古典から始める レフティやすおの楽しい読書(まぐまぐ!)
【最新号】
2025(令和7)年4月30日号(vol.18 no.7/No.387)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)陶淵明(10)
詩風の変化を見る(2)「乞食」」
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◇◆◇◆ 古典から始める レフティやすおの楽しい読書 ◆◇◆◇
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2025(令和7)年4月30日号(vol.18 no.7/No.387)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)陶淵明(10)
詩風の変化を見る(2)「乞食」」
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「中国の古典編―漢詩を読んでみよう」陶淵明の10回目です。
いよいよ陶淵明編もゴール間近というところでしょうか。
今回は、『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より
詩風の変化について、晩年の三首目「乞食」の詩を読んでみます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◆ 折にふれて ◆
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)
~ 陶淵明(10) ~ 詩風の変化を見る(2)
「乞食」=「食を乞ふ」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今回の参考文献――
『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より

●「食を乞ふ」
亡くなる前年、六十二歳の作といわれる詩で、
最晩年に到達した境地がみえる……。
《文字通りに読むととんでもない詩》で、貧乏で空腹に耐えられず、
見知らぬ家の門を叩き、そこの主人から恵んでもらい、
その主人と意気投合して酒まで飲み、作った詩だと。
現実には、陶淵明さんは、最後まで家族や使用人と荘園で暮らし、
これはフィクションだろう、といわれているそうです。
一方で、「食を乞う」とは、官職を求めたことへの例え、
という説もあるようです。
これも、官職に復帰していないので、いかがなものか、
と宇野さんの解説です。
・・・
乞食 食(しよく)を乞(こ)ふ 陶淵明
飢来駆我去 飢(う)ゑ来(きた)つて我を駆(か)り去(さ)り
不知竟何之 知(し)らず 竟(つい)に何(いづ)くにか之(ゆ)く
行行至斯里 行(ゆ)き行(ゆ)きて斯(こ)の里(さと)に至(いた)り
叩門拙言辞 門(もん)を叩(たた)いて言辞(げんじ)拙(せつ)なり
空腹が募って私を追い立てる
いったいどこへ行くというのか
ずいぶん遠くまで歩いてこの村里に到着し
或るお宅の門をたたいたが、言葉がうまく出て来ない
「知らず」は、《疑問符の上について「いったいぜんたい」と
疑問を協調する副詞》。
「行き行きて」は《“どこまでもどこまでも歩いた”という雰囲気》。
「食べ物をください」とは言い出せなかった。
主人解余意 主人(しゆじん) 余(よ)が意(い)を解(かい)し
遺贈豈虚来 遺贈(いぞう)あり
豈(あに) 虚(むな)しく来(きた)らんや
談諧終日夕 談(だん)諧(かな)うて日夕(につせき)を終(お)へ
觴至輒傾杯 觴(しょう)至(いた)れば
輒(すなは)ち杯(さかづき)を傾(かたむ)く
この家の主人は私の気持ちをわかって下さり
贈り物を下さったので、私は無駄に来たことにはならなかった
私たちは話が合い、夕方の時間帯を過ごしてしまい、
さらに酒が出て来たので、さっそく杯を傾けることとなった
「遺」「贈」も“物を授ける、贈る”の意味。
「豈」は否定詞の「不」に置き換えるとわかりやすく、
「虚しく来たのではない、ちゃんと収穫はあった」という意味に。
「輒ち」は、“さっそく”の意味。
情欣新知歓 情(こころ)に新知(しんち)の歓(かん)を欣(よろこ)び
言詠遂賦詩 言詠(げんえい)して遂(つひ)に詩(し)を賦(ふ)す
感子漂母恵 子(し)が漂母(ひようぼ)の恵(めぐ)みに感(かん)じ
愧我非韓才 我(わ)が韓才(かんさい)に非(あら)ざるを愧(は)づ
私は心中、新しい親友が出来た喜びをうれしく思い
語り合い、歌を歌い、そして詩を作った
ご主人様、いにしえの洗濯婆さんのようなあなたのお恵みに、
私は心を打たれました
しかしこの私は、韓信のような才能ある人物ではない、
それが恥ずかしい
次の四句は、お酒が入って興に乗り、詩を作って感謝する展開。
「言詠」の二字で“歌をくちずさむ”。
「子」は二人称で“あなた”。「漂母」は《秦末に劉邦に仕え、
漢王朝を建てるのに功績のあった韓信の故事》だそうです。
彼が若い頃、食うのにも困っていたとき、ご馳走してくれた婆さんに、
出世した後に恩返しをした、という。
