実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信七十九号

2011-09-11 20:27:02 | 子ども/学校
「母校」に応援を見る


母校

 私はひとつの学校に長く勤務する主義で、そのため35年間の教員生活で経験した学校は全部で5つである。ひとつの学校に平均7~8年勤務ということになる。初めのふたつが小学校で残ったみっつが中学校だ。
 昨日、前々任校(最後から二つ目の学校)の柏市立豊四季中学校の体育祭を、もちろん午後一番目のプログラム「応援合戦」を見るためにに出掛けた。この応援合戦、大体が午後一の種目としてとりあげるところが多い。始まりの引き締め効果大ということでそうなるのだろう。私は中学校に勤務していた殆どの期間、応援団の担当をした。自分で言ってしまって恥ずかしいが「琴寄先生が○○中学校の応援を作ったんです」と、色々な先生が言ってくださった。使命感とか、仕事好きとかではない。応援が好きで好きでしょうがないだけだ。体育祭が終わると「冬眠します」と私はよく周りに言いふらした。
 今年、この学校に着任した校長は、私が現役の時ずいぶん理解をいただいた校長で、是非顔をみたいということもあった(大丈夫かな、こんなこと書いて)。まだ知っている先生も何人かいたはずだ、ということもある。
 さて、この豊四季中学校の校歌、なかなかいい。感動ものである。四部からなる合唱型式で、ちゃんとバスはバスという役割を持った歌詞とメロディだ。校歌というジャンルにありがちな「生徒というものに必要な義務や任務」とかいったありきたりで押しつけがましい言葉が極めて控えめだ。たとえて言えば多くの校歌(全部ではない)には「努力」「助け合い」やら「永久の友情」とか、むき出しの「学校的性善説」が闊歩しているのだ。これが小学校だと「分かり難い」そしりを免れるために、という理由なのだろうが、もう赤面しないと歌えない歌詞まであって困ったこともある。もちろん私は歌いましたよ。大きな声で。当たり前でしょ。また、それはそれで、しかるべき場所で使われれば、思い出が蘇り感動するという必要不可欠な小道具なのだし。
 じゃ、一番だけを

ひと筋の道をひたすら/御祖先らが 拓きし野なり/みよ 里の栄えを そのままに/胸張りて夢豊か 豊四季中学/君と立つ われと立つ ここに立つ

このように私が勤務していた頃はまだ田畑があって、正門前の70メートルくらいの直線路の両脇は見事に畑だった。だから私は毎朝心置きなく「今日こそは正門前100キロを出すぞ!」とバイクのエンジンを全開にした。しかし今、それらの田畑は見事に消え、近隣はモラージュ街のような賑わいである。店と住宅がひしめく道はいつも渋滞となった。それでも、今も校歌を合唱する生徒は、この歌詞にある懐かしさを見いだすはずだ。三番の「渡る風」の部分をバスが担当する間、女声部は「輝きてさわやかに」を歌いきってしまう。まるで、女子は風に乗っているかのような感覚に陥る(もちろん、生徒の状態がひどい時はこうならない)。
 とまあ、こんな具合だ。校庭をめぐる木は桜でなく柳という珍しい敷地のすぐ外側を東武線の電車が走り抜けていく。それを見上げての体育祭だ。



