『福島の原発事故をめぐって』を読む
その前に
前号で鉢呂経産相の辞任について触れたが、少し付け加えないといけないことが浮上したので読んで下さい。
gooニュース(9/13付)によれば、鉢呂本人は大臣になる前から福島入りして、瓦礫の撤去や除染のために働いていたという事実があるらしい。つまり、傍観者として本人がいたわけでもなさそうだということだ。そうだったのか。言ってくれればいいのに、と一瞬思った。
さらにあの「死の町」発言は、非公式の記者との懇談の中で出されたものであって、そういう点でもひとつひとつにはっきりした記憶がない、のだそうだ。驚いたことに、この事実は辞任の記者会見上で出されたということなのだ。読み落としたのか、見落としたのか、聞き落としたのか、私にその部分の記憶がなかった。謝罪のあいさつと顔しか覚えてない。それが私の記憶違いでなかったことがこのレポートで示される。この部分はことごとく削除して、どの報道機関も報道していたというのだ。
となれば、自らの瓦礫撤去や除染活動のことも周囲の記者へ、もしかしたら「非公式に」言っていたのかも知れない。また、辞任挨拶のあと「もうあげ足とりはやめて…」という現地の声が流れていたが、それを見て私は、やっぱり当事者の気持ちは切実だ、緊急性・優先順位が常にあるんだ、くらいに思っていた。でも、被災者は鉢呂の現地での姿を知っていたのか、と想像してもみた。
それにしても一番度し難いのは、自分のことは棚に上げて揚げ足取りに意気込むこのジャーナリストを気取った連中だ! とは、前号を投稿した直後に「絶対書くべきだった」と後悔したことだが、このニュースに触れてもう一度後悔することとなった。
(1)著者のこと
この『福島原発事故をめぐって』の著者は、物理科学者の山本義隆である。膨大な書『磁力と重力の発見』(全3巻2003年)は数々の賞を受けている。純粋な学術書と言えるこの書を著した山本は、大学の教授ではない。予備校の講師である。だから参考書もたくさん書いている。著者は東大理学部の物理学科を卒業、しかし、同じく東大大学院博士課程を中退する。
さんざん勿体ぶったが、この著者こそ私たちには言わずもがなである、東大全共闘の議長・山本義隆である。大学院を中退するのも彼の東大闘争の責任(もしかしたらこの「責任」という表現を彼は選ばないかもしれないが)のとり方だった。
私たちが全共闘を「引き受ける」ときの引き受け方は、一方に「語る」こと、論ずることがあった。そして対極に「沈黙」を守ることがあった。この「沈黙」の徹底ぶりとして山本義隆があげられる。色々な全共闘をめぐる特集が本・雑誌・TVで組まれた。しかし、山本義隆は一度として登場したことがない。私は見なかったが、NHKだかの特番で(だいぶ前です。多分1989年あたり)多くの「闘士」が登場するなか、山本義隆の場合「取材は断ったはずです!」ときっぱり言い放って去っていく後ろ姿だけが映ったというのを聞いた。
そんな彼は1992年、国会図書館に「これが東大闘争です」と言って、23巻に及ぶ膨大なファイルを届けている。医学部学生に対する処分撤回闘争に始まり、(多分なのだが)地震研の臨時職員への暴行弾劾に及ぶまでの「集められるだけ」のビラを編集したものだった。
山本義隆をTVで見たのは、東大闘争のあとたったの一回である。公立諏訪中央病院の院長、鎌田實を知っていると思う。つぶれかけていた諏訪病院を再建した人物として、そして「がんばらない」治療をほどこす有名なお医者さんとして知っている方も多いはずだ。この病院再建の彼の活動は、東大の今井澄の誘いがあって始めたものだ。その今井澄は1969年1月18、19日の安田講堂攻防戦の時に指揮した人物だ。その今井が亡くなった2002年の葬儀の時、弔辞を読む山本を見たというのが、たったの一回だ。とにかく山本の「沈黙」は徹底していた。