銜戢知何謝 銜戢(かんしゆう)して
知(し)る 何(なに)をか謝(しや)せん
冥報以相貽 冥報(めいほう) 以(もつ)て相(あひ)貽(おく)らん
今はこのまま黙ってご恩を胸におさめておいて、
さていったい、どのようにお礼をしましょうか
後の世のご恩返しによってあなたに報いることにしましょう
最後の二句は、“しょうがないからお礼は来世にします”と、
居直った感じだ、といいます。
「銜収」は、「銜」は“黙って胸におさめる”、
「戢」は“おさめておく”。
「知る」も疑問視の上に置いて、疑問を強調。
●『漢詩を読む 1』宇野直人さんの解説
《実体験ではなく、“こうあったらいいなあ”という願望や理想を、
イメージ優先で書いたのではないでしょうか。》p.398
といい、
《彼の詩はだいたい全生涯を通して、そのときどきの願望やイメージに
のっとって作られたフシがあります。》同
すなわち、陶淵明さん=「私小説作家」という捉え方が生きてくる、
といいます。
陶淵明さんは、私小説の主人公になって、酒を飲みながらフィクションを
書いて楽しんでいたのかも、というのが、宇野さんの解説です。
最晩年に至るまで、陶淵明さんは、《何か愛に飢えていたのかな》p.399。
広い意味で不満があった。
この詩のはじめの四句――ふらふら歩いて行くうちに、理想的な村里に
出くわした――は「桃花源記」と同じだといいます。
《陶淵明は異郷譚の形を詩に取りこんで、願望を述べたことになるで
しょう。》p.399
前回からここまでに読んだ三つの詩について、
最後の二句が似たニュアンスを持っている――
《陶淵明の詩は、ちょっと投げやりな、どうでもいいような表現が案外
多いんです。こだわりがなくさっぱりしているとも言えますが、
実は彼は農村生活の中で、やはり何か、求めて得られない虚しさが
ずっと胸の中にあったんじゃないでしょうか。ちょっと痛々しい
ような気もします。》p.399
*参照:「桃花源記」
2024(令和6)年9月30日号(vol.17 no.17/No.374)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(30)陶淵明(7)空想の世界で
「読山海経十三首」「桃花源記」」
『レフティやすおのお茶でっせ』2024.9.30
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(30)陶淵明(7)空想の世界で
-楽しい読書374号
https://lefty-yasuo.tea-nifty.com/ochadesse/2024/09/post-0b7f46.html
https://blog.goo.ne.jp/lefty-yasuo/e/078ba7fdddff1f49484822cdd3073d33
●林田慎之介訳注『陶淵明全詩文集』の解説
次に林田慎之介さんの解説を引用しましょう。
《 陶淵明詩集で気になる一篇の詩がある。「乞食」と題する五言古詩
である。(略)古今東西、どんな詩人でも乞食を主題とする詩は
残していない。(略)》p.572
《「乞食」は時に飢えと寒さにさらされることがあったと歌っている
陶淵明自身の投影であったにちがいない。自分の乞食している
想像上の姿でなければ、一篇の詩に書きのこす必要はなかったで
あろう。「乞食」の詩を自分の日常詩としてどうしてものこして
おきたいというのが、淵明の考えだったとみることの方が自然で
ある。/「桃花源記」には人里と隔絶された桃源郷が描かれている。
そこには平和で豊かな農村と農民の暮らしがある。時代を超え、
時間の存在さえ忘れて暮らしを楽しんでいる農民たちの農村生活
そのものが、陶淵明にとって桃源郷であったのだ。「乞食」の詩と
併せ読むと、陶淵明が「桃花源記」を描かねばならぬ必然性が
見えてくるであろう。》p.573
『陶淵明 全詩文集』林田慎之助/訳注 ちくま学芸文庫 2022/1/8

●陶淵明さんの詩
陶淵明さんは、このように私小説家のごとく、日常の生活の中から、
自分の思いを詩に書き残したのでしょう。
何かしら満たされない日々の思い、愁いなどを、時に空想に遊びながら、
詩に書き、酒を飲んで紛らわそうとしたのかも知れません。
そういうところが、現代人にも受けるところなのでしょうか。
いよいよ本書『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』の
陶淵明の章もおしまいに近づいてきました。
次回は、隠居生活を始めた直後の意気盛んな頃の「帰去来の辞」を
紹介します。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)陶淵明(10)詩風の変化を見る(2)「乞食」」と題して、今回も全文転載紹介です。
本文中にも書いていますが、陶淵明編もいよいよ終わりに近づいてきました。
今回は少し短い一本になっていますが、陶淵明最終ラウンドは、長めの詩を扱うので、一回では納まりきらないようです。
今しばらく続くかも……。
・・・
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『レフティやすおのお茶でっせ』
