古典から始める レフティやすおの楽しい読書(まぐまぐ!)
【最新号】
2025(令和7)年5月15日号(vol.18 no.8/No.388)
「私の読書論196-<後世への最大遺物>としての紙の本を!」
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◇◆◇◆ 古典から始める レフティやすおの楽しい読書 ◆◇◆◇
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2025(令和7)年5月15日号(vol.18 no.8/No.388)
「私の読書論196-<後世への最大遺物>としての紙の本を!」
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ここんところ、この「私の読書論」では、もっぱら<町の本屋論>を
新聞や書籍の情報を紹介しながら、私なりの本屋論を語ってきました。
今回は、そちらはいったんお休みして、私個人について書いておこう、
と思います。
実はこの4月はけっこう色々なことがありました。
70歳を超えたぐらいの年齢になりますと、何かがあったと言えば、
思い浮かぶのは、四苦八苦のうちの「病死」ということになりますが、
まあ、それに似たもので、「別れ」ですね。
いくつかの別れの時が来てしまったのです。
で、その時に思ったことがありました。
今回はそれについて書いて見よう、と思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 私の読書論196 -
~ <後世への最大遺物>としての紙の本を! ~
内村鑑三『後世への最大遺物』を紹介しながら……
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
●「四苦八苦」
仏教では、人は生まれながらに八つの「苦」を背負っている、
と教えます。
人生において避けては通れない、人間の根源的な苦しみですね。
何かがうまく行かずに苦労するときに、「四苦八苦」する、
といった言い方をします。
この「四苦八苦」とは、仏教の言葉です。
「四苦」とは、生老病死。
生苦(しょうく):人は「生まれ」を選ぶことができません。
老苦(ろうく):日々年老いてゆくことを止められません。
病苦(びょうく):いつどんな病気にかかるかわかりません。
死苦(しく):人は必ず訪れる死をまぬがれることはできません。
さらに次の四つの句を合わせて、「八苦」といいます。
愛別離苦(あいべつりく):愛する人との別れの苦しみ
求不得苦(ぐふとくく):欲しいもの、求めるものを得られない苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく):嫌なことや嫌いな人と出会う苦しみ
五陰盛苦(ごおんじょうく):
自分の体や心が思いのままにならない苦しみ
今回私はいくつかの別れ、失うことがありました。
人はそういう喪失感に陥るとき、色々と考えるものではないでしょうか。
●生きてきた証として遺すもの
人として生きてきた証をほしい、と強く思うようになりました。
以前からそういう思いはありました。
誰でもそうでしょう。
何かしら自分がこの世に生きてきた証を遺しておきたい、と思うことが。
・・・
内村鑑三さんの名著(だと思っている!)に
『後世への最大遺物』という講演録があります。
ご存知のように、内村鑑三さんは、クラーク博士の
「ボーイズ・ビー・アンビシャス」“Boys, be ambitious!”
で有名な札幌農学校の第二期生で、
『武士道』や昔の五千円札で有名な新渡戸稲造さんらと同級生です。
新渡戸さんがどちらかといいますと、表舞台で活躍したのに比べますと、
内村さんのほうは、少し裏道といいますか、
ちょっと日陰の存在のような印象があります。
不敬事件が影響しているせいもあるか、と思います。
内村さんの著作では、『代表的日本人』が有名です。
この本を、弊誌
*参照:
2009(平成21)年12月31号(No.29)-091231-
『代表的日本人』内村鑑三―I for Japan
で紹介する際に、評伝とともに、
『余は如何にして基督信徒となりし乎』と本書を読みました。
50代半ばぐらいでしたか。
それ以来、私の人生の一つの目標のようになっているのです。
『後世への最大遺物』は、青空文庫でも読めます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/519_43561.html
これは、明治二十七年七月の夏季学校での講演録ということで、
非常に読みやすく、難しいところのない、短い作品です。
私の持っているのは、岩波文庫版の二本立ての
『後世への最大遺物 デンマルク国の話』という本です。
・『後世への最大遺物 デンマルク国の話』内村鑑三 岩波文庫 改版
(解説=鈴木範久) 2011/9/17

●『後世への最大遺物』
前半が『後世への最大遺物』です。
その本の巻末の鈴木範久さんの「解説」に、
大まかな内容紹介の文章がありますので、それを引用しておきましょう。
《内村鑑三の話はくだけた調子で語られ、随所に笑い声も生じている。
この美しい地球に生まれたからには
何か記念となる物を遺して逝かなくてはならない。
では、その仕事は何か。内村鑑三は、自分の過去の経験も織り交ぜて、
金銭、事業、思想、文学、教育をあげる。
しかし、いずれも一定の才能がなくてはできるものではない。
では何の才能もないものにできるものとは何か。
それは「勇ましい高尚なる生涯」であると結んでいる。》
内村鑑三さんはキリスト教徒ですので、
そういう宗教的な背景からのお話となっています。
しかし、そういう部分を抜きにしても、人と生まれて来た私たちが、
己の人生の記録として、後世のために何かしら遺しておきたい、
とすれば、何がふさわしいのか?
