永2(1625)年のもので、太閤御他界からわずか36年後の出板物。わずか十巻、簡潔で無駄がない。最近の太閤記とは異なり、文章は簡にして、味がある。写本にして世に広めたいものである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
太閤記は江戸時代でもベストセラー。当初は十巻の簡潔なものでしたが、その後書き足されて冗長になった、昔の方が文章は簡にして、味があるというのが三中の考えです。
なお、太閤(豊臣秀吉)死去は1598年ですので、寛永2年(1625年)はどう考えても36年にはなりませんが、三中先生の計算違いか「三十六年」とお書きになっています。
文政10年11月24日(1827年)
昨夕、沼尻から書状が届き、夜六つ半時に沼尻宅に赴いた。昨夕は二十三夜待ちでもあり、7~8人が集まった。しじみ汁で夜飯を食べ、九つ半過ぎ時に帰宅した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
二十三夜待ちとは、旧暦23日に子(ね)の刻ごろ(午前0:00前後)に上る下弦の月を待つもの。いい大人が大っぴらに夜ふかしをしてもよい日です。7~8人が集まって、夜飯はしじみ汁。楽しそうです。
〈沼尻〉は沼尻 墨僊(ぬまじり ぼくせん)のことかと。江戸時代後期の地理学者、天文学者。1775年4月14日 - 1856年5月29日。1827年には42歳。土浦の知的サークルの様子が垣間見える記事です。
文政10年11月25日(1827年)晴
朝五つ過ぎ、伊勢屋が伊兵衛と共に
、江戸崎鍋屋との公事(訴訟)の件で、川口の隠居(祖父)を訪ねてこられた。御隠居は江戸に行って留守であり、晦日にならなければ帰ってこない旨申し上げると、「では改めて参ります。御隠居によろしく。」といって帰られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
弁護士という制度がないので、地方では公事(訴訟)ということになると、それに詳しい人のところに相談に行ったようです。本日のエピソードは、川口の隠居(三中の祖父)が訴訟に詳しいことを示唆しています。
文政10年11月26日(1827年)
昨夕、高砂屋から新宅一件の話があった。「23日の夜に新宅の方に一人で行ってきて話をした。新宅には『吉日であり示談した方がよい』という趣旨の話をした。」とのこと。高砂屋が一人で行ったのは、一緒にいこうとした者の体調が悪かったからだそうな。
#色川三中 #家事志
(コメント)
高砂屋さんに新宅の件を依頼したのは11月19日。交渉に行ってくれたのは4日後の23日の夜。交渉内容は『吉日だから示談した方がよい』というものですが、このような交渉ではあまり効果的とは思えません…。
文政10年11月19日(1827年)曇 庚申
— 断感ろーれんす (@tk23956) November 18, 2022
昼四つ半時(午前11時)、高砂屋清左衛門殿が来られて、新宅に関する紛争の件について話した。#色川三中 #家事志
文政10年11月27日(1827年)雨
#色川三中 #家事志
(編集より)三中先生は本日の天気を「雨」としるしたまま、本文をお書きになられませんでした。
文政10年11月28日(1827年)晴
米四(米屋四郎兵衛)の件について、釜甚に交渉を依頼した。金20両は中村の山を渡し、10両は沈南蘋の掛物を渡すことで、残り25両は十年の分割弁済という内容で示談をするよう依頼した。釜甚は明日には米四と交渉すると言っていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
債権者米四(米屋四郎兵衛)との交渉もいよいよ終わりに近づいてきたようで、はっきりした数字を三中も出しています。沈南蘋の掛物は米四に対して代物弁済するつもりだだったことが、ここではっきりわかりました。
文政10年11月29日(1827年)快晴
不成日ではあるが、米四(米屋四郎兵衛)の件について、釜甚、隣主人とが交渉を行ってくれた。合意が成立しそうであり、内容について打合せをした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
暦では不成日だったようですが、熱心に友人が交渉を行ってくれたおかげで、ついに米四(米屋四郎兵衛)と合意ができそうです。
不成日は、不成就日ともいい、何事も成就しない日とされていて、あらゆることが凶とされる日です。「不成日ではあるが」というフレーズは以前にも使っています。気にかかるんでしようね。
1827年4月4日(文政10年)不成日
— 断感ろーれんす (@tk23956) April 3, 2022
不成日ではあるが、入夜、色川茂八に中高津の田地4箇所の売却の世話を頼んだ。#色川三中#家事志
文政10年11月30日(1827年)
川口の隠居(三中の祖父)は今月20日から江戸に行っていたが、昨夜土浦に戻った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦から江戸までは60キロ以上ありますが、一泊二日の行程だと思われますが、三中の日記を見ていると江戸との往来は活発ですね。三中はこの年26歳なので、祖父はそれなりの歳のはずですが、江戸往復もなんなくこなしています。
文政10年11月25日(1827年)晴
— 断感ろーれんす (@tk23956) November 24, 2022
朝五つ過ぎ、伊勢屋が伊兵衛と共に、江戸崎鍋屋との公事の件で、川口の隠居(祖父)を訪ねてこられた。御隠居は江戸に行って留守であり、晦日にならなければ帰ってこない旨申し上げた。「では改めて参ります。御隠居によろしく。」といって帰られた。#色川三中 #家事志