遠い子どもたち Ⅳ
~「ひきこもり」~
1 「くらいね」
もう死語となった「ネクラ」を覚えているだろうか。1980年代に流行した言葉だ。この言葉のもたらした勢いはものすごく、
「くらいね」
と、教室で誰かから言われたら最後、その子はその場をどうにかしないといけなかった。「泰然自若(たいぜんじじゃく)」「悠々自適(ゆうゆうじてき)」なる世界とは違う息苦しい世界が、子どもたちの世界をダイナミックに囲い込み(かこいこみ)始めたのだ。「くらいね」と言ったのは、誰かが言ったのではない。その場所(集団)が言ったのだ。
言われたその子は例(たと)えば、
○ひとりで本を読んでいた
○一緒(いっしょ)にいるのだが、少し声が小さかった
○一緒にいても笑いが少なかった 等々
だけである。しかし、そう言われた瞬間からその子は、
本を読むのをやめないといけなかった/声を大きくしないといけなかった/大げさに笑わないといけなかった
のだ。恐ろしいほど集団が閉じ籠(こ)もる、その陰湿(いんしつ)な力が作用する時代の始まりと思えた。だがこの時はまだ、
「セイシュン(青春)だね」「なにセイシュンしてるの?」
なる別な言葉が併存(へいぞん)していた。ひとりで本を読んでいたり、窓でぼんやりしていると、この言葉が差し向けられた。分かると思うが、これは「ぼく/私」から「きみ/あなた」に向けられた言葉だ。「くらいね」と並べれば、なんて優(やさ)しい響(ひび)きを持った、親和(しんわ)的な言葉だろう。しかし、温かさを伴(ともな)ったこの言葉は、集団的な、どす黒い「くらいね」に圧倒(あっとう)され、フェードアウトしていく。
校内暴力と並行(へいこう)して、子どもたちの世界でこんなことが起こっていたことに、私たちは慄然(りつぜん)としないといけない。この集団への同化(どうか)を強制するストレスが引き金となって、校内暴力が起こったわけではない。それとは異質な場所で、子どもたちが「きみ/あなた」と「向き合うことをしなくなる」ことを始めた。あるいは、「きみ/あなた」と「向き合わずにきた」子どもたちが、そのまま「成長」したのだ。
「向き合う」とは「あなたとぼく」の世界のことだ。子どもが向き合えば、そこにはいさかいが絶(た)えない。その年齢が小さいほど、いさかいを起こす。その原因の根元(ねもと)には、人間が元来(がんらい)抱える「不安/不満」があり、常にそこで「違和感」が生まれるから、とは前回書いた。しかし、そのなかでこそ子どもは、自分とは違う「相手」という像(ぞう)を作り上げてきた。そして「折りあい」というものを身につけた。「折り合い」は、「あなたとぼく」が「向き合う」中で作られるのだ。しかし、
○そもそも少ない子ども
○大きく膨(ふく)れ上がった「してはいけないこと」
○それらを「早めに発見し」子どもに介入(かいにゅう)する大人
○人間(相手)なしで成立できる生活
そんな中で「あなたとぼく」の世界は、子どもたちには影が薄い(かげがうすい)ものとなっていった。そして、「折り合いをつける」ことを知らない、その必要もない子どもたちが「成長」していく。「あなたとぼく」の世界を通過しないままで、子どもたちは外に出たのだ。面食らったままの、あるいは面食らうことを経験していない子どもがいる。野球には打順があり、凧揚げ(たこあげ)には場所取りがあった。まだファミコンの時代には、順番もあり、それがテレビに切り換えられる時間さえあった。何より、それは「お茶の間」にあったのだ。しかし今や、ピカチューは自分の手(ゲーム機)の中にいて、「いつでも」「どこでも」出来るようになった。ゲーム機がお茶の間から子ども部屋に移行した頃、バブルが崩壊(ほうかい)した。その家に一番早く帰るのは父親だった。そしてその父は、塾やスポーツジムから帰る子どもや妻を待ったのだ。
子どもたちの中で生まれる「違和感/不安/不満」は、その多くが未処理のまま時代は進んだ。事態は混迷(こんめい)に突入する。
2 「仮面」
集団(生活)、あるいは相手に対する違和感(不安/不満)を、私たちは一定の距離を置くことでやりくりする。「我慢(がまん)する」とか、同じことだが「目をつぶる」とか、また「様子を見守る」とかいうことは、その時々の私たちの態度である。実はこのことは言葉を変えれば、
「仮面を被(かぶ)る」
ということだ。「自分を抑(おさ)える/見せない」からだ。以前、「仮面」はペルソナ(persona)であって、それはパーソナリティ(personality)=個性として受け継(つ)がれる、と書いた。つまり、「仮面」の生活は、人間には避(さ)けられない、そして成長に不可欠なものだ、と書いたことがある。
