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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

六角堂の再建-茨城旅行①

2013年05月22日 23時37分56秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 茨城県に旅行に行った。僕がよく行くのは山と温泉が主だから、茨城で泊ったことはほとんどない。職員旅行で1回、個人では3回泊っただけ。自分の記録を見てみると、1996年に袋田温泉に行って以来。(この時は翌日に水戸芸術館に行って、ク・ナウカのお芝居を見たんだった。)実に17年ぶり茨城泊である。東京に住む僕でさえそうなんだから、全国から来る人はもっと少ないだろう。全国ブランドの観光地も、水戸偕楽園の梅筑波山袋田の滝くらいではないか。(今はひたち海浜公園が有名になりつつある。)

 茨城に行かないでいた間に、東日本大震災があった。そして岡倉天心が作った六角堂が津波で流出してしまった。昔、近くの五浦観光ホテルに泊まったことがある。その時は年末で多くの施設が閉まっていた。その上六角堂も危険で見られない時代だったような気もする。その六角堂が昨年再建され、賑わっているという。東京スカイツリーなどはほとんど関心がないのだが、こっちの方は見ておきたい。茨城県は死亡・行方不明者が(千葉県と並び)20人以上という犠牲者を出した。(東北3県に比べ2ケタ少なかったけれど。)今もなお公開が中止の施設も多い。自分の車で行く場合、距離の問題で東北まで行くのは大変だが、復興支援の意味も込めて茨城県にそろそろ行ってみたいなと思うようになった。

 日曜朝9時半ころに出て、常磐道に入る。家からは東北道が一番近いが、常磐道も環七、首都高経由で遠くない。空いているのでどんどん進み、お昼過ぎには北茨城へ。海沿いに五浦(いづら)まで行って、まずは六角堂へ。天心記念室を見てから六角堂に近づくが、完全に海沿いの狭いところにあって、全体像はその場では判らない。六角堂を出てから、近くの五浦岬公園まで行かないと全景が撮影できない。まずはその全景写真。六角堂の内部とあわせて。(再建六角堂は作ったばかりだから、まだきれいすぎる感じ。内部にある写真は、秋公開の映画「天心」のポスター。)
 
 この近くは「ジオパーク」に指定されている地質的にも興味深い地域である。その景勝地が天心の気に行ったんだろうけど、もらったチラシに地震前と地震後が出ている。パソコンでないと大きく見えないだろうが掲載しておきたい。(最近行った、長瀞も伊豆もジオパークだった。)
 
 岡倉天心(1863~1913)という人は、フェノロサとともに明治維新後忘れられていた日本美術を守った人である。「日本画」という概念を打ち立て、「日本美術院」を作った。ここに横山大観、菱田春草、下村観山などの弟子が結集し、近代日本画が作られたわけである。つまり、狩野派や浮世絵は「日本画」ではなく、近代になってヨーロッパの油絵が伝わってから作られた「新しい伝統」が「日本画」である。「西洋の衝撃」(ウェスタン・インパクト)があって作られたわけである。岡倉天心は1906年に日本美術院を五浦に移し、しばらくの間ここを拠点に活動した。その時の旧居が残されている。六角堂はそれに先立ち、1905年に自ら設計して建てられた思索のための場で、確かに波の音しか聞こえない素晴らしい場所である。
 
 この六角堂のすぐそばに岡倉天心の墓がある。土饅頭型の小さな古墳のようなお墓である。もっとも東京・豊島区の染井霊園にある墓からの分骨だという。
   
 岡倉天心は非常に面白い人物だと思う。ほとんど英語で教育され、英文で著述した。有名な「茶の本」を読んだのはずいぶん昔で、多分高校生の頃だけど(もちろん翻訳)、とても面白かった。でも、やはり啓蒙というか日本文化紹介という感じがあって、他には読まなかった。大岡信さんに評伝があり、それを読むと晩年にインドの女性詩人と美しい魂の交流があった。タゴール(アジア人初のノーベル文学賞受賞詩人)とも交流が深く、天心という人は詩人の魂を持っていた。それが政治に利用された時代があった。そのことも大切な点である。竹中直人主演で映画化され、今秋公開されるらしいので、岡倉天心は要注目。

 六角堂に来たら、近くの五浦岬公園まで必ず行かないといけない。ここは素晴らしい眺望を楽しめるが、初めに書いたように六角堂は対岸から出ないと全体像が見えない。歩いて10分ほど。歩いて回ると、端の方に犬の銅像がある。何だろうと近づくと「忠犬ジョンの像」とあるが、何をしたのかというと「怜悧な」犬だったけど近所の人に毒を盛られて死んだという話で、どこが忠犬なんだかよく判らない。飼い主には悲劇だけど、飼い主を救ったという話ではないらしい。何だと思い写真は撮らず。像の足元を見ると、マムシグサが一杯咲いていた。

