実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

私たちの選択 実戦教師塾通信五百二号

2016-07-01 11:57:17 | 戦後/昭和
 私たちの選択
     ~映画『海よりもまだ深く』を観る~


 1 「消えたもの」はどこへ

 幼児が、目の前にあったオモチャを探そうとするしぐさを見せるのは、生後6カ月を越えるあたりだという。物事やものが、まだ続いている/まだあるという意識が発生したしるしだ。私たちはこのことに驚き歓(よろこ)び、「親としての感慨」にひたったりする。日増しに成長する子どもは、枯れた花や、食べてしまったお菓子がどこに行ったと、せがんで親を困らせたりするようになる。気がつけば、大人になった私たちも、そんな喪失感に捕らわれている。大人たちはしかし、泣いてせがむ相手をもう持っていない。
 私たちの目の前から消えたものは、どこへ消えたのだろう、そしてそれは取り戻せるのだろうか。いや、取り戻すことはいいことなのだろうか。そんな切ない、しかし、懲(こ)りないとも思える大人の物語を、「家族」の姿にこだわり続ける是枝裕和監督が、撮(と)った。

 2 憧(あこが)れの団地

これは、1960年当時の皇太子夫妻(現在の天皇/皇后)が、東京ひばりが丘の団地を訪れた時のもの。当時、団地の抽選倍率は、20倍とも40倍とも言われた。鉄筋づくりの建物、鉄枠(てつわく)の窓は、庶民の憧れだった。
 これより5年ほど逆上った団地の部屋を見てみよう。

一番注目すべきは、右手の戸棚だ。この棚にある細長い窓には、金網が張ってある。これは通気性に優(すぐ)れ、虫よけの機能も持ち、作った料理の一時保管場所ともなった。流し台は型に流し込んだコンクリートで作ったもの。ガス台は見えていないが、単発の鋳物(いもの)製である。そしてテーブルの花は、なんと菊だ。しかし、西洋の装(よそお)いが満載の生活に、人々の笑みがこぼれている。
 そして、皇太子夫妻が視察した団地の部屋はこうだ。

急速に人々の生活が変容していく。ラジオは真空管をやめ、ミキサーも姿を見せる。流し台はステンレスとなり、ガス台はレンジになっている。金網の戸棚は姿を消している。第二の戸棚「冷蔵庫」が登場したからだ。なぜか正装の夫婦が食べるのは、カレーライスであり、堂々の洋皿とスプーン!が、テーブルを演出している。
 この頃同時に、私たちは自分の親と、急激に距離を置きだす。二人の食卓に親の姿はない。人々の憧れのグレードは、またひとつ上がって、そして別な場所に移動していた。

 3 当たり前に「あった」もの

そして、映画に見える団地である。『海よりもまだ深く』予告の動画から拝借(はいしゃく)した。団地は第三期に入っている。いや、それがすでに終焉(しゅうえん)を迎えている。若いときに親を捨てた夫婦はもう高齢で、夫はすでに他界している。二人の子どもは独立して、団地を出て行った。
 「第二の戸棚」が、部屋を圧倒するばかりの威容を誇っている。この冷蔵庫の左奥に見える部屋が和室。寝室にも子ども部屋にもなった部屋。合板づくりの和ダンスは、団地サイズの部屋をさらに狭くし、布団を二組用意すれば、隙間(すきま)もなくなった。時代が生んだ様々な小物は、空間を無駄なく使い、新たに空間を生み出すだったはずの小道具とともに、これでもかと部屋に充満している。
 かつて憧れたはずの生活は、今や「早くおさらばしたい」場所に成り下がっている。そして私たちの多くは、
「こんなはずじゃなかった」
と思う。「なりたかったもの/欲しかったもの/夢」があったからだ。しかし、きちんと振り返れば、私たちの「希望」が「失望」へと変貌した理由は、明らかだ。