「いい子の仮面を被っているのに疲れた」
とは、少し前はやった子どもの言い分や、それをかばう大人の言葉だ。おそらく今も、多くが言うに違いない。しかし、違う。「仮面」とは、
○自分の何かを代弁するものであること
○自分の仮の姿であること
である。つまり、人間はもとは「たくさんの自分(仮面)」を持っている。そしてそれは、仮面であるがゆえに「いつでも外(はず)せ」て、「取り替え可能」だった。「豊かな自分」は多くの仮面を見いだすことで作られた。「変身(へんしん)」することの喜びを、私たちは何度も経験したはずだ。ところが現代の仮面は、
「たった一個」
であるがゆえに、自分がとてつもなくつまらない存在におとしめられた。こんな窮屈(きゅうくつ)なものを「仮面」とは言わない。「自分探し」とやらが流行する所以(ゆえん)だ。
1980年代後半に多く登場し、いじめの代名詞とも言えるものに、
「面白い(おもしろい)奴」
があった。それが「たった一個の仮面」の端的(たんてき)な例だ。みんなが同じ表情で過ごす中、少数の「変わり者」が注目される。多くの場合それは男だったと記憶しているが、彼がその役割(「変わり者」という役割)の「責任」をとるようにされていく。つまり、「仮面」を被り続けるような成り行きになっていく。「面白い奴」が「使いっ走り」になるまで、時間はそんなにかからなかった。
いま残されているのは「無表情」という「仮面」だ。いっとき、風邪でもない、花粉症でもない「だてマスク」なる「ファッション」がはやって、今も街を歩いている。それにメディアが飛びついて、またしても同じように、
「これなら人の目を気にしないでいられる」だの、
「仮面(いい子等々)でいることに疲れた」
なる発言を取り出して喜んでいる。より正確には、
「自分(の仮面)が見いだせなくてうろたえている」
「無表情というマスクのやり場に困っている」
だけだ。もちろんマスクの下に別なマスク(仮面)があるわけではない。
3 「ひきこもり」
「折り合い」のつけ方を知らない子どもたち、そういう意味での「仮面を持たない」子どもたちが外に出た時、外の世界で「折り合い」をつけるように促(うなが)された。外の世界とは、ご近所だったり幼稚園だったり、そして学校だった。もちろんその場所とのかかわりを、子どもたちがうまく持てるはずがない。その時子どもたちのとった方法が、
○外からは閉じた集団として強力に結ばれる
ことだったのは疑いがない。自分たちが形成した集団に同化させようとする力は、ここで強化された。皮肉(ひにく)なことだ。本当は成長と修正を促すはずの外の世界が、子どもたちの「同盟」を強化した。分かるだろうか。これは集団の「ひきこもり」という現象だ。ここから「外れ」たり「はみ出し」たりすることはさらに困難となった。「同盟」が制裁(せいさい)を加えるからだ。「いじめられた結果、被害者がひきこもりとなった」などとよく言う。しかしこれは、「ひきこもり集団からの脱走(だっそう)を試みた」と通訳されるべきだ。
この集団を強化した規律が、のちの「空気」だったことに読者も気がついたはずだ。そして子どもたちは、いや私たちもともに「空気を読む」世界に「速(すみ)やかに」移動し始めたのだ。
ではどうしようもないのか。絶望ばかりが蔓延(まんえん)したこの世界に打つ手はないのか。ないはずがない。
☆☆
いま話題と言えば「ソチ五輪」と「都知事選」。安倍首相は、世界各国の首脳が敬遠(けいえん)している開会式に出席するんですね。選挙、余裕ってことですかね。
☆☆
今朝NHKのニュースで、争点のエネルギー問題に焦点(しょうてん)を当ててました。震災直後の計画停電を取り上げて「不安な電力」と言ってました。あの計画停電の検証はどうなったのですかね。「電気は余ってる」と言った菅元首相は、コテンパンにされました。
☆☆
腹の立つことばかりですね。あの頃の記者会見で、大手メディアはパソコンのキーボードの音ばかりさせて、ちっとも声を出さなかった。声を出したのはフリーの記者。計画停電の提案に対して、
「電気が一体どれぐらい足りないんだ」
と、上杉隆たちが追求したことはあまり知られてません。足りない400万キロワットは鹿島の火力を再開すればなんとかなる、それも数日のうちに可能だ、と「うっかり」東電は答えてしまってるんですよね。
☆☆
都知事選、どうなりますかね。