 近くに昔はなかった茨城県立天心記念美術館(1997年開館)が立っている。すごくきれいな美術館で、こんなに大きいとは思わなかった。天心や日本画について多くのことを理解できるので、一度行く意味はあると思う。けれどなんだか大きすぎる感じもしないではない。でも、この美術館のカフェは大変気持ちがいい。そこはおススメ。(美術館の写真は撮らなかった。)そこを出たすぐ近く、平潟港のあたりに「風船爆弾」を飛ばした場所がある。第二次世界大戦末期、日本は風船爆弾なるものを作った。それは実際に気流に乗って米国西岸に着き死亡者も出た。今は平和の碑が立てられている。開発側の情報は、明大生田校舎にある「明治大学平和教育登戸研究所資料館」で知ることができる。(放たれた場所はここだけではなかった。)

 時間がなくなり、行くつもりだった野口雨情記念館などはまたの機会に。行く途中に寄った中郷サービスエリアに野口雨情の詩碑がたくさんあった。「赤い靴」「青い目の人形」「七つの子」「シャボン玉」などを作った童謡詩人である。今日は海沿いの宿ではなく、あえて中へ入って温泉の宿を見つけた。多分ほとんどの人が知らないだろう、常陸太田市の横川温泉と言うところである。茨城だから加熱、循環の湯は仕方ない。延々と里山を行くと三軒の宿がある。かなり大きな中野屋、かやぶきの巴屋、それと山田屋である。インターネットで取れる山田屋にしたけど、他に誰もいなかった。まあ日曜だけど、そこまで空いてるのは初めて。今は燃料費が高騰し、低温の湯の宿は苦しいのではないか。そういう宿も苦しい中頑張っているので、源泉掛け流しもいいけど他の宿も応援しないといけないと思う。お湯は塩素臭もなく、ツルツル系の透明の湯。源泉は硫黄泉。食事はとてもおいしく、8000円台でこれだけ美味しいものを食べられるなら、他の人にもおススメ。
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両神と長瀞への旅行

2013年02月09日 00時55分16秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 埼玉県の奥の方、国民宿舎両神に一泊旅行。安いプランがあったからだけど、埼玉は行ってないところが多く、長瀞のロウバイも咲き始めているし、ちょっと歩きたいなと思った。朝遅くなってしまい、関越道で事故渋滞もあって、一日目はほとんど行っただけ。でも、たどりついた国民宿舎の両神温泉はとても良かった。アルカリ性の「美人の湯」で、ツルツルの肌になる湯。埼玉には珍しく、露天は掛け流し。大浴場も循環とはいえ塩素臭はなく、入るとあふれるほどの湯が出ている。大きさも広めでいい。食事も満足で、今はご飯とサラダがバイキングという宿が多いが、ここもそれ。基本の鍋なんかも美味しくて、ご飯2種の他に蕎麦やおでんなんかもある。部屋もきれいで、入湯税込8000円。まあ、それはお年玉プランで、もう終わりだけど。自治体が経営している公共の宿は安いけど満足できないというのは昔の話で、今は大変充実している。


 近くの山に福寿草やロウバイが咲くところがあるが、一日目に駐車場まで行ったが、けっこう歩くのと寒くて咲いてない感じだったので、今回はパス。氷柱なんかも売りにしてるけど、寒いから止める。8日は風が強く寒い日だった。長瀞に行き、宝登山神社にまず行く。ここはミシュランで埼玉初の一つ星を得たというところ。「ほどさん」はヤマトタケル伝説で「火止山」なんだという。宝に登ると書いて、今はロープウェイもあってにぎやかな観光地。神社は東照宮を小さくまとめたような趣で、きれいにいろいろあるので確かに外国人受けしそうだ。まとまってる感じは悪くない。
  

 最初は宝登山に登る気もあったけど、雪の影響が残ってるのと風が強いので、登りはロープウェイで行き、下りだけ歩くことにする。これは正解で、雪が解けた道が続き、登山靴をはいて行ったけどものすごく汚れてしまった。ロウバイ園は二つあり、東は一分咲きだけど、西園は五分咲き。香りも高い花なので、気持ちいい。少し行くと頂上で、その先に奥宮。ここの狛犬はどう見てもオオカミ。秩父はオオカミの伝説が残るところだけど、そういう影響かな。後は延々と寒い道を下る。まあ多少寒くても歩く方がいいとも思うけど、温泉効果が飛んでしまった感も。
  

