<親の場所>2
通信83号への反響が著しかった。親や教師からのものと思えるが、意見や質問が寄せられた。いくつか取り上げたほうがいいと思われたので、ここで答えたいと思います。
①「心配しない方がいいのか」「心配してはいけないのか」
そんなことはない。何より「心配」は必要があるなしに関係なく、「自動的に」するものだ。心配する=心配になる、ということだ。しかし、「心配してはいけないのか」という発想をする方の大体が、本人の「心配するから」という言葉を聞いたら、「言ってくれないともっと心配になる」という言い方をする。それで本人の胸の内をさらに掻きむしる。そして、無理やり聞き出す人に「そうだったのか」と、本人の弁に納得し引き揚げる人はまずいない。子どもはそういうことを良く知っているのだ。子どもの悩みや不安は「親がなんとかしないといけない」「親がなんとか出来るものだ」と思っている人は、普段に子ども自身の解決能力、自立する力を弱くしているという自覚さえ必要である。
「いつか言ってくれるだろう」「いつか解決するのだろう」という気持ちで過ごすことは親にとってつらいことだが、何度も言ってしまおう、もっとつらい思いをしているのは本人なのだ、自分は親として出来ることをやっていこう、と「耐える」しかない。
②「いじめ」だった時はどうすればいいのか
いじめが初期の段階の時、親がそれを知ることはほぼ不可能である。もちろん本人は隠すし、本人自身が自分の周りで起こっていることをにわかに「信じ難い」、あるいは「気のせいかもしれない」と思うからだ。従って親が知ることが出来るのは、いじめがかなり進行してからになる。
いじめは実に厄介である。その事実を知った時、親として避けないといけないことがあるからだ。親が介入してのクラス内、または友人間での「絶対戦争」である。当事者同士での戦争が可能ならば、それは避けることもない。しかし、当事者同士がイーブンで戦えるような関係にあるときには、いじめ自体が生まれない。あるいは両者がそういう関係になった時にはいじめは終了しているとも言えるのだ。親が介入しての戦争は終わりがない。そこには「勝ち」も「負け」もない。「こんなことがあった」「いや、それはいいがかりだ」という悪無限とも言えるやりとりが続く。大人(親)が事実を確認・糾弾する場は、同時にもう一度本人をいじめられた時点に引き戻し、いじめる側に憎しみとなぶるチャンスを与える。
出来ることはあるか。83号で言った「温かい家庭」「帰ることが出来る家庭」を親が守ること、これが一番である。しかし、親として身体を引き裂かれそうな気持ちはもう少し行き場を必要とするはずだ。まず気がついたこと、または本人が言ってくれたことを記録しておくこと。そして次は、そのことを担任に相談することである。さて、その時に注意が必要だ。担任に「このことで他の生徒の気持ちを不安にさせないで欲しい」と断ることだ。「見守る余裕のない」担任は最悪の場合、次の日「○子がいじめられている。どういうことだぁ! 許さんぞぉ!」などと、激怒し演説をぶったりする。これが結構良くある。せっかく親が介入しての友人間の「無益な争い」を避けてきたというのに、すべて水の泡となる。
担任の立場で考えよう。担任は報告を受けたら、その報告をもとにクラスをじっくり見ないといけない。犯人らしき人物(たち)、または犯行らしき事実を確認出来たとして、担任はなにが出来るだろう。私が一番の方法として考えられるとしたら、いじめを受けている本人を「好きで好きでたまらない」気持ちになることだ。やはりおそらく、犯行や犯人は責められるべきものだが、「解決」は別な場所にあると思えるからだ。「いじめ撲滅宣言」なるものを大書して教室の前に貼ったバカな担任がいたが、毎日やっとの思いで登校していた生徒が、それで安心するとでも思ったのだろうか。嫌でも目に入る醜悪なメッセージのおかげで、被害者たる生徒は「私のことが書かれている」と心臓の鼓動はますます小さくなり、加害者たる生徒(たち)は「誰が誰をいじめてんだよ」とますますふてぶてしい。
私の経験で結ぼう。私は十年近く前になるが、二年続けて不登校の生徒を持った。というか、不登校の生徒は多いという現実をいいも悪いもなく、知っていた方がいい。
