実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

ぼうず小山  実戦教師塾通信四百九十四号

2016-05-06 11:59:37 | 戦後/昭和
 ぼうず小山
     ~孤独の心地よさ/心細さ~


 1 アホノミクス

 先日、柏市民文化会館で行われた浜矩子の講演会「私たちの生活どうなるの?―『アベノミクス』を斬る―」に出向いた。主催者も驚きの1338名の参加者は、大ホールをすべて埋めつくした。
 浜氏が語る政治経済をめぐる諸問題の先々に、一体どんなものがあるのだろう。私はここ最近考えていることを思いつつ聞いていた。
 経済政策の底に横たわっている様々な社会問題、今回書くことと関連するものを少し列挙すると、
・保育所不足を含んだ子育て問題
・孤独死などの高齢者問題
・さびれる自治体/商店街  等々

 結論のひとつをあらかじめ言っておきたい。
「仕方ないこと」
があるのだ。前号の続きではない。
「自分たちの都合のいいようにはいかない」
のである。自分たちの選んだ道の向こう側に何が待っているのか、私たちは知らないといけないし、覚悟しないといけないという意味である。
 少し言っておくと、いま所狭しと言ってもいいくらいあちこちに出来ている施設や病院/診療所、そして葬儀屋。これらはあと20年後、そして30年後に一体どうなっているのだろう。我々団塊の世代は、その頃に大体片づいている。箱ものと言うべきこれらの建物は、きっと行き場を失っている。それは、団塊ジュニアを当て込んで乱立した大学や高校が、行き場を失っている現状に重ねて見ると、分かりやすいかも知れない。

 2 ぼうず小山
 前号で少し登場した私の最初の勤務場所の近くに、仲間の便利屋が、先だって事務所兼倉庫を移した。昔は毎日のように通過した場所を、私は懐かしい思いで訪ねた。そして驚いた。

40年前は、当たり前のように辺り一面こんな田園風景だった。理科や図工(写生)はもちろん、体育の場所としてもキープされており、子どもたちが虫や花と戯(たわむ)れる場所だった。

それが今はこうして、高圧電流を流す鉄塔が空を配し、荒れた土地のあちこちに、おそらくは「ヤード」と言っていい、ゴミの集荷と処理をする施設が点在していた。これらは昔、緑を満々とたたえた田園だった。

前の写真手前方向に森に通じる細い道を見つけて、今となっては荒れ果てた森と丘陵(きゅうりょう)が「ぼうず小山」であることを、私はようやく思い出した。もしかしたら「ぼうずっ子山」が、子どもたちによって「ぼうず小山」にいい変えられたのかもしれない「ぼうず小山」。登下校や虫取りに使ったこの道は、痴漢出没の名所でもあった。しかし、どこにもそんな名残(なごり)などなく、たまにトラックがほこりを舞い挙げて通りすぎるだけだった。
「田んぼはやめちゃったんだけど、地主は土地の管理をちゃんとしてたんですよ」
「でも、二代目がいい加減で、だまされてね」
「事務所にしたいとか言うんで貸したみたいだけど、ゴミ置き場にされちゃったんですよ」
と、便利屋の仲間が話した。このあたりの空気はとてつもなく悪いんだろうなあ、と私がつぶやくと、仲間は笑った。
 実は、初めの田園風景も現在の写真で、私の母校から見て西側のものだ。反対側がひどいことになっている。しかし、こうしてしっかりと暮らしを守る人たちはいるのだった。
 私たちはどこから来て、どこに行こうとしているのだろう。

 3 月島
 月島界隈(かいわい)は、大正の関東大震災後に、隅田川河口を埋めたて、住宅地として整備された。第二次大戦時、東京が丸焼けとなった中、奇跡的にそのままの形で残った月島は、1950年に改正された建築基準法のため、建て替えか増改築時には、路地を拡張し建物を縮小しないといけなかった。 

     これは月島地区を散策中の吉本隆明(撮影・荒木経惟)