 長瀞は東京では有名な観光地で、遠足なんかでもよく行くところだが、個人的にも仕事でも一度も行ったことがなかった。これは珍しいかもしれない。宝登山から下りてきて駅に行く途中に、「旧新井家住宅」がある。郷土資料館についている。重要文化財に指定されている江戸時代中期の民家である。郷土資料館みたいなところはよく行くけど、ここは200円だから寄ってみることをおススメする。この「新井家住宅」の屋根が面白いのである。石がたくさん乗っている。これは栗の木の板を張りつめた屋根の重石なのである。この一風変わった屋根は一見の価値がある。
 

 長瀞は荒川の流れが静かになったところ(それを瀞(とろ)というらしい)ということで、岩が川辺に広がっている岩畳が名所となる。知識としては知ってたけど、行くのは初めて。
 

 埼玉では秩父の方が観光地だけど、大きな温泉がない。越生の梅林や黒山三滝、高麗のあたりなど有名なハイキングの名所にはけっこう行ってるけど、近すぎて日帰りになってしまう。学生時代に秩父の夜祭を皆で見に行った時も夜遅く帰ってきた。日本百名山の両神山に登った時に、今は泊れない両神山荘に泊ったのと、旧石器研究者「ゴッドハンド」F某にダマされて「秩父原人」の現地報告会に行ったときに温泉に前泊した位である。この旧石器ねつ造事件は、日本の考古学、歴史学に深い傷を残したが、僕もまさかそういうことをする研究者がいるとは思わず、すっかり信じ込んでしまった。まあ、新聞もテレビもトップで「秩父で50万年前の旧石器発見」とうたっていたので、僕が信じるのも当たり前と言えば当たり前だが。秩父と言えば、他に明治の秩父事件がある。僕も学生時代には結構読んでいたのだが、今は細かい部分は忘れている。今回宿に行く途中に、秩父事件を描いた映画「草の乱」で使われた井上伝蔵の家(の復元セット)があった。資料館にもなっていたけど、遅かったので見なかった。僕は自分の家に近い足尾鉱毒事件の場所はずいぶん行っているけど、秩父事件の現地調査はしたことがない。もう一回ちゃんと行ってみたい。

 もう一つ、数年前に「日本百名城」が選ばれているのだが、埼玉では最近小説、映画で有名になった忍城(=おし城=「のぼうの城」)ではなく、川越城と鉢形城が選ばれている。この「鉢形城」はほとんどの人が知らないか、知っててもまだ行ってないのではないか。ここは関東によくあるけど、「江戸時代にはない城」である。大体日本の城は天守閣が有名で、なかった天守を「再建」してしまうところもあるくらいである。それは支配者として領主が安定的な支配を確立した時代の話で、本当の戦国時代には天守はない。実際に戦っていたわけだし、山城が多いのは当然。関東では、後北条氏の支配する城がたくさんあり、それは秀吉に滅ぼされ、家康に棄てられ、棄てられなかった所は幕末に薩長軍に攻められという歴史をたどる。鉢形城も後北条氏の重要な城で、とにかく大きいが、遺構以外はほとんどない。埼玉県寄居町で、関越道を花園インターで降りて10分程度。今は歴史館が立っている。そこを拠点に歩くといいんだけど、昔の城の範囲に線路が通っているくらい。でも「100名城」の一つなんだから、是非一度は行くといいです。もっとも、今回は何しろ風が寒くて、僕も城跡を歩く気にならなかった。それも今後の課題。
 
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小嶋屋総本店の蕎麦-新潟旅行①

2012年10月20日 23時56分03秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 19日から20日に越後湯沢に旅行。旅行記の中に食の話を入れてしまうと、印象が薄れるから今回は別立てで。前にも書いたけど、前の家が更地になってマンションを建築中。そのうえ、近隣一帯の水道工事もあって、家の前にはトラックが停まったり、掘り返したり。昼になると車を出せないような日々が続いている。そこで早めに車を出さないといけない。だから8時前には家を出た。山に当日登るようなときは、5時、6時に家を出ることもあったけど、最近は9時、10時に出ればいいやという時が多かった。

 東北道、北関東道(反対車線が事故渋滞で延々とつながっていたけど)、関越道と順調に走り、予定より早く関東を抜ける。そこで思い切って十日町まで足を延ばし、小嶋屋総本店を再訪することにした。ここは3年前に一度行っている。