山本義隆は東大闘争以後、学術書しか書いていない(学参もあるが)。それが40年を越えて後に国・企業に牙を剥く。しかしあくまで「物理教育のはしくれにかかわり科学史に首を突っ込んで来た私が、それなりにこれまで考えてきた、そしてあらためて考えた」(あとがきより)ことが書かれていた。
(2)「人類の夢」の向こう側
確かにさきの「あとがき」で書かれているように、「原子力技術の専門家でもなく、特別にユニークなことが書かれているわけでは」ないが、
「福島での作業員にたいする許容被曝量の限界値をなしくずしに緩和したことや、児童生徒の屋外活動を制限する放射線量の年間許容量をめぐって示された混乱は、『唯一の被爆国」を枕詞のように語ってきたこの国が戦後半世紀以上にわたって被曝の問題をまじめに取り組んでこなかったことを浮かび上がらせた」(はじめに)
を読んで溜飲が下がる思いをするのは私だけなのだろうか。こんな当たり前のことが私たちの周辺にまだまだ不足している。「今は情報や批判が(原発反対に)偏っている。議論する前の地盤そのものが問題だ」とか言う盗っ人猛々しい、厚かましいのが一杯いる。もともとのその地盤は今まで原発推進まっしぐらだったはずだ。
「原発事故を蒸気機関の創成期にあったような事故と同レベルに捉えることは根本的に誤っている。原発以外では、事故の影響は時間的・空間的にある程度限られていて、事故のリスクはその技術の直接の受益者とその周辺が負うことになる。」(「二・五基本的な問題」より)
こんなことさえなかなか聞けなかったと思う。そうして
「福島の事故では、周囲何キロかは今後何世代にもわたって人間の立ち入りを拒むスポットになるであろう。融け落ちてそこに遺されている何トンもあるウラン燃料の塊は、たとえさしあたっての冷却に成功したとしても、それを長年にわたって遮蔽し続けるためには莫大なコストと資源エネルギーが必要とされ、…原発では試行錯誤による改良は許されない」(同)
菅直人の「原発立地地帯にはあと20~30年足を踏み入れられないだろう」の発言で一番批判されてしかるべきだったのは、やはり東電と原発行政を担ってきた国だったと今さら思う。
福島の原発と同型の軽水炉の危険性が、それを設計したGE(ゼネラルエレクトリック社)の内部から告発されていた。
「冷却水が失われたときにその格納容器が圧力に耐えきれなくなるという欠陥を見いだし、世界中で操業中の同型炉をすべて停止させるよう主張」(同)
雑誌『技術と人間』を私も読んでいたのでその事実を知っていたはずなのだが、それでも「その主張を取り入れたらGEの製品が売れなくなる」と議論を封印する経過を追いかけてはいない。そしてこういう取り返しのつかない結果を目の当たりにして初めて「やはりそうだったのか」と私も思っている始末だ。
名著『八十日間世界一周』『海底二万マイル』の作者ジュール・ヴェルヌがいみじくも『動く人口島』で示したという、夢の島の崩壊。それは、
「科学技術が自然を越えられないばかりか、社会を破局に導く可能性があることを、そしてそれが昔から変わらぬ人間社会の愚かしさによってもたらされる」(「三・三科学技術幻想の肥大化とその行く末」より)
ことを予言した。この夢の人口島は、
「シェイクスピアの時代から変わらない二大有力家族間の反目という住民の内部対立と、電力によっては制御しえなかった台風によって南太平洋上で崩壊する」(同)
という。なんと見事な、いや皮肉なたとえと言っていいのだろうか。余りに見事な現実との一致に身震いする。
もともとが、戦後すぐに「無限のエネルギー・原子力を平和のために」、とうたわれたことに私たちは少し無防備すぎた(女優の吉永小百合も先日言っていた)。なんとあの手塚治虫の大ヒット作『鉄腕アトム』はその通り「心正し科学の子」だった。そしてそのアトム(原子)の妹は「ウラン」だったということも「象徴的である」(「一・二学者サイドの反応」より)。