~「ひきこもり」~
1 「くらいね」
もう死語となった「ネクラ」を覚えているだろうか。1980年代に流行した言葉だ。この言葉のもたらした勢いはものすごく、
「くらいね」
と、教室で誰かから言われたら最後、その子はその場をどうにかしないといけなかった。「泰然自若(たいぜんじじゃく)」「悠々自適(ゆうゆうじてき)」なる世界とは違う息苦しい世界が、子どもたちの世界をダイナミックに囲い込み(かこいこみ)始めたのだ。「くらいね」と言ったのは、誰かが言ったのではない。その場所(集団)が言ったのだ。
言われたその子は例(たと)えば、
○ひとりで本を読んでいた
○一緒(いっしょ)にいるのだが、少し声が小さかった
○一緒にいても笑いが少なかった 等々
だけである。しかし、そう言われた瞬間からその子は、
本を読むのをやめないといけなかった/声を大きくしないといけなかった/大げさに笑わないといけなかった
のだ。恐ろしいほど集団が閉じ籠(こ)もる、その陰湿(いんしつ)な力が作用する時代の始まりと思えた。だがこの時はまだ、
「セイシュン(青春)だね」「なにセイシュンしてるの?」
なる別な言葉が併存(へいぞん)していた。ひとりで本を読んでいたり、窓でぼんやりしていると、この言葉が差し向けられた。分かると思うが、これは「ぼく/私」から「きみ/あなた」に向けられた言葉だ。「くらいね」と並べれば、なんて優(やさ)しい響(ひび)きを持った、親和(しんわ)的な言葉だろう。しかし、温かさを伴(ともな)ったこの言葉は、集団的な、どす黒い「くらいね」に圧倒(あっとう)され、フェードアウトしていく。
校内暴力と並行(へいこう)して、子どもたちの世界でこんなことが起こっていたことに、私たちは慄然(りつぜん)としないといけない。この集団への同化(どうか)を強制するストレスが引き金となって、校内暴力が起こったわけではない。それとは異質な場所で、子どもたちが「きみ/あなた」と「向き合うことをしなくなる」ことを始めた。あるいは、「きみ/あなた」と「向き合わずにきた」子どもたちが、そのまま「成長」したのだ。
「向き合う」とは「あなたとぼく」の世界のことだ。子どもが向き合えば、そこにはいさかいが絶(た)えない。その年齢が小さいほど、いさかいを起こす。その原因の根元(ねもと)には、人間が元来(がんらい)抱える「不安/不満」があり、常にそこで「違和感」が生まれるから、とは前回書いた。しかし、そのなかでこそ子どもは、自分とは違う「相手」という像(ぞう)を作り上げてきた。そして「折りあい」というものを身につけた。「折り合い」は、「あなたとぼく」が「向き合う」中で作られるのだ。しかし、
○そもそも少ない子ども
○大きく膨(ふく)れ上がった「してはいけないこと」
○それらを「早めに発見し」子どもに介入(かいにゅう)する大人
○人間(相手)なしで成立できる生活
そんな中で「あなたとぼく」の世界は、子どもたちには影が薄い(かげがうすい)ものとなっていった。そして、「折り合いをつける」ことを知らない、その必要もない子どもたちが「成長」していく。「あなたとぼく」の世界を通過しないままで、子どもたちは外に出たのだ。面食らったままの、あるいは面食らうことを経験していない子どもがいる。野球には打順があり、凧揚げ(たこあげ)には場所取りがあった。まだファミコンの時代には、順番もあり、それがテレビに切り換えられる時間さえあった。何より、それは「お茶の間」にあったのだ。しかし今や、ピカチューは自分の手(ゲーム機)の中にいて、「いつでも」「どこでも」出来るようになった。ゲーム機がお茶の間から子ども部屋に移行した頃、バブルが崩壊(ほうかい)した。その家に一番早く帰るのは父親だった。そしてその父は、塾やスポーツジムから帰る子どもや妻を待ったのだ。
子どもたちの中で生まれる「違和感/不安/不満」は、その多くが未処理のまま時代は進んだ。事態は混迷(こんめい)に突入する。
2 「仮面」
集団(生活)、あるいは相手に対する違和感(不安/不満)を、私たちは一定の距離を置くことでやりくりする。「我慢(がまん)する」とか、同じことだが「目をつぶる」とか、また「様子を見守る」とかいうことは、その時々の私たちの態度である。実はこのことは言葉を変えれば、
「仮面を被(かぶ)る」
ということだ。「自分を抑(おさ)える/見せない」からだ。以前、「仮面」はペルソナ(persona)であって、それはパーソナリティ(personality)=個性として受け継(つ)がれる、と書いた。つまり、「仮面」の生活は、人間には避(さ)けられない、そして成長に不可欠なものだ、と書いたことがある。