 小嶋屋というのは、東京でもスーパーで売っていることがある。「ふのりつなぎ」を最大の特徴とする、四角い紙の包装をしている乾麺を見たことがある人もいるだろう。新潟駅ビルにも入っている。これが昔から好きだった。のど越しが素晴らしい。コシと歯ごたえが抜群。乾麺で食べる蕎麦では一番だと思ってる。妻の出身が新潟市で、よく行く機会があったから昔から知っているという事情。ところが、新潟駅に入っているのは、よくみると「株式会社長岡小嶋屋」。今日越後湯沢駅に行ったけれど、そこに入っているのは十日町に本社がある「株式会社小嶋屋」。それと別に「株式会社小嶋屋総本店」というのがあるのだった。のれん分けで、似た名前があちこちにあるというのは、文明堂や吉兆なんかと同じ。もともとは、「総本店」が本家で、二代目の兄弟が、十日町と長岡で別会社を興したということらしい。

 そして、その「株式会社小嶋屋総本店」は、十日町中屋敷というところに、それこそ「総本店」という店を出している。いや、そのことを知ったのは割と最近のことなんだけど、これは行かなくてはいけないということで、3年前に「大地の芸術祭」を見に行ったときに食べに行った。本当は今年も「大地の芸術祭」の年だったけど、夏は暑くて宿も高いから敬遠してしまった。ということで、また食べに行けるとは思わなかった。やはり旅行は早く出るほうがいい。

 どこと説明するのは難しいけど、「千年の湯」という立ち寄り湯のそばなので、そこを目指す。目印は水車。落ち着いた大きな構えの店構え。駐車場も広いけど、かなり埋まっている。
 

 頼んだのは「天ざる」。新潟でよくある「へぎそば」もあるし、季節の松茸ごはんセットなんかもあったけど、普通に天ざるを。待つ間に「ごまをする」。ゴマとすり鉢があって、ゴマをすってお待ちくださいとのこと。蕎麦が来ると、これには本わさびが付いている。これもする。食べる前にいろいろ仕事がある。でも、わさびを自分でするのは、蕎麦を食べるまでに心を高揚させる一番の方法だ。蕎麦は二段重ねのへぎそばに海苔がかかる。ここのそばは、つなぎに「ふのり」(布乃利と当て字を使う)を使っている。これは海藻だが、もとは織物の意図の糊付けで魚沼地方で使われてきたものだという。

 雪ありてこの水あり
  人ありてこの技あり
   織ありてこのそばあり

 とチラシでうたっている。それだけの言葉に負けない、おいしさである。

 最近「蕎麦打ち」ブームなどと言って、「もりそば」しかないような店が結構ある。手打ち、10割そばで、おししいけど、「もり」と言わずに「せいろ」と書いてある。脱サラ店主がそばのうんちくを語りだしそうな、ジャズが流れてるような店。おいしいけど、たかが蕎麦屋なのに、高級すしやかフレンチかというような「権威」がどうもね…という店もある。僕は「蕎麦道系」の店と言っている。もう「道」の域に入っているのではないか。伝説的な椎名町の「」に僕は行ってるし、そういう店も嫌いではない。(あの甲州長坂の清春白樺美術館隣にある「翁」の移転前の店。)でも、「種物」も欲しい。「やぶ」だって、「砂場」だって、天ぷらなどの種物があるではないか。神田やぶの「天だね」など、絶品中の絶品である。何もカレーやカツ丼がなくてもいいとは思うけど、ある程度いろいろな種類が欲しいし、ご飯ものもおいしいのがあっても悪くない。小嶋屋総本店の魚沼産新米コシヒカリを使ったご飯ものも実に美味しそうだったけど。

 乾麺を売ってて、首都圏ではそれで知られているようなところで、本店で食べられるような店。それは蕎麦では小嶋屋総本店。うどんでは、秋田湯沢市稲庭町の「七代目佐藤養助本店」(稲庭うどん)。これにつきるのではないか。麺好きなら一度は訪れたいところだと思う。 
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金沢旅行

2012年04月08日 23時12分08秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 金沢に初めての旅行。新幹線で上田まで行ってバス。行きは飛騨高山、帰りは白川郷に寄って、金沢は駅前のホテルに2泊。食事なしで安いホテルだけど「全部込みで2万円」という旅行を見つけて、これは安いと思った。実は金沢は初めて。これで泊まったことがない県は本州では福井県だけとなった。(あとは高知、福岡、大分、佐賀、長崎。)