二年生の担任となったとき、一年生の中途から全欠だったというその子の親は実に悠然としていた。スカイラインGT-Rに乗る整備工の兄を持つその生徒の家は、昔の農家で実に広い敷地に住んでいた。三世帯一緒の家は祖父母が優しく、その子が学校を休むことについて「わけは分からないんだが、どうしたもんだか」と言った。「無理をさせないように」という私の言葉を、母親はふたつ返事でうなずいた。前年度担任した女子がこの家の隣に住んでいて、その両親が私を絶賛していたということは聞いたが、それにしてもこんな恵まれた環境にある子は、絶対不幸になるはずがないと思った。
担任になって一度も顔をみたことのないその子は、卒業間際にようやく私の前に姿を現した。あまりににこやかで穏やかなその顔に、ずっと前からその子を知っているような気分になったのを覚えている。卒業後、その子は専門学校へと進んだ。
もう一人の生徒は、やはり二年生から担任となった子だが、三年の後期になって休み始め、間もなく全欠となった。授業は殆ど聞かずに、思い出したようにむっくりと起きて質問するというように変わった風貌だったが、私には大いに興味をそそる子で、休みがちになったあとも、独特のジョークを聞きたいと思ったものだ。
母親との面談で、兄がちっとも働こうとせず、結婚した姉が戻ってきてしまって家にいる、父親は自分の話をちっとも聞いてくれない、という話を聞き、母親がひとりで抱え込んでしまっているのだな、と思った。もう記憶がはっきりしないが、二年の時の冬休みだったか、休みに入って何日かたったあと、私はこの子の机かロッカーの中に、通信簿が入れっぱなしになっているのに気付いた。いまどきは、中学校の生徒の机やロッカーは、学用品が入れっぱなしである。って、それは言い訳で「通信簿忘れた」と本人は学校に来なかったし、家から「通信簿もらってません」という抗議もなかった。私はあわてて家まで届けて、謝罪もしたが「もう少し子どもを見てあげてください」と言ってしまった。おそらくその余裕が母親になかったのだろう。
どうにもならなかった母親の気持ちは徐々に私にぶつけられるようになったと思える。もう少し子どもが登校出来るように刺激してください、もっとまめに家まで来てください、次第に母親は激しさを増していった。私はじっと聞くしかない。
やがてその子が専門学校に入り何年かして、その子から「元気です」という手紙が届いた。
通信83号への反響が著しかった。親や教師からのものと思えるが、意見や質問が寄せられた。いくつか取り上げたほうがいいと思われたので、ここで答えたいと思います。
①「心配しない方がいいのか」「心配してはいけないのか」
そんなことはない。何より「心配」は必要があるなしに関係なく、「自動的に」するものだ。心配する=心配になる、ということだ。しかし、「心配してはいけないのか」という発想をする方の大体が、本人の「心配するから」という言葉を聞いたら、「言ってくれないともっと心配になる」という言い方をする。それで本人の胸の内をさらに掻きむしる。そして、無理やり聞き出す人に「そうだったのか」と、本人の弁に納得し引き揚げる人はまずいない。子どもはそういうことを良く知っているのだ。子どもの悩みや不安は「親がなんとかしないといけない」「親がなんとか出来るものだ」と思っている人は、普段に子ども自身の解決能力、自立する力を弱くしているという自覚さえ必要である。
「いつか言ってくれるだろう」「いつか解決するのだろう」という気持ちで過ごすことは親にとってつらいことだが、何度も言ってしまおう、もっとつらい思いをしているのは本人なのだ、自分は親として出来ることをやっていこう、と「耐える」しかない。
②「いじめ」だった時はどうすればいいのか
いじめが初期の段階の時、親がそれを知ることはほぼ不可能である。もちろん本人は隠すし、本人自身が自分の周りで起こっていることをにわかに「信じ難い」、あるいは「気のせいかもしれない」と思うからだ。従って親が知ることが出来るのは、いじめがかなり進行してからになる。
いじめは実に厄介である。その事実を知った時、親として避けないといけないことがあるからだ。親が介入してのクラス内、または友人間での「絶対戦争」である。当事者同士での戦争が可能ならば、それは避けることもない。しかし、当事者同士がイーブンで戦えるような関係にあるときには、いじめ自体が生まれない。あるいは両者がそういう関係になった時にはいじめは終了しているとも言えるのだ。親が介入しての戦争は終わりがない。そこには「勝ち」も「負け」もない。「こんなことがあった」「いや、それはいいがかりだ」という悪無限とも言えるやりとりが続く。大人(親)が事実を確認・糾弾する場は、同時にもう一度本人をいじめられた時点に引き戻し、いじめる側に憎しみとなぶるチャンスを与える。