 第一期と言える団地の空き地は、昼間/夕方いつでも賑わいを欠かさなかった。女たちと、彼女たちが必要とするものを持った「商売人」が、引きも切らなかったからだ。夕方が近くなれば、野菜/魚などの食材、昼間は金物や日用雑貨まで、常に団地界隈は活気に満ちていた。
 しかし第二期に入ると、この景色は大きく変わっていく。空き地は段々と「駐車場」へと姿を変える。1957年は、すでにダイエー一号店が開店、遠くまで出向いて買い出したものを保管する「戸棚」も、着々と増えていた。マイカーブームの火付け役「ダットサンブルーバード」は、1959年に売り出された。買う人売る人が、生活空間で共存するという姿は、急激に衰(おとろ)えていた。たったの5~10年で、人々や生活の姿が変わってしまう。こんなことがあるのだ。このことは、天安門前広場が、ついこの間まで自転車の通勤者で埋まっていたことを思い出すといいかもしれない。
 ここで何度か書いてきたが、この時期、つまり1958年の11月、皇太子が皇族でない民間の女性(日清製粉社長長女)としては、初めての婚約相手を発表。その一カ月後、テレビ電波塔の象徴、東京タワーが完成。テレビ登録台数は、前年より一気に10倍の百万台となる。何が起こったのか。
 1958年に巨人に入団した長島茂雄は、口から泡を飛ばす人たちで、ラーメン屋をいっぱいにした。その前はどうだったか。空手チョップで「外人」をやっつける力道山を応援する人たちが集まったのは、駅前と公園、そして神社だった。数少ないテレビが、そこにはあった。それが、ラーメン屋へ場所を移し、やがて町うちの何軒かへと移動する。人々の興奮や感動は、次第に小さな場所へとところを変え、「単独の家」へと向かっていく。確かに人々は、「好きなとき」に「好きな番組」を見ることが出来るようになった。

 4 私たちの「希望」
 人々/私たちは、「快適」で「便利」な生活を求めた。それは自然なことではあっても、悪いことではなかった。映画の中、母(樹木希林)が、一人で暮らす団地生活に、言ってみれば、
「なんの不自由があるわけではない」。
しかし、ここにあるのは、
「こんなはずじゃなかった」
生活である。そこから抜け出すには、
「なにかを諦(あきら)める」
ことだと、母は続ける。そうしないと幸せにはなれない、と。
 映画は、家族それぞれ「諦め」るものを、

[母]分譲の部屋、息子(阿部寛)夫婦の復縁
[息子]「当たり前の幸せ」
[嫁(真木よう子)]本当は好きな夫との家族

としているかのようだ。夫との復縁は無理だと言う嫁に、
「そうねえ、無理よねえ」
とつぶやく母が切ない。
 私たちに希望はないのか。そんなことはない。映画は、母と息子の変わらぬ姿をコミカルに描く。すでに「新しい相手」が出来ている嫁・孫(吉澤太陽)との「お寿司会」の継続が、予告される。そして何より、孫はすべてを受け入れている。愛することはあっても、すべてを憎(にく)むことなく受け入れている。きっと、みんなから「愛されて来た」からだ。これが希望でなくてなんだろう。
 ささやかな「夢」も、秘めやかな「未練」もいいではないか、楽しく生きましょう、監督はそう言っている気がする。


 ☆☆
プール入りましたよ。もっとはしゃぎたかったけど、少し抑(おさ)え気味にしときました。でも、子どもは、
「センセ~、大人げな~い」
などと言うのでした。資生堂だったか、
「BIGG SUMMER!」
なんて、いつのコピーだよと言われそうですが、夏はいいなあなどと、久しぶりに思ったのです。

 ☆☆
皆さん、選挙どうします? 私は決めてます。そして、あんまり期待してません。横暴だ独裁だと言われようが、今の内閣の支持率は5割近いんです。でも、平和憲法の行く末に関しては、絶望してないんです。そこは楽観的なんですよ。若者も、こんな機会を大切にして欲しいと思ってます。