原子力をめぐる社会がどうして「ムラ化」するのか、その過程を検証するうえでも、「原発がなくなると本当に電力は不足するのか」という議論が正しいのか、ということを検証するうえでもこの本が入り口になるといいと思えた(みすず書房1000円)。
(3)伝習館高校闘争のこと
「議論の地盤」と書いていて思い出して書きたくなった。
1970年6月6日、九州福岡県柳川の名門校(進学の、である)、伝習館高校の教師三人が懲戒免職となった。懲戒理由は「偏向教育を行った」というものであった。今ここで詳しく触れる余裕はないが、この三教師は言うまでもなく、セクハラ・盗撮をやったわけでなく、さぼったわけでもなく、そして「革命教育」をやったわけでもなかった。では一体何が起こっているのかを知って私たちは愕然とする。国の介入の仕方も普通ではなかったが、三教師のやっていたことが実に創意と創造(想像)性にあふれていた(当時、東大の教官だった折原浩が全国を回ってこのことで講演している。ウチの大学にも私の恩師・農学部の藤原信先生の招きで折原が来ている。私はこの時学生だった)。教育や教師というものも捨てたもんではない、そう目覚めたような気がした。全国の教育関係者の多くが燃え上がった時だったと言っても過言ではない。
さて、それを機に私たちは伝習館問題を取り上げたいと考えた。このことで討論会をするよう、殆どの教授に要求した。そして、授業が討論の場になった。討論(授業)最後になって、教授の言うことはいつも同じだった。「やっぱり資料や本にあること以外にこの教師たちは何かやっていたんじゃないでしょうかね」。処分される方に非がある、という視点が頑固なのだった。
もうひとつ。「この人たちも、自分たちの主張をもっと強く言うべきですね」。これだよ。来たよ。「弱い場所」から無縁だった連中のアホなつぶやきだ。弱いものはいつだって精一杯叫んでいる。世間知らずが、とあの当時は思った。
いつの時代もだ。こういう高見に登った連中が、世の動向、成り行きに変化が見えると言う言葉、「こういうのは不公平ではないか」「逆差別だ」等々。
また来た道を戻ってはいけない。
その前に
前号で鉢呂経産相の辞任について触れたが、少し付け加えないといけないことが浮上したので読んで下さい。
gooニュース(9/13付)によれば、鉢呂本人は大臣になる前から福島入りして、瓦礫の撤去や除染のために働いていたという事実があるらしい。つまり、傍観者として本人がいたわけでもなさそうだということだ。そうだったのか。言ってくれればいいのに、と一瞬思った。
さらにあの「死の町」発言は、非公式の記者との懇談の中で出されたものであって、そういう点でもひとつひとつにはっきりした記憶がない、のだそうだ。驚いたことに、この事実は辞任の記者会見上で出されたということなのだ。読み落としたのか、見落としたのか、聞き落としたのか、私にその部分の記憶がなかった。謝罪のあいさつと顔しか覚えてない。それが私の記憶違いでなかったことがこのレポートで示される。この部分はことごとく削除して、どの報道機関も報道していたというのだ。
となれば、自らの瓦礫撤去や除染活動のことも周囲の記者へ、もしかしたら「非公式に」言っていたのかも知れない。また、辞任挨拶のあと「もうあげ足とりはやめて…」という現地の声が流れていたが、それを見て私は、やっぱり当事者の気持ちは切実だ、緊急性・優先順位が常にあるんだ、くらいに思っていた。でも、被災者は鉢呂の現地での姿を知っていたのか、と想像してもみた。
それにしても一番度し難いのは、自分のことは棚に上げて揚げ足取りに意気込むこのジャーナリストを気取った連中だ! とは、前号を投稿した直後に「絶対書くべきだった」と後悔したことだが、このニュースに触れてもう一度後悔することとなった。
(1)著者のこと
この『福島原発事故をめぐって』の著者は、物理科学者の山本義隆である。膨大な書『磁力と重力の発見』(全3巻2003年)は数々の賞を受けている。純粋な学術書と言えるこの書を著した山本は、大学の教授ではない。予備校の講師である。だから参考書もたくさん書いている。著者は東大理学部の物理学科を卒業、しかし、同じく東大大学院博士課程を中退する。