――という疑問は、どなたにもあるのではないか、と思います。
才能はなくても、運よくパートナーに恵まれ、
子を遺すことの出来た人は、それはそれで結構な人生だった、
と言えるのはないか、と私には思えます。
しかし、私のように、自分の力のなさから、
そのようなチャンスを得られなかった者にも、
何かしら遺せるものがあるとすれば――
それは、まさにこの内村鑑三さんの言葉にあるものぐらいではないか、
と思うのです。
●内村鑑三さんの結論――「真面目なる生涯を送った人」
「青空文庫」本文より――「勇ましい高尚なる生涯」
《それならば最大遺物とはなんであるか。
私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、
ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、
利益ばかりあって害のない遺物がある。
それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。
これが本当の遺物ではないかと思う。
他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。
しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、
私がここで申すまでもなく、
諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。
すなわちこの世の中は
これはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、
神が支配する世の中であるということを信ずることである。
失望の世の中にあらずして、
希望の世の中であることを信ずることである。
この世の中は悲嘆の世の中でなくして、
歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、
その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。
その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。(略)》

同――「己の信ずることを実行するものが真面目なる信者」
《(略)来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには少くとも
幾何いくばくの遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれが
ふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、
今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、
今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、
また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、
しかしそれよりもいっそう良いのは
後世のために私は弱いものを助けてやった、
後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、
後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、
後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、
後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、
という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。
この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、
われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、
実に水の辺ほとりに植えたる樹のようなもので、
だんだんと芽を萌ふき枝を生じてゆくものであると思います。
けっして竹に木を接つぎ、木に竹を接ぐような少しも成長しない
価値のない生涯ではないと思います。
こういう生涯を送らんことは実に私の最大希望でございまして、
私の心を毎日慰め、かついろいろのことをなすに当って
私を励ますことであります。(略)》
同――講演の最後の締めの言葉――「真面目なる生涯を送った人」
《われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人に
これぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、
アノ人はこの世の中に活きているあいだは
真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを
後世の人に遺したいと思います。》

私自身、「真面目なる生涯を送った人」とまでは言われないまでも、
「真面目な、いい人だった」ぐらいの評判は遺したいなあ、
という気持ちです。