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『レフティやすおのお茶でっせ』より転載
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)陶淵明(10)「乞食」-楽しい読書387号
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詩風の変化を見る(2)「乞食」」
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「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)陶淵明(10)
詩風の変化を見る(2)「乞食」」
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いよいよ陶淵明編もゴール間近というところでしょうか。
今回は、『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より
詩風の変化について、晩年の三首目「乞食」の詩を読んでみます。
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中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)
~ 陶淵明(10) ~ 詩風の変化を見る(2)
「乞食」=「食を乞ふ」
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今回の参考文献――
『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より

●「食を乞ふ」
亡くなる前年、六十二歳の作といわれる詩で、
最晩年に到達した境地がみえる……。
《文字通りに読むととんでもない詩》で、貧乏で空腹に耐えられず、
見知らぬ家の門を叩き、そこの主人から恵んでもらい、
その主人と意気投合して酒まで飲み、作った詩だと。
現実には、陶淵明さんは、最後まで家族や使用人と荘園で暮らし、
これはフィクションだろう、といわれているそうです。
一方で、「食を乞う」とは、官職を求めたことへの例え、
という説もあるようです。
これも、官職に復帰していないので、いかがなものか、
と宇野さんの解説です。
・・・
乞食 食(しよく)を乞(こ)ふ 陶淵明
飢来駆我去 飢(う)ゑ来(きた)つて我を駆(か)り去(さ)り
不知竟何之 知(し)らず 竟(つい)に何(いづ)くにか之(ゆ)く
行行至斯里 行(ゆ)き行(ゆ)きて斯(こ)の里(さと)に至(いた)り
叩門拙言辞 門(もん)を叩(たた)いて言辞(げんじ)拙(せつ)なり
空腹が募って私を追い立てる
いったいどこへ行くというのか
ずいぶん遠くまで歩いてこの村里に到着し
或るお宅の門をたたいたが、言葉がうまく出て来ない
「知らず」は、《疑問符の上について「いったいぜんたい」と
疑問を協調する副詞》。
「行き行きて」は《“どこまでもどこまでも歩いた”という雰囲気》。
「食べ物をください」とは言い出せなかった。
主人解余意 主人(しゆじん) 余(よ)が意(い)を解(かい)し
遺贈豈虚来 遺贈(いぞう)あり
豈(あに) 虚(むな)しく来(きた)らんや
談諧終日夕 談(だん)諧(かな)うて日夕(につせき)を終(お)へ
觴至輒傾杯 觴(しょう)至(いた)れば
輒(すなは)ち杯(さかづき)を傾(かたむ)く
この家の主人は私の気持ちをわかって下さり
贈り物を下さったので、私は無駄に来たことにはならなかった
私たちは話が合い、夕方の時間帯を過ごしてしまい、
さらに酒が出て来たので、さっそく杯を傾けることとなった
「遺」「贈」も“物を授ける、贈る”の意味。
「豈」は否定詞の「不」に置き換えるとわかりやすく、
「虚しく来たのではない、ちゃんと収穫はあった」という意味に。
「輒ち」は、“さっそく”の意味。
情欣新知歓 情(こころ)に新知(しんち)の歓(かん)を欣(よろこ)び
言詠遂賦詩 言詠(げんえい)して遂(つひ)に詩(し)を賦(ふ)す
感子漂母恵 子(し)が漂母(ひようぼ)の恵(めぐ)みに感(かん)じ
愧我非韓才 我(わ)が韓才(かんさい)に非(あら)ざるを愧(は)づ
私は心中、新しい親友が出来た喜びをうれしく思い
語り合い、歌を歌い、そして詩を作った
ご主人様、いにしえの洗濯婆さんのようなあなたのお恵みに、
私は心を打たれました
しかしこの私は、韓信のような才能ある人物ではない、
それが恥ずかしい
次の四句は、お酒が入って興に乗り、詩を作って感謝する展開。
「言詠」の二字で“歌をくちずさむ”。
「子」は二人称で“あなた”。「漂母」は《秦末に劉邦に仕え、
漢王朝を建てるのに功績のあった韓信の故事》だそうです。
彼が若い頃、食うのにも困っていたとき、ご馳走してくれた婆さんに、
出世した後に恩返しをした、という。
銜戢知何謝 銜戢(かんしゆう)して
知(し)る 何(なに)をか謝(しや)せん
冥報以相貽 冥報(めいほう) 以(もつ)て相(あひ)貽(おく)らん