 例年なら兼六園も桜咲く季節だけど、今年はどこ行っても寒い。土曜日の白川郷なんか雪が降っていた。初日の高山も雨模様。ここは30年前に来ている。その時は、オークヴィレッジの夏休みに行って、そこから富山の利賀で行われた第1回世界演劇祭へ。そして奈良の「交流(むすび)の家」(ハンセン病回復者の宿泊施設)へ行って、そのまま韓国のハンセン病回復者定着村のワークキャンプ。一体いつ家に帰ったんだか、という青春放浪大旅行だった。よって、高山の詳しいことは忘れてしまった。少なくとも、まだ「飛騨牛」とか「高山ラーメン」でいっぱいではなかった。
一応、古い街並みを歩いた。ラーメンは細麺すぎ。
 お勉強になったのは、「飛騨高山まちの博物館」という無料の広い博物館。古い蔵を利用して、いろいろな展示があるが、多すぎるかも。「飛騨の匠」の意味を初めて知った。これは「飛騨出身のすぐれた職人技術」のことだと思っていたが、実は奈良時代以前からあるらしい「朝廷の制度」だった。飛騨の職人技術を都の建設に使うために、庸調を免除する代わりに労役として都で働かせるという「公の制度」。個人のすぐれた職人技のことではないのである。

 金沢は駅前のホテルだったので、駅にある「百番街」などのおみやげショップ街が役立つ。この駅の壮大なまでの広場建築は一見の価値あり。全体的に古い中に新しいものが生きる文化力が生きた町。人口は46万ほど。駅前に時計があり、デジタルかと思えば、実は水で時刻を表現している。写真では判りにくいかもしれないけど、ちょっと驚きの仕掛けである。
 
 2日目、朝は雨、というよりみぞれ交じり。これはこれはと思いながら、降水確率8割では一日雨だなあと思った。ホテルを出るころに雨があがっていたので、とりあえずは兼六園へ。1972年、高校生の時の一人旅で岡山後楽園を見ている。そして水戸偕楽園は行ってない。日本三景なんか一つも見てない。山と温泉中心の年が多かったもので。兼六園は何が「兼六」なんだか行ってみてよく判った。東京の大名庭園は大体行ってるけど、ここがベストだと思う。「眺望」があるのが大きい。庭園だけならどこでも作れるが、町を見下ろせるのは立地が限られる。まあよくつかわれる場所の写真だけど。
 斜めの松。
 ところで、兼六園のすぐ近くにある金沢神社に「金城霊澤」という泉がある。これは「芋掘り藤五郎」という伝説があるところで、これが「金沢」という地名の由来だそうである。そこから県立美術館、歴史博物館を見る。歩いて香林坊(繁華街)へ。ここには「109」がある。お昼を食べて、まだ天気が持ってるから、武家屋敷へ。そして尾山神社へ出て、近江町市場へ。写真の変な三層の建物が神社の山門。ちょっとびっくりの和洋折衷。明治になってできた「利家とまつ」を祀る神社である。写真の銅像が前田利家である。よくみると、背中に変な袋を背負っている。これは「母衣」(ほろ)というものである。戦いの中で本陣と前線を行き来したりする役目で、敵味方にも識別できる色付きのものを背負った。精鋭の武士が務めることが多かったということで、信長軍団には「黒母衣衆」「赤母衣衆」がいた。利家は赤母衣衆のトップだった。いや、実はこれまで知らなかったんだけど。
   
 市場を見てもまだ天気が持っている。ならば、ひがし茶屋街まで歩こうということで、途中の「泉鏡花記念館」を見て行く。金沢三文豪というのが、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星である。いずれも記念館がある。他にも鈴木大拙(禅を広めた仏教哲学者)の記念館もある。人材を輩出したといえば言えるけど、では読んでるかというと読んでない。秋声や犀星の映画化作品は見てるけど、読んでるのは鏡花だけかなあ。でも、鏡花はすごく変な作家だと思うけど。玉三郎の舞台や映画で知ってる人が今は多いだろうと思う。記念館のすぐ近くに、「声」と書かれた不思議な建物が。チラシを見たら、「朗読小屋 浅野川倶楽部」とある。いやあ、朗読専門館などと言うものがあるとは、金沢の文化力である。川を渡り、ひがし茶屋街を歩く。風情は素晴らしい。今は完全に観光化していると思うけど。翌日バスで寄った金箔のお店にある「黄金の茶室」の写真とともに。
  
 金沢は戦災を受けず古い城下町の街並みが残っている。しかも江戸時代を通じて「加賀前田百万石」の治世が変わらなかった。そこで生まれた長い年月をかけた文化力が今も生きている。今回は行かなかった「金沢21世紀美術館」というのも面白いらしい。県立音楽堂も駅前にあるし、県立能楽堂まである。「アンサンブル金沢」という日本初のプロ室内管弦楽団として有名なところである。そういうところだとは聞いていたが。町を歩き回っているとコンビニが少ない。コンビニより古道具屋や仏壇屋の方が多いかもしれないという不思議な町である。金箔はほぼすべて金沢で作られているという。金箔関係や和菓子や九谷焼のおみやげは多いけど、あとの産業は何だろうか。 