今までも、「真面目な人」とか「いい人」とかいわれてきましたけれど、
「ただ真面目なだけ(で、これといって才能も能力もない)」だったり、
「いい人(だけど、これといって魅力のない)」だったり……。
●ネット情報では……
このような、それなりの評判は遺せるかも知れないけれど、
できるならば、もう少し何かを遺したい、という気持ちがあります。
今、一部ではありますが、「左利き」に関してはそれなりの評価
(といいますか、それに近いもの)をいただいています。
自分でも「<左利きライフ研究家>30年超」と自称しています。
ネットでは左利きメルマガを680号超、21年続けています。
ブログ『レフティやすおのお茶でっせ』での左利き関連記事の発信も、
2003.12.24から21年半近くになります。
『日本左利き協会』のサイトでもご紹介頂いています。
*参照:『日本左利き協会』サイト―左利き便利帳
レフティやすおさんのメルマガとブログ
https://lefthandedlife.net/leftyyasuo.html

今はなきホームページ『レフティやすおの左組通信』もありました。
「左利き」に関しては、現時点では少しは知られた存在となっている、
ようです。
しかし、これらのネットの成果は、
現状ではいずれ消えてしまうものです。
現に、先ほども上げた、ホームページ『レフティやすおの左組通信』は、
消えてしまいました。
場を提供していた会社のサービス変更に伴い、
移行すれば残せたのですが、すでに更新を止めていたので、
消滅させることにしました。
別の形で復活させたいと思い、現在メルマガで一部紹介しています。
●私の「後世への最大遺物」
内村鑑三さんは、《この美しい地球に生まれたからには
何か記念となる物を遺して逝かなくてはならない》(上記「解説」)
として、思想や文学、教育を上げています。
確かにこういうものも誰にでもできることではありません。
しかし、今のところ、「左利きの情報」に関しては、
さらに「左利きへの思い」に関しては、
私は私なりに、色々と集め、書いて来ました。
その情報は、十分遺すに足るものではないか、という自負もあります。
で、今私が考えているのは、やはりネットの情報は消えてしまうので、
なんとか紙の本、それも商業出版で遺したい、ということです。
商業出版の紙の本なら、少なくとも国立国会図書館には保存されます。
個人的に保存する人もいらっしゃるでしょう。
また、ある程度の部数が出れば、古本として残る率が高くなります。
自分の仕事が、そういう目に見える形で残せれば、それは結果的に
私の「後世への最大遺物」といえるでしょう。
●「左利きの本」を遺したい
今、過去に書き散らした文章をテーマ毎にまとめ始めています。
月に4本のメルマガ(左利きメルマガ2本と読書メルマガ2本)で
手一杯になってはいますが、閑をみて、原稿作りに励んでいます。
紙の本について、まったく努力していなかったわけではありませんが、
基本人任せでした。
実際に「左利きの本」といいますと、
なかなか出版社の人から相手にしてもらえない傾向にあります。
「左利き」関係の本でベストセラーになった本
というのも限られていますし、それらの多くは名のある人であったり、
社会的地位のある人だったり、です。
私のように、何の権威でもなく、過去に本を出した実績もなく、
有名でもない人の場合、非常にハードルが高い、と考えられます。
それでも熱意があれば、なんとかなるのではないか、
という気持ちでいます。
・・・
「左利きの問題」があるのだ、という事実をもっと広く世に知らせ、
後に続くであろう、左利きの子供たちのために、今の社会を
もう少し左利きの人にとって生きてゆきやすいものに変えていきたい、
という気持ちでいます。
そのために、「左利き」について語り、本に遺したいものです。
・・・
左利きの本について書きましたが、
弊誌に書き散らしてきた、私の読書論やオススメの本
(例えば、<クリスマス・ストーリーをあなたに>など)
についても書いてみたいものです。
実はこちらも一部ですが、一つのテーマで文章をまとめ始めています。
いつになるかわかりませんが、死を考える機会が多くなっている昨今、
早急になんとかしなければ、という気持ちにはなっています。
頑張りますので、応援よろしくお願いいたします!
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
本誌では、「私の読書論196-<後世への最大遺物>としての紙の本を!」と題して、今回も全文転載紹介です。
春という季節は、出会いと別れの季節とも言われます。
もう5月になってしまいましたが、この春は私にとってけっこう色々なことがありました。
別れもありました。
別に嫌いになったとか何かではなく、年齢的なもの、加齢に伴うものといってもいいでしょう。
仕方のないことです。
出会いがあれば、いつか別れが来るのは、人生の必然でもあります。
死すべき人間である限り、これはどうしようもないものなのですから。
まあ、そんなこんな色々ありまして考えてしまったのが、今回のテーマになっています。
生きてきた証として何か遺したい、これは人間として誰もが考えることだと思うのです。
特にもう終わりが近づいてきた人にとっては、重大なことといえましょう。
ま、そういうわけで、今回はこうなりました。
願いはかなえられるのでしょうか?