さんざん勿体ぶったが、この著者こそ私たちには言わずもがなである、東大全共闘の議長・山本義隆である。大学院を中退するのも彼の東大闘争の責任(もしかしたらこの「責任」という表現を彼は選ばないかもしれないが)のとり方だった。
私たちが全共闘を「引き受ける」ときの引き受け方は、一方に「語る」こと、論ずることがあった。そして対極に「沈黙」を守ることがあった。この「沈黙」の徹底ぶりとして山本義隆があげられる。色々な全共闘をめぐる特集が本・雑誌・TVで組まれた。しかし、山本義隆は一度として登場したことがない。私は見なかったが、NHKだかの特番で(だいぶ前です。多分1989年あたり)多くの「闘士」が登場するなか、山本義隆の場合「取材は断ったはずです!」ときっぱり言い放って去っていく後ろ姿だけが映ったというのを聞いた。
そんな彼は1992年、国会図書館に「これが東大闘争です」と言って、23巻に及ぶ膨大なファイルを届けている。医学部学生に対する処分撤回闘争に始まり、(多分なのだが)地震研の臨時職員への暴行弾劾に及ぶまでの「集められるだけ」のビラを編集したものだった。
山本義隆をTVで見たのは、東大闘争のあとたったの一回である。公立諏訪中央病院の院長、鎌田實を知っていると思う。つぶれかけていた諏訪病院を再建した人物として、そして「がんばらない」治療をほどこす有名なお医者さんとして知っている方も多いはずだ。この病院再建の彼の活動は、東大の今井澄の誘いがあって始めたものだ。その今井澄は1969年1月18、19日の安田講堂攻防戦の時に指揮した人物だ。その今井が亡くなった2002年の葬儀の時、弔辞を読む山本を見たというのが、たったの一回だ。とにかく山本の「沈黙」は徹底していた。
山本義隆は東大闘争以後、学術書しか書いていない(学参もあるが)。それが40年を越えて後に国・企業に牙を剥く。しかしあくまで「物理教育のはしくれにかかわり科学史に首を突っ込んで来た私が、それなりにこれまで考えてきた、そしてあらためて考えた」(あとがきより)ことが書かれていた。
(2)「人類の夢」の向こう側
確かにさきの「あとがき」で書かれているように、「原子力技術の専門家でもなく、特別にユニークなことが書かれているわけでは」ないが、
「福島での作業員にたいする許容被曝量の限界値をなしくずしに緩和したことや、児童生徒の屋外活動を制限する放射線量の年間許容量をめぐって示された混乱は、『唯一の被爆国」を枕詞のように語ってきたこの国が戦後半世紀以上にわたって被曝の問題をまじめに取り組んでこなかったことを浮かび上がらせた」(はじめに)
を読んで溜飲が下がる思いをするのは私だけなのだろうか。こんな当たり前のことが私たちの周辺にまだまだ不足している。「今は情報や批判が(原発反対に)偏っている。議論する前の地盤そのものが問題だ」とか言う盗っ人猛々しい、厚かましいのが一杯いる。もともとのその地盤は今まで原発推進まっしぐらだったはずだ。
「原発事故を蒸気機関の創成期にあったような事故と同レベルに捉えることは根本的に誤っている。原発以外では、事故の影響は時間的・空間的にある程度限られていて、事故のリスクはその技術の直接の受益者とその周辺が負うことになる。」(「二・五基本的な問題」より)
こんなことさえなかなか聞けなかったと思う。そうして
「福島の事故では、周囲何キロかは今後何世代にもわたって人間の立ち入りを拒むスポットになるであろう。融け落ちてそこに遺されている何トンもあるウラン燃料の塊は、たとえさしあたっての冷却に成功したとしても、それを長年にわたって遮蔽し続けるためには莫大なコストと資源エネルギーが必要とされ、…原発では試行錯誤による改良は許されない」(同)
菅直人の「原発立地地帯にはあと20~30年足を踏み入れられないだろう」の発言で一番批判されてしかるべきだったのは、やはり東電と原発行政を担ってきた国だったと今さら思う。