「いい子の仮面を被っているのに疲れた」
とは、少し前はやった子どもの言い分や、それをかばう大人の言葉だ。おそらく今も、多くが言うに違いない。しかし、違う。「仮面」とは、
○自分の何かを代弁するものであること
○自分の仮の姿であること
である。つまり、人間はもとは「たくさんの自分(仮面)」を持っている。そしてそれは、仮面であるがゆえに「いつでも外(はず)せ」て、「取り替え可能」だった。「豊かな自分」は多くの仮面を見いだすことで作られた。「変身(へんしん)」することの喜びを、私たちは何度も経験したはずだ。ところが現代の仮面は、
「たった一個」
であるがゆえに、自分がとてつもなくつまらない存在におとしめられた。こんな窮屈(きゅうくつ)なものを「仮面」とは言わない。「自分探し」とやらが流行する所以(ゆえん)だ。
1980年代後半に多く登場し、いじめの代名詞とも言えるものに、
「面白い(おもしろい)奴」
があった。それが「たった一個の仮面」の端的(たんてき)な例だ。みんなが同じ表情で過ごす中、少数の「変わり者」が注目される。多くの場合それは男だったと記憶しているが、彼がその役割(「変わり者」という役割)の「責任」をとるようにされていく。つまり、「仮面」を被り続けるような成り行きになっていく。「面白い奴」が「使いっ走り」になるまで、時間はそんなにかからなかった。
いま残されているのは「無表情」という「仮面」だ。いっとき、風邪でもない、花粉症でもない「だてマスク」なる「ファッション」がはやって、今も街を歩いている。それにメディアが飛びついて、またしても同じように、
「これなら人の目を気にしないでいられる」だの、
「仮面(いい子等々)でいることに疲れた」
なる発言を取り出して喜んでいる。より正確には、
「自分(の仮面)が見いだせなくてうろたえている」
「無表情というマスクのやり場に困っている」
だけだ。もちろんマスクの下に別なマスク(仮面)があるわけではない。
3 「ひきこもり」
「折り合い」のつけ方を知らない子どもたち、そういう意味での「仮面を持たない」子どもたちが外に出た時、外の世界で「折り合い」をつけるように促(うなが)された。外の世界とは、ご近所だったり幼稚園だったり、そして学校だった。もちろんその場所とのかかわりを、子どもたちがうまく持てるはずがない。その時子どもたちのとった方法が、
○外からは閉じた集団として強力に結ばれる
ことだったのは疑いがない。自分たちが形成した集団に同化させようとする力は、ここで強化された。皮肉(ひにく)なことだ。本当は成長と修正を促すはずの外の世界が、子どもたちの「同盟」を強化した。分かるだろうか。これは集団の「ひきこもり」という現象だ。ここから「外れ」たり「はみ出し」たりすることはさらに困難となった。「同盟」が制裁(せいさい)を加えるからだ。「いじめられた結果、被害者がひきこもりとなった」などとよく言う。しかしこれは、「ひきこもり集団からの脱走(だっそう)を試みた」と通訳されるべきだ。
この集団を強化した規律が、のちの「空気」だったことに読者も気がついたはずだ。そして子どもたちは、いや私たちもともに「空気を読む」世界に「速(すみ)やかに」移動し始めたのだ。
ではどうしようもないのか。絶望ばかりが蔓延(まんえん)したこの世界に打つ手はないのか。ないはずがない。
☆☆
いま話題と言えば「ソチ五輪」と「都知事選」。安倍首相は、世界各国の首脳が敬遠(けいえん)している開会式に出席するんですね。選挙、余裕ってことですかね。
☆☆
今朝NHKのニュースで、争点のエネルギー問題に焦点(しょうてん)を当ててました。震災直後の計画停電を取り上げて「不安な電力」と言ってました。あの計画停電の検証はどうなったのですかね。「電気は余ってる」と言った菅元首相は、コテンパンにされました。
☆☆
腹の立つことばかりですね。あの頃の記者会見で、大手メディアはパソコンのキーボードの音ばかりさせて、ちっとも声を出さなかった。声を出したのはフリーの記者。計画停電の提案に対して、
「電気が一体どれぐらい足りないんだ」
と、上杉隆たちが追求したことはあまり知られてません。足りない400万キロワットは鹿島の火力を再開すればなんとかなる、それも数日のうちに可能だ、と「うっかり」東電は答えてしまってるんですよね。
☆☆
都知事選、どうなりますかね。