出来ることはあるか。83号で言った「温かい家庭」「帰ることが出来る家庭」を親が守ること、これが一番である。しかし、親として身体を引き裂かれそうな気持ちはもう少し行き場を必要とするはずだ。まず気がついたこと、または本人が言ってくれたことを記録しておくこと。そして次は、そのことを担任に相談することである。さて、その時に注意が必要だ。担任に「このことで他の生徒の気持ちを不安にさせないで欲しい」と断ることだ。「見守る余裕のない」担任は最悪の場合、次の日「○子がいじめられている。どういうことだぁ! 許さんぞぉ!」などと、激怒し演説をぶったりする。これが結構良くある。せっかく親が介入しての友人間の「無益な争い」を避けてきたというのに、すべて水の泡となる。
担任の立場で考えよう。担任は報告を受けたら、その報告をもとにクラスをじっくり見ないといけない。犯人らしき人物(たち)、または犯行らしき事実を確認出来たとして、担任はなにが出来るだろう。私が一番の方法として考えられるとしたら、いじめを受けている本人を「好きで好きでたまらない」気持ちになることだ。やはりおそらく、犯行や犯人は責められるべきものだが、「解決」は別な場所にあると思えるからだ。「いじめ撲滅宣言」なるものを大書して教室の前に貼ったバカな担任がいたが、毎日やっとの思いで登校していた生徒が、それで安心するとでも思ったのだろうか。嫌でも目に入る醜悪なメッセージのおかげで、被害者たる生徒は「私のことが書かれている」と心臓の鼓動はますます小さくなり、加害者たる生徒(たち)は「誰が誰をいじめてんだよ」とますますふてぶてしい。
私の経験で結ぼう。私は十年近く前になるが、二年続けて不登校の生徒を持った。というか、不登校の生徒は多いという現実をいいも悪いもなく、知っていた方がいい。
二年生の担任となったとき、一年生の中途から全欠だったというその子の親は実に悠然としていた。スカイラインGT-Rに乗る整備工の兄を持つその生徒の家は、昔の農家で実に広い敷地に住んでいた。三世帯一緒の家は祖父母が優しく、その子が学校を休むことについて「わけは分からないんだが、どうしたもんだか」と言った。「無理をさせないように」という私の言葉を、母親はふたつ返事でうなずいた。前年度担任した女子がこの家の隣に住んでいて、その両親が私を絶賛していたということは聞いたが、それにしてもこんな恵まれた環境にある子は、絶対不幸になるはずがないと思った。
担任になって一度も顔をみたことのないその子は、卒業間際にようやく私の前に姿を現した。あまりににこやかで穏やかなその顔に、ずっと前からその子を知っているような気分になったのを覚えている。卒業後、その子は専門学校へと進んだ。
もう一人の生徒は、やはり二年生から担任となった子だが、三年の後期になって休み始め、間もなく全欠となった。授業は殆ど聞かずに、思い出したようにむっくりと起きて質問するというように変わった風貌だったが、私には大いに興味をそそる子で、休みがちになったあとも、独特のジョークを聞きたいと思ったものだ。
母親との面談で、兄がちっとも働こうとせず、結婚した姉が戻ってきてしまって家にいる、父親は自分の話をちっとも聞いてくれない、という話を聞き、母親がひとりで抱え込んでしまっているのだな、と思った。もう記憶がはっきりしないが、二年の時の冬休みだったか、休みに入って何日かたったあと、私はこの子の机かロッカーの中に、通信簿が入れっぱなしになっているのに気付いた。いまどきは、中学校の生徒の机やロッカーは、学用品が入れっぱなしである。って、それは言い訳で「通信簿忘れた」と本人は学校に来なかったし、家から「通信簿もらってません」という抗議もなかった。私はあわてて家まで届けて、謝罪もしたが「もう少し子どもを見てあげてください」と言ってしまった。おそらくその余裕が母親になかったのだろう。
どうにもならなかった母親の気持ちは徐々に私にぶつけられるようになったと思える。もう少し子どもが登校出来るように刺激してください、もっとまめに家まで来てください、次第に母親は激しさを増していった。私はじっと聞くしかない。
やがてその子が専門学校に入り何年かして、その子から「元気です」という手紙が届いた。
船がなければ海を渡れない。
頼りとなる人となるよう努めよう。
繰り返す
我日本の柱とならむ
我日本の眼目とならむ
我日本の大船とならむ(開目抄)