応援

 興味のないひとにはどうでもいい話なのだが、応援のポイントを言いたい。でもこれはこれで仕事や生活上の「技」を示していて面白いとは思うけど。
 応援合戦の応援には「物語」が必要とされる。「風林火山」でも「となりのトトロ」でもいい、主役、主になる流れが必要だ。しかし、もっと大事なものは「リズム」「めりはり」である。物語(仕事と言っても差し支えない)全体を捉え伝えようとする余り、私たちは「先」を考え、早くそこに到達しようと思う、または早く伝えたいと思う。そうして「現在(いま)」を台無しにしてしまう。下手な役者が長い台詞を言うと妙に居心地が悪く、何を言っているのかよく分からない時があるが、それはそういう欠陥を持っているからだ。
 空手の型になぞらえると、近代空手にありがちな型の解釈は多くが「ひと通り」である。空手の型はそれが古ければ古いほど、その意味することが実に多義に渡っていて、実は型を分解した時にも、その分解した一片一片がそれぞれが独立した技の世界を作っている。しかし、近代空手の型は物語としても技としても「ひとつ」しか持っていないという欠陥を持っている。「受け」た後に「攻(反)撃」という単純なものでなく、かつてよく言われた「受けが同時に攻撃である」といったものを含んでいる。それが古流の型である。技のひとつひとつの成否に生死がかかっていた。技のひとつひとつという「現在」の向こう側に「生死」の決着が待っていたと言ってもいい。それを「リズム」という言い方でくくるのは許されないが、応援の場合、それが分かりやすいかと思う。
 具体的にエールで考えてみよう。「フレーフレー、赤組」と団長が音頭をとる。そのあと団全体が追う。その全体が追うまでに到る一瞬の「間」は、発声までの最後の「詰め(溜め)」であり、全体のまとまりの「見極め」としてある。しかし、その「詰め」であるはずの「間」が(中)学校の応援の場合、当初は「ためらい」となる。そうしてだから仕方なく、団長の「ソレー」の「付け足し」合図が出てきた。それでも「ためらい」が続いて仕方なく、さらにそこに「オーリャ」を付け加えたりする団長もいた。しかし、本当は両方いらない。「ためらい」を「溜め」にしていくこと、それが本当は「応援団としての集団性」を作る醍醐味なのだ。「ためらい」が「詰め(溜め)」に変化する時、生徒(子ども)たちの中に変化が起こる。その時「大きな声」は「轟き」に変化している。子どもたちの顔は今までと違ってくる。グラウンドも顔つきを変える。
 練習前、集中しないと怪我をする、という注意を学校的に言う。しかし、逆なのだ。怪我を警戒することで集中出来るわけではない。「場所」を把握しよう、把握したいという気持ちが集中には不可欠なのであって、怪我に注意を向けることはひっくり返っている。

 ついでに応援に関係ないが、「付け足しのオーリャ」で思い出したので、ずっと中学校にいて気になっていたことをひとつ。授業でのあいさつが今は全教科で「お願いします」「ありがとうございました」となっているのは一般的に知られているのだろうか。ありゃなんだろうか。無言で、座ったままでもやってもいいと思うけど、または「こんちわ」でもいいと思うけど、ありゃなんだろか。「真剣勝負なのだ」とでも言うのだろうか。小学校の教員をやっていた時、体育の授業だけは私も「お願いします」「ありがとうございました」を言ってた。「やったね、ついに体育だ!」「頑張ろうぜ!」のノリだったが、そんなノリで中学校の先生たちは全教科やっていたのだろうか。いや、絶対そんな風には見えなかった。子どもたちに授業をしっかりと受け止めさせること、生徒に社会がどういうものであるかを教える手だてのひとつとしてet、どうでこうでと来そうだ。だったら英語の先生は「good morning!」だの、「good afternoon!」だのと、えらい軟弱だとでも言うのか? 大体今風に子どもたちは起立しないだの、あいさつは教師の声ばかりが響いているだのが趨勢であるというのが皮肉だ。この起立を徹底させ、着席の不揃いを嫌うことから出てきた(と言っても一部かと思う)のが、礼のあとに「1!2!3!」と「付け加え」を言わせて座らせている学校(教師)の存在だ。面白いでしょ?