 翌日は白川郷を経て帰る。ここがまた雪景色。多分今シーズン最後。と思えば、まあいいか。グチャグチャの雪解け道よりも大雪の方がきれいなんだろう。でも寒い。もちろん「合掌造り」の世界遺産集落である。外国人観光客が多いことにびっくり。アジア系もヨーロッパ系も。雪も魅力なのかもしれない。「かまくら」も作られていた。明善寺の資料館は上まで上がれて付近を一望できる。お寺の方にはってあった紙とともに。
   
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房総旅行

2012年03月08日 23時32分17秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 突然、房総の鴨川方面へ旅行。1月にも館山へ行ったけど、特に千葉県を極めようと思ってるわけではなく、北関東や福島の温泉へ支援の意味も込めて行きたい気持ちがあるんだけど、某プランで格安で泊まれる旅館を発見したもので。

 しかし、外房に泊まるのは久しぶりだな。南房の館山、白浜、千倉などに泊まることは結構あったけど、鴨川や勝浦へはだいぶ行ってない。この地域は花の季節に訪れることが多く、(夏は山へドライブすることが多いため)、どうしても南房フラワーラインの方に気持ちが行ってしまう。で、鴨川で行ったことがない所として、「大山千枚田」が残ってた。ここは農水省認定の「棚田100選」に選ばれているところ。関東では栃木の二つとここだけ。東京に一番近い棚田100選。100選を見てみると、長野県が一番多い。次いで、熊本、宮崎。当たり前だけど、山がなければ棚田にならない。しかも山間部は本来畑作に向いた土地が多く、土質、水、集落など条件が整わなければ「棚田」にならない。で、千葉、それも南の方の鴨川にどれほどの棚田があるのか。そこらへんは海に生きる地域で、水田じゃないでしょ。と思うと大間違いで、房総半島は幅広で太平洋と東京湾に面する海辺を除くと、中央はほとんどみんな山。ただし、高くても300か400m程度の低山が多いのであまり意識しないけど、山がちの地帯なのです。それに「長狭(ながさ)米」というブランドを誇りとする地域。

 いや、大山千枚田は素晴らしかったです。今は水を張りはじめた時期で、緑は全くないわけだけど、地形の広々感はむしろ今の方がわかるかも。人間の力強さと言うか、城の石垣とか写真で見るマチュピチュみたいというか、壮大な感じ。写真ではあまり伝わらないけど。ここは別の季節にまた再訪したいと思います。現地には「大山千枚田保存会」による「棚田倶楽部」という施設もできています。(なお、調べても行き方がよく判らなかったんだけど、東京から車で行く場合、館山道を鋸南保田ICで降りて、長狭街道を鴨川方面へしばらく行くと案内が出てくるので右折。下の駐車場に停めて上まで歩く。)
  

 2日目は、朝方に雨の降る寒い日に逆戻り。まだ見てない「仁右衛門島」(にえもんじま)に行こうかと思ったけど、寒くてやめ。カステラ工房なんかで油を売って、久方ぶりの清澄寺へ。日蓮が出家得度したところというお寺。その頃は天台宗だったけど、衰微して戦後に日蓮宗になったとある。ここらは日蓮生誕の地「誕生寺」があるところで、有名な「鯛の浦」もある。船で行って手を叩くと鯛が海面に近寄ってくる不思議な所ですね。どちらも前に見てる。誕生寺は見直してもいいなと思って一日目に行ってみたけど、駐車場が有料だけなのでいいやと思って、ずっと車で行き過ぎたら海際のヘリを通るすごい道路に通じてた。で、清澄寺はそこらから山へどんどん登って行く。昔千葉県市川市に住んでいた時があって、確か電車とバスでお寺から高原ハイキングをした記憶がある。その頃はけっこう「巨樹めぐり」をしていて、清澄寺は国の天然記念物の大杉が有名なんです。写真では全然伝わらないけど。でも、ほとんど杉が続く地帯で、花粉が飛んでそうな感じ。自分は全然影響ないんですが、観光客、参拝客は少ない状態でした。そこから養老温泉、大多喜城をへて、内陸部を通って帰る。そこらへんは初めて。まあ、海辺の方が面白いですね。
 

 宿は天津小湊の「宿 中屋」。小湊駅前に天保時代からあったそうですが、74年に海岸べりに移転、10年前に温泉が出て、最近リニューアルしたばかりという。部屋もきれいで、対応もていねい。なによりアワビが一人一匹おどり焼き、イセエビ二人で一匹のお造り、鯛のかぶと煮、蟹の味噌汁とついて、1万円を割るプラン。某テレビ番組サイトでの紹介だけど、これは完全に値段以上のプランです。ただし、温泉が「源泉掛け流し」とうたうけど、基本は循環で一部放流というのはちょっと残念。千葉の温泉というのは低温で加温は仕方ないけど、加水はしてないという。アルカリ性で肌がツルツルする泉質はいいんですけど。
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熊本行(観光編)