今はこのまま黙ってご恩を胸におさめておいて、
さていったい、どのようにお礼をしましょうか
後の世のご恩返しによってあなたに報いることにしましょう
最後の二句は、“しょうがないからお礼は来世にします”と、
居直った感じだ、といいます。
「銜収」は、「銜」は“黙って胸におさめる”、
「戢」は“おさめておく”。
「知る」も疑問視の上に置いて、疑問を強調。
●『漢詩を読む 1』宇野直人さんの解説
《実体験ではなく、“こうあったらいいなあ”という願望や理想を、
イメージ優先で書いたのではないでしょうか。》p.398
といい、
《彼の詩はだいたい全生涯を通して、そのときどきの願望やイメージに
のっとって作られたフシがあります。》同
すなわち、陶淵明さん=「私小説作家」という捉え方が生きてくる、
といいます。
陶淵明さんは、私小説の主人公になって、酒を飲みながらフィクションを
書いて楽しんでいたのかも、というのが、宇野さんの解説です。
最晩年に至るまで、陶淵明さんは、《何か愛に飢えていたのかな》p.399。
広い意味で不満があった。
この詩のはじめの四句――ふらふら歩いて行くうちに、理想的な村里に
出くわした――は「桃花源記」と同じだといいます。
《陶淵明は異郷譚の形を詩に取りこんで、願望を述べたことになるで
しょう。》p.399
前回からここまでに読んだ三つの詩について、
最後の二句が似たニュアンスを持っている――
《陶淵明の詩は、ちょっと投げやりな、どうでもいいような表現が案外
多いんです。こだわりがなくさっぱりしているとも言えますが、
実は彼は農村生活の中で、やはり何か、求めて得られない虚しさが
ずっと胸の中にあったんじゃないでしょうか。ちょっと痛々しい
ような気もします。》p.399
*参照:「桃花源記」
2024(令和6)年9月30日号(vol.17 no.17/No.374)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(30)陶淵明(7)空想の世界で
「読山海経十三首」「桃花源記」」
『レフティやすおのお茶でっせ』2024.9.30
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(30)陶淵明(7)空想の世界で
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https://lefty-yasuo.tea-nifty.com/ochadesse/2024/09/post-0b7f46.html
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●林田慎之介訳注『陶淵明全詩文集』の解説
次に林田慎之介さんの解説を引用しましょう。
《 陶淵明詩集で気になる一篇の詩がある。「乞食」と題する五言古詩
である。(略)古今東西、どんな詩人でも乞食を主題とする詩は
残していない。(略)》p.572
《「乞食」は時に飢えと寒さにさらされることがあったと歌っている
陶淵明自身の投影であったにちがいない。自分の乞食している
想像上の姿でなければ、一篇の詩に書きのこす必要はなかったで
あろう。「乞食」の詩を自分の日常詩としてどうしてものこして
おきたいというのが、淵明の考えだったとみることの方が自然で
ある。/「桃花源記」には人里と隔絶された桃源郷が描かれている。
そこには平和で豊かな農村と農民の暮らしがある。時代を超え、
時間の存在さえ忘れて暮らしを楽しんでいる農民たちの農村生活
そのものが、陶淵明にとって桃源郷であったのだ。「乞食」の詩と
併せ読むと、陶淵明が「桃花源記」を描かねばならぬ必然性が
見えてくるであろう。》p.573
『陶淵明 全詩文集』林田慎之助/訳注 ちくま学芸文庫 2022/1/8

●陶淵明さんの詩
陶淵明さんは、このように私小説家のごとく、日常の生活の中から、
自分の思いを詩に書き残したのでしょう。
何かしら満たされない日々の思い、愁いなどを、時に空想に遊びながら、
詩に書き、酒を飲んで紛らわそうとしたのかも知れません。
そういうところが、現代人にも受けるところなのでしょうか。
いよいよ本書『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』の
陶淵明の章もおしまいに近づいてきました。
次回は、隠居生活を始めた直後の意気盛んな頃の「帰去来の辞」を
紹介します。
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本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)陶淵明(10)詩風の変化を見る(2)「乞食」」と題して、今回も全文転載紹介です。
本文中にも書いていますが、陶淵明編もいよいよ終わりに近づいてきました。
今回は少し短い一本になっていますが、陶淵明最終ラウンドは、長めの詩を扱うので、一回では納まりきらないようです。
今しばらく続くかも……。
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