実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百十八号

2011-12-17 19:17:36 | 子ども/学校
 <学校>と<子ども> その6

      「古い教育闘争」から「新しい教育理論」へ


 「教育共闘」


 1970年の時点で大学・反戦闘争は後退局面となっており、私たちはバリケード闘争から授業再開反対闘争へと追い込まれていた。授業再開に直接ストップかける場合もあったが、徐々にそれも校舎の外からスピーカーで呼びかける、という形態になってもいた。そんな時、まったく意に介せず校舎・教室に出向く学生たちはいいのだが、うつむいて済まなそうに私たちの前を過ぎる学生や、場合によっては授業を抜けて私たちに合流する学生を見て、こんなことでいいはずがない、と思った。こんな心情的に訴えるものは、生活や思想と触れることがない、と思った。オレたちを支えているのは「根性」かよ、とも思った。
 70年12月の折原講演(<学校>と<子ども>その3参照)で、私たちは伝習館の質を大学闘争として引き継げるのだろうか、いや引き継ぎたいと思った。講演後折原氏に、大学で伝習館の検証をしているところはあるか、と尋ねた。どこまででも出向くつもりだった。氏は「横浜国大ですね」と、間を置かずに言った。それから三カ月後、私たちは横浜へと向かった。
 天気のいい日だった。大学構内に入ると、たまたまなのだがこの日はヘルメットの人たちと民青の人たちがドンパチやっていた。ズタボロになっている民青の人たちを赤や青のメットの人たちが追求している。この中に「教育共闘」の人たちがいるのだろう、そう思って赤のメットの人に聞いた。いや、今日は来てない、とその中の一人が私たちをプレハブの建物へと誘った。そして、その奥に向かって「おい、ヤマモト」と言うのだった。「お客さんだよ」
 中に招かれて私たちは山本(哲士)氏と向かい合った。山本氏以外の四、五人は立って後から様子を見守るといった格好だった。よくは覚えていないが、意見・感覚の一致を見た。授業再開反対はやめよう。私たちは授業そのもので勝負すべきだ。
 「教育共闘」は都内の早稲田・立教・法政などの大学と、横浜が一緒だったが、これが縁で私たちの宇都宮も加わり、秋には「関東教育共闘」を立ち上げることとなった。私たちは大学の講義の中で議論をすることを柱とした。
 ふたつの路線があった。ひとつは「単位認定権を行使するのかどうか」という、教官を多数集めるが、一人一人の意思を尋ねる団交の形。もうひとつは、当初から予定の、授業でその内容について議論すること。主に「道徳教育」と「教育評価」の授業を中心になされた。かつてない授業の展開に、教室は熱気に包まれたが、教官がついに「これは授業妨害ではないか」と訴える局面があったのも確かだ。授業再開反対闘争の時は、学生が教室に逃げ込むようだったのに対し、今度は逆に、教室から逃げていく学生がいたのも興味ある現象だった。横浜ではその学生に対して「待て! 今は授業中だ、オマエはどこに行くのだ!」と止めた場面もあったという。おお怖い。


 消滅、そして訣別

 しかし、この「教育共闘」の取り組みは消えていく。授業での議論はある意味、まるごと取り込まれていく。そのさらに向こう側を見据えた取組を、私たちは出来なかった。私たちはまだまだ未熟だった。そんな中多くの仲間は教師になった。なんと私まで教師になってしまった。採用試験に向かう宇都宮駅のホームまで刑事が来て、
「オマエみてえな奴がセンセイになれるわけがねえんだ!」
と言われた私が、受けること9回の採用試験(第二次ベビーブームの当時はこんなに採用試験があった)の9回目で採用されてしまった。
 しかし結局、大学闘争・教育共闘の質を学校現場(教室・生徒の実際)に持ち出すことはやはり私たちには出来なかった。「伝習館高校」→「伝習館」という質的転換に、私たちはまだまだ遠かった。そしてせいぜい「いい先生」という姿以上のものから私たちは抜け出せなかった。
 徐々に「教育共闘」は姿を消す。そして最後はついに山本氏と二人だけとなった。

「日を追うに連れ、とうとう二人だけになりながら、しかもこの二人も終に、
殴りあう力もなく、沈黙の亀裂のうちに訣れた。その最後の日の氏の面貌をわ
たしはいまだに忘れない。『海棠』と銘打ったガリ版刷りのワラ半紙につづっ
た文字は、いきつくところまでいきつめた最後の二人の交流の懸崖を、わずか
二号であるが、印していた」
           (せんだん書房『教育の分水嶺(山本哲士講演録)』あとがきより)

 私はこの時新採だった。山本氏はこの後すぐメキシコに飛び立つ。
 五年後(1979年)、その頃私は地域の医師たちと共に障害者の会を立ち上げていた。成長・発達が階梯的であるという学校的言説に抗するものを確立したいという願いでいた。そして、同時にこの頃、地域・家庭と学校の間がきしみ始めていた。小学校では学級崩壊の元祖みたいな現象があちこちで始まっていた。授業中の徘徊、ベランダで作品が燃やされる等。高校・中学では校内暴力が始まる。週末の夜道は暴走車(バイク)で埋まる。
 そんな時、山本哲士がメキシコから帰って来る。ある日、自宅の電話がなる。元気か、の声は唐突だった。東京の北千住で山本氏は「みんなひっくり返っている。琴寄もだ」、そう言ってイリイチ率いる「国際文化資料センター」で学んだ興奮を語った。
 70年代、その頃日本の「教育理論」「教育実践!?」は、まだまだ「戦後教育」「国民教育」という枠を抜けていなかった。「よい教育」は「国家教育」と対立するもの、という概念だった。ステージはまったく古かった。
 この山本氏がひっさげてきた、イリイチを先頭とする70年代欧米・ラテンアメリカの教育理論・運動に、私は今までしてきたことに確信を持つ。


 ☆☆
次回、この70年代の代表的論者・実践家としてあげられる村田栄一を少しだけ取り上げます。「もうこれはいらない」と、この村田著『飛び出せちびっ子』を北海道の石川さんに進呈いたしたのですが、当時私は先輩から作ってもらい受けた、私御用達の「蔵書印」を自分の本に押していたのです。懐かしかった。そして、扉に自分の思い入れを書くのも習慣だったようです。買った日はなんの因果か「1971,4,28」なのですよ。

 ☆☆
昨日、東京上野は『黒船亭』で、娘と晩御飯を食べました。知ってますか、あの店のハヤシライスをジョンレノンは偉くお気に入りだったそうです。