努力しだいですよね。
・・・
*本誌のお申し込み等は、下↓から
(まぐまぐ!)『(古典から始める)レフティやすおの楽しい読書』
『レフティやすおのお茶でっせ』
〈メルマガ「楽しい読書」〉カテゴリ
--
『レフティやすおのお茶でっせ』より転載
私の読書論196-<後世への最大遺物>としての紙の本を!-楽しい読書388号
--
【最新号】
2025(令和7)年5月15日号(vol.18 no.8/No.388)
「私の読書論196-<後世への最大遺物>としての紙の本を!」
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2025(令和7)年5月15日号(vol.18 no.8/No.388)
「私の読書論196-<後世への最大遺物>としての紙の本を!」
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ここんところ、この「私の読書論」では、もっぱら<町の本屋論>を
新聞や書籍の情報を紹介しながら、私なりの本屋論を語ってきました。
今回は、そちらはいったんお休みして、私個人について書いておこう、
と思います。
実はこの4月はけっこう色々なことがありました。
70歳を超えたぐらいの年齢になりますと、何かがあったと言えば、
思い浮かぶのは、四苦八苦のうちの「病死」ということになりますが、
まあ、それに似たもので、「別れ」ですね。
いくつかの別れの時が来てしまったのです。
で、その時に思ったことがありました。
今回はそれについて書いて見よう、と思います。
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- 私の読書論196 -
~ <後世への最大遺物>としての紙の本を! ~
内村鑑三『後世への最大遺物』を紹介しながら……
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●「四苦八苦」
仏教では、人は生まれながらに八つの「苦」を背負っている、
と教えます。
人生において避けては通れない、人間の根源的な苦しみですね。
何かがうまく行かずに苦労するときに、「四苦八苦」する、
といった言い方をします。
この「四苦八苦」とは、仏教の言葉です。
「四苦」とは、生老病死。
生苦(しょうく):人は「生まれ」を選ぶことができません。
老苦(ろうく):日々年老いてゆくことを止められません。
病苦(びょうく):いつどんな病気にかかるかわかりません。
死苦(しく):人は必ず訪れる死をまぬがれることはできません。
さらに次の四つの句を合わせて、「八苦」といいます。
愛別離苦(あいべつりく):愛する人との別れの苦しみ
求不得苦(ぐふとくく):欲しいもの、求めるものを得られない苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく):嫌なことや嫌いな人と出会う苦しみ
五陰盛苦(ごおんじょうく):
自分の体や心が思いのままにならない苦しみ
今回私はいくつかの別れ、失うことがありました。
人はそういう喪失感に陥るとき、色々と考えるものではないでしょうか。
●生きてきた証として遺すもの
人として生きてきた証をほしい、と強く思うようになりました。
以前からそういう思いはありました。
誰でもそうでしょう。
何かしら自分がこの世に生きてきた証を遺しておきたい、と思うことが。
・・・
内村鑑三さんの名著(だと思っている!)に
『後世への最大遺物』という講演録があります。
ご存知のように、内村鑑三さんは、クラーク博士の
「ボーイズ・ビー・アンビシャス」“Boys, be ambitious!”
で有名な札幌農学校の第二期生で、
『武士道』や昔の五千円札で有名な新渡戸稲造さんらと同級生です。
新渡戸さんがどちらかといいますと、表舞台で活躍したのに比べますと、
内村さんのほうは、少し裏道といいますか、
ちょっと日陰の存在のような印象があります。
不敬事件が影響しているせいもあるか、と思います。
内村さんの著作では、『代表的日本人』が有名です。
この本を、弊誌
*参照:
2009(平成21)年12月31号(No.29)-091231-
『代表的日本人』内村鑑三―I for Japan
で紹介する際に、評伝とともに、
『余は如何にして基督信徒となりし乎』と本書を読みました。
50代半ばぐらいでしたか。
それ以来、私の人生の一つの目標のようになっているのです。
『後世への最大遺物』は、青空文庫でも読めます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/519_43561.html
これは、明治二十七年七月の夏季学校での講演録ということで、
非常に読みやすく、難しいところのない、短い作品です。
私の持っているのは、岩波文庫版の二本立ての
『後世への最大遺物 デンマルク国の話』という本です。
・『後世への最大遺物 デンマルク国の話』内村鑑三 岩波文庫 改版
(解説=鈴木範久) 2011/9/17

●『後世への最大遺物』
前半が『後世への最大遺物』です。
その本の巻末の鈴木範久さんの「解説」に、
大まかな内容紹介の文章がありますので、それを引用しておきましょう。
《内村鑑三の話はくだけた調子で語られ、随所に笑い声も生じている。
この美しい地球に生まれたからには
何か記念となる物を遺して逝かなくてはならない。
では、その仕事は何か。内村鑑三は、自分の過去の経験も織り交ぜて、
金銭、事業、思想、文学、教育をあげる。
しかし、いずれも一定の才能がなくてはできるものではない。
では何の才能もないものにできるものとは何か。
それは「勇ましい高尚なる生涯」であると結んでいる。》
内村鑑三さんはキリスト教徒ですので、
そういう宗教的な背景からのお話となっています。
しかし、そういう部分を抜きにしても、人と生まれて来た私たちが、
己の人生の記録として、後世のために何かしら遺しておきたい、
とすれば、何がふさわしいのか?