 終わって校長先生は私のところまで来て、「いやあ、先生やっていた頃の応援から比べると…」と言ってくれた。しかし、炎天下での華やかな応援団の学ラン。この日ばかりは女子の応援団も男子の、それも拝借したい男子の学ランを着用し、輝いている。校庭にこだました声。「気」をたくさんいただいて、私は校庭から門に向かっている階段を上った。そうだ、懐かしい二人の先生にも会えたんだっけ。

実戦教師塾通信七十八号

2011-09-09 18:19:14 | 福島からの報告
今後の支援に向け


 8月25日発行「福島県からのお知らせ」の福島県佐藤雄平知事あいさつによると
「…今月末を目途として避難所の閉鎖を進めることとしましたが、皆さんそれぞれに家族構成や通勤、通学条件などいろいろと制約もあると思います。避難所の閉鎖は、復旧・復興に向かって本県が前に進んでいくために乗り越えなければならないハードルの一つですので、どうか御理解いただきますよう…」
とある。確かに先月号では「8月をもって閉鎖」と明言していた。しかし現実には無理だったというこのあいさつである。
 ホテルサザンも少し前まで満室の状態だったが、仮設住宅に当たったり、自分で借り上げたアパートに引き揚げるということが続き、少し部屋に空きが出てきている。「暇だから遊びに来て」というのが、最近の受付さんの口癖だ。その受付さんはサザン勤務を9月の半ばまで、板さんは「分からない」という。一国一城の主を目指している板さんだから、しばらくはここ(サザン)に留まるのかもしれない。
 この日は受付さん、板さんのほかに、従業員の女の方が二人、みんなで五人が食堂(レストラン)で話をした。この間初めて入ったこのスペースだが、フロント向かいのエレベータ横のドアを押すとあるところだ。古くはあっても木造りの落ち着いた空間は部屋と同じですべてオーシャンビューだった。下を見ると、ガレキの横に静かな波が寄せている。重機が二台入っていて、少し片づいてきた。猫が窓の外のへりを悠々と歩いている。
 あの8月2日からしばらくして、私はナカムラからもらい受けた「Tシャツ」のはからいを受付さんに依頼したのだが、4人口を揃えて「山分けみてえなもんだな」と言う。2日に欠席して鍋・フライパン抽選に参加出来なかった人にTシャツを、とも考えたようだが、下旬の時点でみんなここを引っ越して、Tシャツが届いた時にはいなかったというのが没になった原因らしい。結局はフライパンを当てた人でもTシャツゲットのチャンスとなったという。オレなんか三枚もらっちまったとは受付さんで、ピンで止めて大事に部屋に飾ってあるのよ、と女の方。ビーパップのTシャツは少し仲村トオル若いですよね、と私が言うと「もうビーパップの頃からファンだから」というその人は……なので、うーん、かなり大人になってからナカムラのデビューとなったのですね、とは思っただけで言えなかった。
 さて、私は聞いた。
「この避難所(サザン)の人たちとのつながりはどうなっていくのです(終わるのです)か?」
私に受付さんも板さんも、自分の今後を多少話してくれていたので、そこを聞きたかった。私はこのサザンの中で楢葉の人たちとのつながりが「3,11の会」と呼ばれていることを聞かされた。このサザンが避難所として開いたのは5月1日、広野町の人たちも含め、どっと入所。幾多の出入りを繰り返し、グチやカラオケやを続けているうちに、つながりを自覚し始めた。そしていつしかみんな「3,11の会」と呼ぶようになった。そのつながりは強くなる時ばかりではなかったが、いくつかのポイントで強化された。8月2日は大きかった。
とこんな感じだった。
 楢葉の人たちは、避難所を出て仮設に移り、今は「新しい生活で、毎日がわけが分からない」状態らしい。以前も言ったが、なんらかの形でお手伝いをしたいと思っている人たちはたくさんいる。是非そういう人にもこの機会、なんらかのチャンスをあげられないものか、私の周囲にはまだそんな人がたくさんいる、というのが私の提案だった。
 避難所の場合、大体が学校や役所(支所)、公民館が支援の窓口になる。煩雑な手続きと「指導」が入る。もう昔の話だが、あの私が一カ月ほど宿泊した避難所は、そこが言ってみれば「自主管理」方式だった。だから物資の支援窓口も直接被災者が出来た。しかし、そういう場所は本当に限られていた。このサザンは受付さんがオーナーを説得しつつやっていたから被災者との「面会」もイベントも、様々な裁量があった。
 ここ(サザン)なら仮設の支援が出来るのじゃないか、そういう私に従業員の皆さんものってくれた。簡単なことだ。仮設に住む誰かが一時荷物預かりを引き受ける、そこに物資を届ける。どこかに貼り紙(広告)「何月何日何時より○○でサラダ油配布します」のようなものを出して予告。届けた次の日に配れば荷物預かりもそんなに負担にはならない。協力する人が多ければ長く続けることが可能だ。
 だったら窓口はあの人がいい、即座に四人は二人の人の名前をあげる。さすがである。そういうことをしっかりと見極めが出来て、そういう活動をしようという判断が出来る。この人たちは被災者と一緒に暮らして来た人たちなんだ、私は安堵し、胸を膨らませる。
 集会場は仮設住宅の敷地内にある。その集会場使用に私は反対する。なぜなら、その集会場の使用許可は災害対策本部が降ろすというからだ。ボランティアセンターで、災害対策本部で、避難所で、どれだけバカバカしく腹立たしい思いをしたか分からない。