2011年09月19日 01時04分12秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 熊本は観光で行ったわけではないのですが、まあ、観光というか史跡や温泉も回ったので、そのまとめ。昔南九州を車で回った時に、人吉、阿蘇、黒川温泉に泊まったことがあるけど、市内は夏で暑くてあきらめたままになっていた。

 1日目。空港について市内に出るともう2時頃なので、まあお城かなと。熊本城天守閣は1960年に再建された。多くの城は維新直後に壊されたか、空襲で焼けたわけだが、ここは1877年の西南戦争で焼けたのである。もともとは加藤清正が1600年頃に天守閣を築いたもので、近江の石積み職人集団である穴太(あのう)衆を呼び寄せて壮大な石垣を築いた。日本3名城とも言われるらしいが、まあ現存でないのが残念だけど素晴らしい城。加藤清正をどう考えるかは難しいけれど、2代で滅ぼされ細川家が続くことになる。


 2日目
 車を借りて、その加藤清正の墓所である本妙寺へまず。本妙寺はハンセン病の歴史に出てくるところで、加藤清正がハンセン病だったという伝説もあり、本妙寺前には多くの患者たちがいたという。これを明治時代にイギリス人伝道師ハンナ・リデルが見てショックを受けて病院を開くことになる。そのハンセン病者たちは1940年に国家権力による強制収容を受けた。「本妙寺事件」として名高い。そこから山道を飛ばして、霊巌洞(れいがんどう)へ。ここは晩年になって細川家につとめた宮本武蔵がこもって「五輪書」を書いたという洞窟である。


 そこから少し行くと、漱石が「草枕」の舞台である小天(おあま)温泉。そこには「草枕交流館」、漱石が滞在した前田家などがある。小高い丘の上に草枕温泉「てんすい」もある。お湯がたっぷり出ている大風呂に加え、雲仙を見晴らせる露天風呂、「草枕」風呂(前田家の風呂の再現)などがあり、お湯も素晴らしいし、素晴らしい温泉。立ち寄り湯ベストテンに入るのではないか。宿泊も可能。一方、小天温泉の一軒宿が「那古井館」。ここも素晴らしい湯で、一度泊まってみたい旅館。ところで「てんすい」で知ったのだが、ここは笠智衆の生誕地で名誉町民だったという。また、交流館ではピアニストのグレン・グールドが「草枕」の影響を受けていて、そこから「草枕」を読む人が多いのだと聞いた。グレン・グールドは僕も大好き。
(左は今は使えない前田家の風呂。中は那古井館の風呂)

 「草枕」に出てくる女性那美のモデルは、前田槌(つち)という女性だということだが、実際のツチは宮崎滔天(とうてん)の妻だった。ということで、今度は少し足を延ばし、荒尾市の宮崎兄弟資料館へ。宮崎滔天は孫文の支援者で、素晴らしく面白い「三十三年之夢」という回想録がある。今年は辛亥革命100周年。中国人の若い館員もいて説明を受ける。滔天は兄弟も興味深いし、子供の龍介も語りたいがやめておく。滔天は一時浪曲師桃中軒雲右衛門に弟子入りして牛右衛門を名乗った。1976年に文学座が上演した宮本研の「夢・桃中軒牛右衛門の」を見て感激したものだ。これは僕が見た劇のベスト5に入る。宮崎兄弟のことは、「革命」というテーマが僕らの社会から消えてしまい忘れられている感じがする。しかし、社会改革と国際連帯の可能性を考えるとき、今でも血の出るような生々しいドラマを展開したのが宮崎滔天と言う存在だと思う。
(中国語の案内と孫文との面会の再現)

 さて、田原坂(たばるざか=西南戦争の激戦地)を見て、熊本へ戻り、急いで「リデル・ライト資料館」へ。先に書いた本妙寺で衝撃を受けたハンナ・リデルとその姪エッダ・ライトは、キリスト教に基づくハンセン病専門病院「回春病院」を開いた。日本のハンセン病史の中に大きく出てくるところ。現在は「リデルライト記念老人ホーム」となっており、リデル女史の心は受け継がれている。素晴らしくきれいな洋館の記念館が老人ホームの裏に立っている。