――という疑問は、どなたにもあるのではないか、と思います。
才能はなくても、運よくパートナーに恵まれ、
子を遺すことの出来た人は、それはそれで結構な人生だった、
と言えるのはないか、と私には思えます。
しかし、私のように、自分の力のなさから、
そのようなチャンスを得られなかった者にも、
何かしら遺せるものがあるとすれば――
それは、まさにこの内村鑑三さんの言葉にあるものぐらいではないか、
と思うのです。
●内村鑑三さんの結論――「真面目なる生涯を送った人」
「青空文庫」本文より――「勇ましい高尚なる生涯」
《それならば最大遺物とはなんであるか。
私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、
ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、
利益ばかりあって害のない遺物がある。
それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。
これが本当の遺物ではないかと思う。
他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。
しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、
私がここで申すまでもなく、
諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。
すなわちこの世の中は
これはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、
神が支配する世の中であるということを信ずることである。
失望の世の中にあらずして、
希望の世の中であることを信ずることである。
この世の中は悲嘆の世の中でなくして、
歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、
その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。
その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。(略)》

同――「己の信ずることを実行するものが真面目なる信者」
《(略)来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには少くとも
幾何いくばくの遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれが
ふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、
今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、
今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、
また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、
しかしそれよりもいっそう良いのは
後世のために私は弱いものを助けてやった、
後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、
後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、
後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、
後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、
という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。
この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、
われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、
実に水の辺ほとりに植えたる樹のようなもので、
だんだんと芽を萌ふき枝を生じてゆくものであると思います。
けっして竹に木を接つぎ、木に竹を接ぐような少しも成長しない
価値のない生涯ではないと思います。
こういう生涯を送らんことは実に私の最大希望でございまして、
私の心を毎日慰め、かついろいろのことをなすに当って
私を励ますことであります。(略)》
同――講演の最後の締めの言葉――「真面目なる生涯を送った人」
《われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人に
これぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、
アノ人はこの世の中に活きているあいだは
真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを
後世の人に遺したいと思います。》

私自身、「真面目なる生涯を送った人」とまでは言われないまでも、
「真面目な、いい人だった」ぐらいの評判は遺したいなあ、
という気持ちです。
今までも、「真面目な人」とか「いい人」とかいわれてきましたけれど、