「何のために? どういう団体が主催(協力)する? 品物の出所は安心なのか? 品物が回らない人が出てきたらどうする? 一番必要としているひとを把握出来ているのか?」等々という「指導」。あの鍋・フライパンの時にやったような「抽選」など、言語道断の扱いとなることは見え透いている。

私は古典落語の「目黒のサンマ」を思い出す。殿様が鷹狩りかなにかで出掛けた折り、お供が弁当を忘れて仕方なく民家に飛び込んで食べたサンマ。是非もう一度と城に帰って後所望するが、調理役、毒味役とあちこち点検、まさに骨抜きとなって原型も温かさもなくなって出てきたサンマの話だ。
 役所の配慮が人々の善意を根こそぎにしていく。そんな苦々しい思いをこれ以上、そしてここでサザンの人たちとするわけには行かない。
 そうだなあ、空き地もあるしな、そこで出来るわ、受付さん始め従業員さんの反応はシンプルでノーマルだった。

実戦教師塾通信七十七号

2011-09-08 17:11:38 | 福島からの報告
久之浜『諏訪神社』


(1)「ここに故郷あり」

 このブログで以前言ったが、例えばいわきの中で平と小名浜の社会福祉協議会の確執は仕事の算段の障害になっているとか、勿来はたまらずNPOが自分たちでセンターを立ち上げたとか、それはかまびすしい展開を見せていた。そんな中で久之浜が私たちの噂に上ってきたのだ。それはセンターというものでなく、諏訪神社がやっているらしい、ガレキになった家々に絵を書いている、そう私たちは噂し、その久之浜まで作業に行った時、絵のほどこされた家を指さし、これか、と囁きあった。少し補足しておく。久之浜はいわき市最北端で、その町の一部は「30キロ圏内」となる。だからいわきのボランティアセンターは管轄内である久之浜に私たちを派遣していた。しかし、久之浜の活動が独自の色合いを見せてきたのには、どうも社福(社会福祉協議会)に対する疑問や憤りがあったように思えた。
 センターのような統括する場所での活動を私は休止する、という宣言めいたことを少し前に書いたが、とりえず久之浜の活動を見て聞いておきたいと思った。そして、もうひとつ目的があったので久之浜に出向いた。
 単線の小さな駅のそばにセブンイレブンがある。もうそのくらいの地理は分かっている。あちこちに背の高い葦が繁っていて、駅が見え隠れする。諏訪神社だったら二つ目の信号を左に行くとありますよ、店員さんが教えてくれた。その通り信号を曲がると道は細く、やがて道をぶつかったところにお巡りさんが立入区域を指示するために立っていた。諏訪神社はどこですか、そう私が聞くと、そこだよ、と指を指した。すぐそこだった。
 驚いた。たくさんののぼりが立っていたからそこが神社だと分かったのだが、そののぼりにはあの「ここに故郷あり」の文字があったからだ。