福島の原発と同型の軽水炉の危険性が、それを設計したGE(ゼネラルエレクトリック社)の内部から告発されていた。
「冷却水が失われたときにその格納容器が圧力に耐えきれなくなるという欠陥を見いだし、世界中で操業中の同型炉をすべて停止させるよう主張」(同)
雑誌『技術と人間』を私も読んでいたのでその事実を知っていたはずなのだが、それでも「その主張を取り入れたらGEの製品が売れなくなる」と議論を封印する経過を追いかけてはいない。そしてこういう取り返しのつかない結果を目の当たりにして初めて「やはりそうだったのか」と私も思っている始末だ。
名著『八十日間世界一周』『海底二万マイル』の作者ジュール・ヴェルヌがいみじくも『動く人口島』で示したという、夢の島の崩壊。それは、
「科学技術が自然を越えられないばかりか、社会を破局に導く可能性があることを、そしてそれが昔から変わらぬ人間社会の愚かしさによってもたらされる」(「三・三科学技術幻想の肥大化とその行く末」より)
ことを予言した。この夢の人口島は、
「シェイクスピアの時代から変わらない二大有力家族間の反目という住民の内部対立と、電力によっては制御しえなかった台風によって南太平洋上で崩壊する」(同)
という。なんと見事な、いや皮肉なたとえと言っていいのだろうか。余りに見事な現実との一致に身震いする。
もともとが、戦後すぐに「無限のエネルギー・原子力を平和のために」、とうたわれたことに私たちは少し無防備すぎた(女優の吉永小百合も先日言っていた)。なんとあの手塚治虫の大ヒット作『鉄腕アトム』はその通り「心正し科学の子」だった。そしてそのアトム(原子)の妹は「ウラン」だったということも「象徴的である」(「一・二学者サイドの反応」より)。
原子力をめぐる社会がどうして「ムラ化」するのか、その過程を検証するうえでも、「原発がなくなると本当に電力は不足するのか」という議論が正しいのか、ということを検証するうえでもこの本が入り口になるといいと思えた(みすず書房1000円)。
(3)伝習館高校闘争のこと
「議論の地盤」と書いていて思い出して書きたくなった。
1970年6月6日、九州福岡県柳川の名門校(進学の、である)、伝習館高校の教師三人が懲戒免職となった。懲戒理由は「偏向教育を行った」というものであった。今ここで詳しく触れる余裕はないが、この三教師は言うまでもなく、セクハラ・盗撮をやったわけでなく、さぼったわけでもなく、そして「革命教育」をやったわけでもなかった。では一体何が起こっているのかを知って私たちは愕然とする。国の介入の仕方も普通ではなかったが、三教師のやっていたことが実に創意と創造(想像)性にあふれていた(当時、東大の教官だった折原浩が全国を回ってこのことで講演している。ウチの大学にも私の恩師・農学部の藤原信先生の招きで折原が来ている。私はこの時学生だった)。教育や教師というものも捨てたもんではない、そう目覚めたような気がした。全国の教育関係者の多くが燃え上がった時だったと言っても過言ではない。
さて、それを機に私たちは伝習館問題を取り上げたいと考えた。このことで討論会をするよう、殆どの教授に要求した。そして、授業が討論の場になった。討論(授業)最後になって、教授の言うことはいつも同じだった。「やっぱり資料や本にあること以外にこの教師たちは何かやっていたんじゃないでしょうかね」。処分される方に非がある、という視点が頑固なのだった。
もうひとつ。「この人たちも、自分たちの主張をもっと強く言うべきですね」。これだよ。来たよ。「弱い場所」から無縁だった連中のアホなつぶやきだ。弱いものはいつだって精一杯叫んでいる。世間知らずが、とあの当時は思った。
いつの時代もだ。こういう高見に登った連中が、世の動向、成り行きに変化が見えると言う言葉、「こういうのは不公平ではないか」「逆差別だ」等々。
また来た道を戻ってはいけない。