「ただ真面目なだけ(で、これといって才能も能力もない)」だったり、
「いい人(だけど、これといって魅力のない)」だったり……。
●ネット情報では……
このような、それなりの評判は遺せるかも知れないけれど、
できるならば、もう少し何かを遺したい、という気持ちがあります。
今、一部ではありますが、「左利き」に関してはそれなりの評価
(といいますか、それに近いもの)をいただいています。
自分でも「<左利きライフ研究家>30年超」と自称しています。
ネットでは左利きメルマガを680号超、21年続けています。
ブログ『レフティやすおのお茶でっせ』での左利き関連記事の発信も、
2003.12.24から21年半近くになります。
『日本左利き協会』のサイトでもご紹介頂いています。
*参照:『日本左利き協会』サイト―左利き便利帳
レフティやすおさんのメルマガとブログ
https://lefthandedlife.net/leftyyasuo.html

今はなきホームページ『レフティやすおの左組通信』もありました。
「左利き」に関しては、現時点では少しは知られた存在となっている、
ようです。
しかし、これらのネットの成果は、
現状ではいずれ消えてしまうものです。
現に、先ほども上げた、ホームページ『レフティやすおの左組通信』は、
消えてしまいました。
場を提供していた会社のサービス変更に伴い、
移行すれば残せたのですが、すでに更新を止めていたので、
消滅させることにしました。
別の形で復活させたいと思い、現在メルマガで一部紹介しています。
●私の「後世への最大遺物」
内村鑑三さんは、《この美しい地球に生まれたからには
何か記念となる物を遺して逝かなくてはならない》(上記「解説」)
として、思想や文学、教育を上げています。
確かにこういうものも誰にでもできることではありません。
しかし、今のところ、「左利きの情報」に関しては、
さらに「左利きへの思い」に関しては、
私は私なりに、色々と集め、書いて来ました。
その情報は、十分遺すに足るものではないか、という自負もあります。
で、今私が考えているのは、やはりネットの情報は消えてしまうので、
なんとか紙の本、それも商業出版で遺したい、ということです。
商業出版の紙の本なら、少なくとも国立国会図書館には保存されます。
個人的に保存する人もいらっしゃるでしょう。
また、ある程度の部数が出れば、古本として残る率が高くなります。
自分の仕事が、そういう目に見える形で残せれば、それは結果的に
私の「後世への最大遺物」といえるでしょう。
●「左利きの本」を遺したい
今、過去に書き散らした文章をテーマ毎にまとめ始めています。
月に4本のメルマガ(左利きメルマガ2本と読書メルマガ2本)で
手一杯になってはいますが、閑をみて、原稿作りに励んでいます。
紙の本について、まったく努力していなかったわけではありませんが、
基本人任せでした。
実際に「左利きの本」といいますと、
なかなか出版社の人から相手にしてもらえない傾向にあります。
「左利き」関係の本でベストセラーになった本
というのも限られていますし、それらの多くは名のある人であったり、
社会的地位のある人だったり、です。
私のように、何の権威でもなく、過去に本を出した実績もなく、
有名でもない人の場合、非常にハードルが高い、と考えられます。
それでも熱意があれば、なんとかなるのではないか、
という気持ちでいます。
・・・
「左利きの問題」があるのだ、という事実をもっと広く世に知らせ、
後に続くであろう、左利きの子供たちのために、今の社会を
もう少し左利きの人にとって生きてゆきやすいものに変えていきたい、
という気持ちでいます。
そのために、「左利き」について語り、本に遺したいものです。
・・・
左利きの本について書きましたが、
弊誌に書き散らしてきた、私の読書論やオススメの本
(例えば、<クリスマス・ストーリーをあなたに>など)
についても書いてみたいものです。
実はこちらも一部ですが、一つのテーマで文章をまとめ始めています。
いつになるかわかりませんが、死を考える機会が多くなっている昨今、
早急になんとかしなければ、という気持ちにはなっています。
頑張りますので、応援よろしくお願いいたします!
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本誌では、「私の読書論196-<後世への最大遺物>としての紙の本を!」と題して、今回も全文転載紹介です。
春という季節は、出会いと別れの季節とも言われます。
もう5月になってしまいましたが、この春は私にとってけっこう色々なことがありました。
別れもありました。
別に嫌いになったとか何かではなく、年齢的なもの、加齢に伴うものといってもいいでしょう。
仕方のないことです。
出会いがあれば、いつか別れが来るのは、人生の必然でもあります。
死すべき人間である限り、これはどうしようもないものなのですから。
まあ、そんなこんな色々ありまして考えてしまったのが、今回のテーマになっています。
生きてきた証として何か遺したい、これは人間として誰もが考えることだと思うのです。
特にもう終わりが近づいてきた人にとっては、重大なことといえましょう。
ま、そういうわけで、今回はこうなりました。
願いはかなえられるのでしょうか?
努力しだいですよね。
・・・
*本誌のお申し込み等は、下↓から
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