(2)神輿

 愛車マグナ750を神社の向かいに立てて身繕いをしている間、入り口のテントで車座になっている六人の男女は歳の頃20~40歳、ずっと珍しげにその様子を見ていた。
 あいさつして私は、ふだんどんな感じの活動をしているのですかと尋ねると、こんな感じよと、みんなベンチに座ったまま笑った。一番年長と言っても40くらいの男の人が対応してくれた。広野町のすぐ下にあたるこの町は広野ほどではないが、人通りが少ない。後手後手に回される支援のおかげでまだ屋内が片づいていない家屋が結構ある。除草がこれからというところももちろんあり、8月は目一杯活動し、土日はいつも100人のボランティアが来ていた。9月に入って少し肩の力を抜いている。そうして話は3月に逆上っていく。
 久之浜の頼りになる議員さんが震災当日、津波の避難誘導をしていて波にのまれた。町を建て直す大黒柱を欠いて、社福(社会福祉協議会)の助けも届かず、大変だった。線量は低いと言われても、子どもたちはまだ久之浜を敬遠して帰って来ない。北上することを恐れる人たちの中には久之浜の復旧活動を「延命を計っているだけだ」という人もいる。
 水道の復旧は4月の27日(4月9日の時点でいわき市の水道は97%復旧、4月11日の余震で再び60%台になるというそのことを言っていたのかも知れない)、固定電話の復旧は6月。神社は震災当日、津波で社務所の一階をやられるが、二、三階を開放した(三階建てだった)。公民館も開放するように言ったが、数日かかった。教育委員会のOKがいることをこの時初めて知った(私たちがよそで聞いた多くの消防団の誘導、「公民館へ!」は、教育委員会の許可をとりつけた後、ということになるのだろうか)。
 町が潰れてはいけない、という思いで「ガレキに花を咲かせよう」と十軒ほどの全壊した家屋に花を描き「ガレ花」としたところ、テレビや週刊誌が取り上げてくれた。多くの支援があった。それでもらい受けた軽トラやネコ(一輪車)は、もう一時ほどいらなくなったから、次の震災に備えて備蓄しようというプロジェクト(広島)に寄付しようと思っている。

 私は神社の入り口に置かれていた神輿に釘付けになってしまった。「スゴイ」というつぶやきが私の口から漏れた。ガレキの中から見つかったという神輿。屋台だけになったその傍らに屋根の一部と鳳。大切そうに置かれた神輿は、まだ残された仕事を待っているかのような面持ちでたたずんでいた。この40ほどの、年格好としても見た目も神主とは思えなかったこの方が、どうやら神主らしいと気付いたのは話がこの辺りになった頃だった。浅草から「使わない神輿があるから使ってくれ」という連絡も受けているという。

(3)舞台

 私は今回のいわきの目的のひとつに、あの「現代能楽集『奇ッ怪』」のパンフ(コピーだが)を何箇所か回って配ることを予定していた。ひとつはもちろんホテルサザンだが、その中のひとつにこの諏訪神社を入れていた。
 ここに来たもうひとつのわけは、と言って私はパンフを示した。一同(神主さんも)が色めいた。やっぱりナカムラはすごいと、また私は思った。インタビューを読んで欲しいという私の説明に神主さんは、久之浜の火事現場の近くだったらきっと、「お稲荷さん」ののぼりを見たんですよ、と答えた。町内の神社は全部で六つ、その神社全てにのぼりを立てたという。そして神主さんは、それだけでもやったかいがあった、こういう人が取り上げてくれることが力になる、と喜んだ。
 私も、このパンフを持ってきて良かったと思った。

(4)ついでに

 嬉しいことがあった。名刺を神主さんからいただき、それでは私もと渡したら、オヤと神主さんが言う。「琉球空手」だったら、うちの氏子に琉球大学の空手部をやって帰って来たのがいる、という。今は林業に従事しているというのだ。是非紹介して欲しいという私に、あとで本人に伝え、連絡させますという。
 嬉しい。