 そして実際どうなったかは、読者もご存じの通りで、写真のように狭い路地に二階建ての住居が密集している。古いながら、何度も手入れされたあとがうかがえる。
 初めはみんな平屋だった。それがあとでみんな二階建てになった。人々の必要が住居を上へと拡げ、空を縮めた。そして戦後の人々の必要が、狭い路地の密集した住居を守った。柱の一本でも残せばすべて建て替えようとも、それを家の「模様替え」として理解してよいという常識が、この月島でまかり通ったのである。
 月島も、銀座や谷中と同様、路地の魅力の広告塔となっている。若者が古い民家に住もうと言い出したり、空き家を改築してお店にするということが起こっている。いい兆候だといい。持続するといいが。などと思う。空き家はこれからも増え続けるからだ。

 4 心細さとわずらわしさ
 私が住んでいる近所にも、あちこち新築の家が並び、スーパーがびっくりするくらいたくさん開店している。一戸建ての家があっても、それが古ければ、そこには親(年寄り)が住み、若い世代は新しい家を求める。ショッピングセンターがあってもスーパーが進出するのは、そこが通る人の多い道だったり、交通手段を持たない老人を抱える団地があったり、という事情が働いている。空き家と老人の孤独死は、目の前にある。
 もともと私たちは、家業を継(つ)ぐことがなくとも、家屋とともに親(の老後)を引き受けた。しかしその後の私たちは、(父)親から自立して家を出て、あるいは家族を形成した。目指したのは東京(都会)だった。そんな私たちが孤独に死んでいくのは「仕方がない」ことではないのだろうか。私たちは家と親、そして故郷を拒絶する場所へと移動したのである。
 地域が空洞化して、かつての田野が産業廃棄物の置き場になっている。また、水道やガスをとてつもない料金で、ようやくまかなっている町や村も出てきている。故郷に帰ることや、家族を再構築するということが、選択肢としてあり得るのだろうか。

 私たちは、よく行く店でよく見かける客を確認して、なんとなく安心したりしている。しかし、その人が挨拶をして来たりすると、なんとなくだが、わずらわしく思ったりもする。そんな風に私たちは、それほど孤独を嫌っていない。そして、人との関わりをわずらわしく思ってもいるものだ。私たちがいま経験している問題の発端(ほったん)は、ここにあるような気がしている。独りで自由でいることの心細さには耐えられても、私たちは人々との関わり(きずな?)のわずらわしさに耐えられなかったのだ。
 この心細さに耐えられず、私たちはきっと雑踏(ざっとう)を求めた。それは心細さとわずらわしさのバランスを、うまく取ってくれた。
 東日本震災の後、私たちは心細さの方を露出させた。道を譲るとか、挨拶をするようになった期間が、確かにあのころはあった。この心細さこそが、わずらわしいと思える近隣との「きずな」を、昔の私たちを支えてきた。つまり「復興」とは、それを削る過程だったのかも知れない。
 震災後、初詣(はつもうで)参拝の人たちが増えたという。初詣は、「幸福」という共通の目標を持った、心細い人々の「行進」なのかも知れない。
 それはいつか、空き家/空き地/故郷へと向かうのだろうか。


 ☆☆
九州で、建物の全壊/半壊の判定が問題になっています。また5年前を思い出します。
「たった一本でも柱が残ってたら『半壊』なんだよ」
と怒りに震えながら話す被災者がたくさんいたんです。その後です。被災地にたくさん入っていたボランティアの弁護士さんたちが、それはそれは一生懸命に走り回って、こういった案件は全壊扱いになりました。
皆さんどうしているのでしょう。

 ☆☆
前回の『刑事の勲章』でのセリフ引用ですが、違ってたみたいですね。三人ぐらいが混じって、私が勝手に構成していたみたいです。指摘を受けました。don't mindですね。

 ☆☆

これは旬も最後、東京は檜原村から先輩が送ってくれたものです。今年は筍三昧の年でした。ありがたいです。

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