工藤鍼灸院・院長のひとりごと2

真岡市(ハローワーク向かい)
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あなたの街のはり屋さん
お灸もやってます

技術は伝えるものである

2008年05月27日 22時07分16秒 | 鍼灸・東洋医学
本日はZARDの坂井和泉さんの一周忌でございます。私はそれほど熱心なファンではありませんけどね、ZARDの楽曲を改めて聴いてみるとどれも聞いた事のある、知っている曲ばかり。何でもない事のようにも思えますが、実はこれ、すごい事ですよねぇ。
最近は懐かしの名曲なんかも聴いておりますが、作詞や作曲、歌い手が亡くなってもその楽曲は未来永劫残ります。その当時にリアルタイムで聴けなかった人が後になってからでも聴く事ができるのは、その人の才能が『作品』という形で残っているからに他なりません。

一方『技術』というものは、例え一生かかって身に付けたとしても自分が死んでしまえばそこでおしまいでございます。形として残せない以上、受け継いでくれる人がいなければその技術は消滅してしまうわけです。だからこそ職人は後世に全ての技術を伝えるための努力をするわけです。
この『技術を伝える仕事』は一般的な技術職だけではなく、スポーツ選手とコーチという間柄でも成り立つものですし、我々鍼灸師にも該当致します。どの分野でもそうですが、経験のある者はその技術を後世に残す義務があると思うんです。
ですからね、そのための努力をしない職人は本当の職人ではないと、私はそのように考えております。

人から人へ、手から手へ伝えて行く技術。
この儚さゆえ、我々の技術は時に画一化され、マニュアル化が進められる場合がございます。私の母校でもそのような試みがなされているという噂を聞きますし、その技術を確実に後世に残すためにはこの方法もまた否定されるべきではありません。

ですが、感覚的なものは感覚的にしか伝わらないものです。

例えば脈を診てその脈状を教えるという場合、図解したり文章化したりするのもひとつの手段だとは思いますが、感覚的にこうだ!というものは実際に脈を診て感じる意外に伝えようがないわけです。
その感覚を共有するためには、教える側と教わる側に共通の意識がなければなりません。緊脈と弦脈の違いは明らかなのですが、教える側と教わる側の意識がずれているとこの違いがうまく伝わらないという事態が生じるわけです。

その意識を共通化するには、とにかく数多く脈を診るしかありません。学生さんにはそれ自体をとても難しく感じるかも知れませんが、朝起きた時、電車に乗っている時、走っている時、食前、食後、眠い時・・・自分自身の脈ならいつだって診られます。いつも脈を診続けていれば、どういう時にどんな脈になるかが必ずわかるようになります。その積み重ねから得る経験が大事なんです。

教える側も努力しなければなりません。
教わる側も努力が必要です。
お互いの努力なくしては何も伝わらないのであります。



・・・あー、今日はつまんない事書いちゃった。
ZARDからえらい脱線したなぁ(^^;)
ま、いいか。



近年の鍼灸学校の乱立により、将来的には鍼灸師の数が爆発的に増える事が予想されています。
それを受け、ある人がこんな事を言っていました。

「ライバルが増えるのに何でそのライバルに教えるの?自分だけの技術にしちゃえばいいんじゃない?昔から『秘伝の技術』みたいのもあるんでしょ?技術は独り占めするものじゃないの?」

そういう考えもあるのかも知れませんが、「秘」という漢字を辞書でひくと「隠して内容が知られないようにする」という意味以外にも「人知では知りがたいほど奥深い」という意味が載っております。他の分野はどうかわかりませんが、鍼灸に関する秘伝の技術は「奥深い」という意味が込められているのだと思っています。
ですからね、我々は若い世代に対して隠したりせず、その奥深さをどんどん伝えていかなければならないんだと、私はそう解釈しております。



何だか今日はよくわかんない日記になっちゃったなぁ(^^;)
コメント
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