 ☆☆過去のこのブログを読む方がいらしたら「ブログ記事一覧 実戦教師塾 琴寄政人」と検索すると便利です。誰かがリンクしてくれたみたいで、記事のタイトルが全部出てくる。私も便利で活用してます。

 ☆☆議員さんから連絡があった。もともとボランティアの高速無料化は市の社福が県に申請するものなので、県に問い合わせてどうなるかやってみる、というものだった。どうなったかという結果もあとでお知らせします。

実戦教師塾通信七十六号

2011-09-05 13:26:36 | 福島からの報告
この間のこと


(1)災害対策車輛手続きの変更

 結論から言うと、高速道路を今までのように無料では行けなくなった。
 7月29日付で、厚生労働省から文書が出ている。フルネームで言うと「災害派遣等従事車輛証明(高速道路無料通行証明)」は、従来「その手続きが福祉協議会にとって大きな負担となっているのではないかという点が、国会において指摘された」(文書から)という。それで申請するものが、福祉協議会に様式を提出することになったというものだ。私の場合で言えば、今までは自治体(柏市)に出向いて支援の期間を申し入れ、ボランティア登録証と免許、車検証を提出して終りである。私から言えば、この簡潔な手続きにひとつ面倒が加わったということになるが、この文書の言う所によれば、今までのやり方だとその後の自治体と福祉協議会のやりとりが煩雑だったということだ。
 さて、ボランティアの多くの人は一カ月分の証明をもらっている人も多かった。つまり、その間自分が「行ける」日や期間を都合し活動していた。ところが、すでにこのブログ上で言ったが、ボランティアセンター(福祉協議会)は活動を限定し、その連絡はツィッター・ブログで検索して欲しいという、言ってみればドン引きした方針に変わっている。案の定である。私が申請の様式をファックスするので、それを「承諾した」と返信して欲しいとボランティアセンター(福祉協議会)に電話したところ「その期間はセンター(福祉協議会)は活動していない」である。もう、活動する日をボランティアの都合で選べないのだ。つまり、私は自治体に提出すべき書類を手に入れることが出来なかった。
 知り合いの議員さんにその旨を知らせ、なんとかならないのかとお願いしたが、もういい。どうせセンターとは違う場所で活動することになった身である。往復の高速料金くらい面倒見ろよ、とも言いたいが、全部身銭を切れよと言われたのだ。そうしてやるよ、と思ったら少し軽くなった。「申請車輛」とかいうものからは自由になったのだ。これで愛車はフュージョンだろうがマグナだろうが気にすることなく転がせる、という少しうれしいことも加わったし。


(2)干物屋の復活に向けて

 前に言ったが、四倉の干物屋さんは海岸近くで操業していた工場を今回の津波でやられた。冷蔵庫やいくつかの機械を残して全部やられた。四倉に(ボランティア)活動にいくだろう、その時見てみな、ひびの入った家が傾いてるよ、それが工場だ、と干物屋さんは言っていたが、まだ確認出来ていない。高台にあった自宅は地震で全壊である。この人が偉いのは自分のことはおいて、被災者の話に耳を傾けることに力をずっと注いできたことだ。
 干物は全部手作りで、添加物・調味料を加えないのが自慢で、震災前はあちこちから注文があったという。そのひいき先のひとつが「うちで作らないか」という申し入れをしてきた。会津の店で干物を出していたのが縁で、声をかけてきたのは新潟の業者だった。8月31日に、相談・交渉があった。
 この干物屋さんは私より年齢がひとつかふたつ上。つまり63か64歳だ。その人が新潟まで行って干物を作るということはもちろん、住み込み、いや引っ越しだ。話を聞けば、新潟市じゃねえよ、○○島(忘れた)だよ、と言う。海を越えるのだ。おっ母はオレがいなくなってせいせいするってそんなもんだがな、という干物屋さんは、もちろん自分のトシで、遠い遠い、吹き飛んでしまうような小さな島に移住するということの無謀さ、心細さを分かっている。
 では、四倉に残るということはどうか。同業の知り合いで土地は残ったが、上を全部やられたという人は、干物を続けるかどうか迷っているという。機械や冷蔵庫の若干の道具を残した干物屋さんは、その人と話をする予定だという。でもな、干物屋さんは言う。
 こっちで作るとなっても、材料はもう「いわき産」では売れない、誰も買わないぞ、線量を計ろうがなにしようが、いや、だから水揚げされないよ。じゃあ、材料は新潟のものだ、としても製造場所がここ(いわき)とあったら、みんな買うのかね。
 干物屋さんの行く場所も残る場所も、針のむしろのようだ。