 3日目。2日目は車であちこち回ったが、3日目は市電で。市電のある町なのだ。この市電が宣伝の絵が描いてあったりして面白いのだが、うまく写真が取れなかった。漱石の家もあるけどザット見ただけ。水前寺公園が有名だから行ってみた。暑かったけど。近くに文学館もあり、徳永直とか中村汀女が熊本生まれだった。漱石は熊本に4年いて結婚もしているが、1年しかいなかった松山の方が「坊ちゃん」で知られてしまった。そこから市電と熊本電鉄を乗り継いでハンセン病療養所菊池恵楓園へ。その話は別に。しかし、上熊本駅から北熊本駅までの短期間を走る熊本電鉄の支線は、いまどき冷房もない、扇風機の電車でびっくりした。今は鉄道にそれほど関心はないのだが、これは有名なんでしょうか。
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沖縄の写真

2011年05月27日 20時23分31秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 このままでは忘れてしまいそうなので、沖縄で撮った写真をいくつか。ケータイで撮ってすぐアップすることもできるわけだけど、いつも忘れる。昔は重いカメラをかけて山に登ったものですが、デジカメ時代になって逆に写真に興味がなくなりました。

 宮古島の東平安名崎灯台、西平安名崎夕景。
 

 本島の北部にある大石林山のガジュマル、首里の古城の石畳に映る影


 ハンセン病療養所 宮古南静園にある職員宿舎の壁の銃弾(機銃掃射)、本島名護の愛楽園にある壕、最後は愛楽園前の海。沖縄のハンセン病患者は指導者青木恵哉とともに迫害から逃れ園のある屋我地島に上陸した。海はあくまでも美しい…。
 
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宮古島

2011年05月19日 22時10分54秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 宮古島に来ました。ホテルに全室洗濯機つきで、今洗濯中。ロビーにインターネットがあり、そこから投稿となかなか恵まれています。明日午後からハンセン病市民学会ですが、一日早く入って観光。

 いや、宮古島がこんなに快適な素晴らしいところとは知りませんでした。まあ、レンタカーがないと動けないけど、ドライブの楽しさでは日本有数ではないでしょうか。景色も北海道の利尻、礼文なみで、梅雨の平日だからかもしれないけど、車も全然いなくて快適ドライブ。特に島の北にある池間島、南西にある来間島という小さな島には橋が通じてて、長い橋を飛ばして気持ちの良いドライブが楽しめました。来間島には「楽園の果実」というカフェがあって、そこのトロピカル・スイーツは絶対わざわざ行く価値があります。やっぱり、ガイドブックはちゃんと買って読んでおくものです。

 東平安名崎(ひがし・へんなざき)と西平安名崎という名所が島の東西(というかホントは南北)にあって、とくに国の名勝の東平安名崎には上れる灯台がありました。灯台というのも大好きで、ずいぶん行ってます。灯台じゃなくても「岬めぐり」が好き。宗谷岬、納沙布岬、襟裳岬、犬吠崎、観音崎、石廊崎、御前崎、潮岬…。東平安名崎は太平洋と東シナ海を分けるところということで、実に見晴らしがいい。さんご礁も素晴らしい。

 宮古馬の放牧場もありました。在来種の日本馬は、木曽や都井岬で見たけれど、そういえば宮古馬もあったんだっけ。といろいろ見て回っただけですが、知らないところを行くのは楽しいですねえ。

 宮古島温泉というのもありました。これも全く知りませんでした。深く掘ってるけど、掛け流しだそうです。温泉ホテルを隣に作ってたから、来年あたりできるようです。

 
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沖縄にて

2011年05月18日 21時38分21秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
月曜日から沖縄本島に来ています。明日、宮古島に移動し、明後日からハンセン病市民学会。

ということで、勉強より観光みたいな、でもやっぱり勉強もあるかなというような日々。

梅雨の最中で、雨や曇りが多いけど、温度の割りに蒸し暑いので、だいたいの人は半袖。

昨日はレンタカーで、北端の辺戸岬まで行きました。沖縄自動車道は無料化実験中。名護近くまでは高速があるけど、そこからが遠い。

辺戸岬からは与論島が見えました。米軍統治時代は、ここでいろいろあったところ。祖国復帰闘争の記念碑があります。

その近くに熱帯カルストの北限という大石林山がありました。全く聞いたこともなかったけど、ここは奇岩怪石で驚きました。行ってみないとわからない名所は多い。

道の駅かでなに寄って、嘉手納基地を一望しようと思ったら、修学旅行の一団が基地をバックに記念写真撮りまくり。学習コーナーに寄る生徒なし。

国際通りも中学生だらけ。多分東京ディズニーランドから変えた学校も多いのかもしれません。

ところで、ドライブしてたら、某所で津波という地名を見つけて、驚きました。学校もあった。まあ、ツハと発音するわけですが、いろいろな地名があるものだと感心しました。

まあ地名は選べませんが。書かない方がいいかなとも思うけど、この発見はやはり書かすにはいられない気がして。
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