(3)風評被害

 出来事で今回のブログを埋めるはずだったが、ここで少しばかり意見。
 風評被害とは根拠のない噂による被害のことを言う。メディアから垂れ流され続けているこの流行語はどうにかならないのだろうか。干物屋さんがどうあがいても売り上げが伸びないのはなぜなのだ。結果として、放射能汚染が「風評被害」をもたらしている、というメチャメチャな報道になっているのだ。放射能による汚染がどのように危険で未知なものであるか、ということを言えない、そのことで発生していることが「風評被害」だというようなメチャメチャな状態だ。被害は必然的なのに、それを「風評被害」と言っているのだ。きちんと情報・知識を流さない国・東電と、それに手を加えないメディアの姿勢がもたらす被害を「風評被害」と呼べるのか。「きちんと」言えないのであれば「ここまでは言えるが、ここからは分からない」としないことで「安全・危険」の境界線が膨大に膨れ上がっている。それって「風評被害」なのか(「福島の現地にはあと10年から20年は人が住めない」と言った総理が袋叩きにあうということもあったが)。根拠のない噂による、と言ってもその「根拠」を示さないとどうにもならんだろ。
 このブログ56号にいわき市議佐藤和良氏との面談を載せたが、覚えているだろうか。そこで佐藤氏はいわきの支局が3月14日にすべて撤収したことを報告している。私たちはそれを聞いて「ふざけた奴らだ、撤収してどう報道出来るというのか」と腹をたてる。その程度だ。しかし、もう少し踏み込んだ方が良かった。
 思い起こそう。政府の住民への避難指示は、3キロ以内(3月11日21時)、10キロ(12日5時)、20キロ(この13時間後)、20~30キロ以内の屋内退避(15日11時)となっている。つまり、14日の時点で原発から30キロ以上離れているいわきは、避難の対象ではなかった。でもメディアはことごとく退散した。ここで(いわきの)メディアの責任ある態度とは、と考えれば、「30キロ以上(いわき)も危ない、政府の言っていることはウソだ」と、自分たちの「道具」を使って住民に強力にいうべきだったということだ。
 聞いてびっくりだった。メディアの内規によれば社員の避難区域設定は「朝日新聞は50キロ、時事通信が60キロ、NHKは40キロ」(幻冬舎『報道災害』より)となっていた。


 ☆☆センターの事実上の「閉鎖」に伴い、私の家にいる時間もふえます。ブログの投稿も増えるかと思います。ひいきの程よろしくお願いします。
 ☆☆今はまだ言えませんが、いくつかの活動報告が今後出来る日が来ると思います。私もその日を楽しみに活動します。

実戦教師塾通信七十五号

2011-09-03 10:28:14 | エンターテインメント
現代能楽集Ⅵ『奇ッ怪 その弐』を見る 補足

2日の改訂版

*投稿したあと、ずいぶん慌てて書いたように思って、なにかこのままではいけないということになった。大した違いはないような気もするが、またそれで分かりやすくなるとも思わないが、やらせてもらいます。


 「役者」さんから「もう少し踏み込めないのか」とのコメントをいただいた。期待に添えられるだろうか。いくつか忘れていたこともあった。また、私たちが冒しがちな誤りも自覚しておきたいとも思った。しかし、「死」をめぐる私たちの思いはきっと終わることがない。親鸞の弟子の質問に対する嘆き、驚きとしてもそれは残されている。

「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、おなじこころにてありけり」(歎異抄)

私たちの「死」への不安は、ある時には「憧れ」のように見えて、それで不謹慎かと思ったりする。そのことでそれが「死」からの解放と思うと、結局また同じ場所に戻っている。そうして心細い思いに、膝を抱えたりする。この堂々巡りは私たちの「死」に対する変わることのない態度だ。同時にこのどうにもならないという気持ちは、もしかしたら私たちが「死」というものに近づいていけるのではないか、という気持ちを作っているとも言える。

 我が家の話になる。自宅の小さい庭で、気がつくとせっせとアゲハの幼虫が木の葉(山椒ではなかった)を食べてすっかり丸裸にしてしまっていた。体中を緑にして大きくなった幼虫は、サナギになることもなく忽如として姿を消した。多分、通りかかった小鳥の餌になってしまったのだ。私たちはこの蝶の生涯を思う。運が悪かった、もう少しで大空を舞うことが出来ただろうに、いや今度は蜘蛛の餌食になったのかも知れない、別な庭で思いがけず自分の伴侶と遭遇し子孫を残したかも知れない等々。そして、いや幼虫はそんなことを知る由もない、幼虫はそれでまっとうな生涯を送ったのだ、とも思う。
 「死」は、少しずつ時間をかけて人間の上に降りかかるかと思えば、この蝶のように思いもかけず訪れる。それは本人の「覚悟」とは別な場所で用意されている。思いもかけないその出来事に私たちは驚き、慌てる。仮にその「覚悟」を用意してくれた「死」の場合でも、その瞬間は一体何が起きたのか分からず逡巡する。この「何が起きたのか分からない」気持ち・経験は、小さい頃経験した「どうにも出来ない(出来なかった)」恐怖や不安と似ている気がする。何も見えない暗闇や、道に迷った時や、いつの間にかとんでもないところにきてしまったと思った時の恐怖(芥川龍之介『トロッコ』の良平がそうだった)など、それで私たちは闇雲に家に向かって走ったり、母親の懐に飛び込んだり、布団の中で恐怖におののいたりした。強風があたりを揺るがし、柱も傾いたあばら家の雨戸を叩いて暴れれば、あるいは同じことだが、自然体としての人間が、抗うことの出来ない何かに接した時、私たちは無抵抗に、黙って震えているしかなかった。それは、愛してやまない親や家族を失くした時の「一体誰を責めればいいのか分からない」「どうすることも出来ない」気持ちに似ているのかも知れない。
 今回の震災は、自然の理解し難い姿として私たちの上に大きくのしかかって、私たちに恐怖の闇となり、未だ私たちの歩みを止めている。そして、多くの人々が「愛する者の死」という理解し難い出来事を同時に経験している。「自然がもたらした死」と「死という自然な姿」の両方を私たちは手にして、解決しないといけなくなっている。
 「死者は死んでいない」とは、別な表現で「炎は燃えていない」「水は濡れていない」という範疇に置き換えてもいい。「死者は死んでいない」とはおそらく「体は死んでも魂は残る」だの「残された者の心に生きる」だの「歴史に名を残す」とかいうことではない。炎が燃えていることを知らないと同様、「死者」は自分の「死」を知ることがない。周囲が「分かったつもりでいる」だけだ。そのことをこの舞台では
「この人たち(死者)は自分が死んだということを知らないみたいだよ」(山田(仲村トオル))
と言っていたようだ。それは「死者」が分かっちゃいないとか、成仏してほしいとかいうことではない、もっと「死」に寄り添った場所があるんだ、と言っていたように思う。もっと「死」が私たちの近い場所にあるんだということを言っていたように思うのだ。

 結局「比喩」の問題としてしか扱えないのが「死」と言えるし、逆に「向こう側」からはずっとそういう問いかけがなされているとも言える。しかし、このことは科学者の間でよく言われる「比喩(詩)という表現は、科学のずっと先端にまで到達している」ということとは違っていると思う。