お菓子
~戦後-昭和~
パオ
私はいつもパオでお昼をすませてから「呼吸」のレッスンに向かう。大体お握りが一個、多い時には菓子パンと合わせて二個くらいが私のお昼である。
お握りはいいよね、向かいに座っているマッサージ士さんが言う。目の見えない彼女はパッケージを開ける音でそう分かるのだ。良かったらと、彼女は自分が作ってきたという、舞茸と小松菜の煮物を勧めてくれる。これでこの日の私の菓子パンは不要となった。
職員の女の方はコンビニの幕の内弁当だった。子どもには給食があるし、自分の分だけ作るってのは別にいいかなってね。そう彼女は言う。蓋をとると、マッサージの彼女が、ウィンナと唐揚げだ!おいしそう!と言う。私は我が目と耳を疑う。見えるんですか、と思わず尋ねる。職員の方がなれた風に、匂いよ、匂いで分かるのよ、と口をはさんだ。マッサージ士さんも、こちらは手作りのお握りの包みを上手にほどき、賑やかなお昼時だ。
食後にみなさんにと、と私は銘菓「ままどおる」を出した。私はいつもここでプリントや書類の手伝いをお願いしている。気持ちだけと、一番小さい5個入りのを持参した。よく考えたら少なかった。
いわきの銘菓とくれば「じゃんがら」と、この「ままどおる」である。以前いわきの友人がよくおみやげとして持ってきてくれたお菓子は、このどちらかだった。
「じゃんがら」は「じゃんがら念仏踊り」に由来する。新盆の各家を回って亡くなったものの魂を祈る、といういわき伝統の8月の行事を言う。「じゃんがら」と言ったら普通はこの踊りの方をさす。その踊りに使う太鼓の形をもじったのが、このお菓子の「じゃんがら」である。『お菓子のみよし』発売のこの「じゃんがら」は、丸く固めた小豆の餡を、両側から丸い皮ではさんでいる。この皮も固く、むりやり餡をはさんでつぶすと太鼓のような形になる。それをさらに固く砂糖で覆う、という実に甘く固くというポリシーのもとに作られている。見た目、固い食感と甘さがこのお菓子の売りである。殆ど小豆の風味も無視して、ひたすら甘い。こういうものだと思って食べるとおいしい、駄菓子の世界である。駄菓子に対する京菓子として、金沢の城下町も挙げられるが、ずいぶん甘くなった。会津藩・伊達藩の勢いに負けたというべきか、客に媚びた現代の空気にやられたというべきか。
銘菓「ままどおる」は、『奥の細道菓子処 三万石』が発売する。よく見ると、本店は郡山であっていわきではなかった。しかし、いわきの人たちは「ままどおる」をこよなく愛している。震災後、銘菓「じゃんがら」は、四月半ばの水道復帰とともに、営業をほどなく開始出来たが、「ままどおる」は地盤が沈下し、私の記憶では六月を待ってからのオープンだった。実はこの両店、六号線の目抜き通りを百メートルほどしか離れていない。
「ままどおる」は、原料が玉子とミルクと粉。和菓子の「黄身時雨」の洋菓子版というべきか、プリンを粉末状にして、細長く固めた感じというか、ホロホロと口のなかで優しく崩れていく。
「『ままどおる』食べて牛乳って最高よね」、職員の方が食べながら言う。「あんパンと牛乳の相性くらいにね」と、もう一人の方が言う。外から戻ってくる職員の分も合わせるとあと二個くらいは必要だった。
プリン
母は昔、小さい私たち兄弟を伴って何年かに一度、東京へ出向いた。そのまた以前、非合法活動に従事していた父と「別れて家に戻らないのなら勘当だ」と言われた裕福な家の出の母は、結局実家に戻ることを断念し、父との極貧生活を選んだ。
父の死後、そんな母のその後を心配して、親戚筋の叔父が「そっと」母親を東京まで呼ぶことがあったのだ。上野までは汽車のときもあったように思うが、私の記憶ではそれはEF型のディーゼル機関車で、それが客車を引く、というスタイルだった気がする。甲高い汽笛を鳴らすという点では汽車と同じ列車から降りて上野に着くと、そこにはまったく違う音を発する「電車」というものがホームに入っているのだった。それを私は羨望にも似た違和感で見た。鉄道マニアでない私には分からないが、全身チョコレート色に染めた蒲鉾形の、まだ全国のどこかたった一線で現役生活をしているという、あの電車だ。東京の駅のホームには電線がある、そして、列車の上部にはパンタグラフというユニットがあった。そこから電気を取り入れている、そんなことはあとから知る。
上野で降りると必ず目に突き刺さるように入って来る光景があった。傷痍軍人である。療養所や国立病院で生活していたという彼らは、その院内生活に使用している白い患者服を着ていた。大体が二人一組で「活動」している彼らは、手足がある程度自由がきくものは、松葉杖を頼りにしながらアコーディオンで軍歌を流し、手足のないもう一人の方は、首から慈悲袋を下げ、そこに入れられる小銭を待っていた。ホームに、西郷さんの下に、道の端に彼らはいた。軍帽の下にはサングラス(当時は色眼鏡と呼んでいた)が控えていて、目(表情)を固く拒絶していた。この姿は、私が中学か高校の頃までは見ていた気がする。
たった一度だけだったと思うが、山手線の電車の中に彼らが巡回してきたことがあった。思えば幼少の頃、私たちが東京まで出向くことなど何度でもなかった。彼らが電車で「活動」することなど珍しくなかったのかも知れない。一人はやはりアコーディオンを弾きながら、もう一人は四つん這いの状態で、どうしてだろう、足の方にはゲートルが施してあるだけなのに、手の方は金属の鉤、それはまるでフック船長のような鉤を、なくなった腕の先端につけていた。その人が左右の乗客に、頭を床につきそうなお辞儀しながらこちらにやってくる。みんな素知らぬ顔であった。恐れに近い気持ちで、私はどうすればいいのかと、隣の母を見上げたのを覚えている。見るんじゃない、母がそうささやいたことも覚えている。
どうしようもないんだ、と言う母の言葉だったのだろうか、それとも今思えば、どうしようもなかったのよ、という言葉だったとも思える。母の言葉が、戦争の影を意味していたことは間違いのないことだった気がする。戦争を見たという体験をした、戦争が息づいている、とも思った。どろどろした怨念とも思える上野の空気は、集団就職でさらに磨きがかかったと思える。いや、啄木までさかのぼれるのかも知れない。人々の希望、いや絶望はそこで分厚い地層になっている。
上野を抜けてお茶の水で降りると、空気が驚くほど変わっている。そして、叔父が待つ中大会館へと坂をおりる。この日のために母は「夜なべ」をして、私たちのために白い半袖のシャツをあつらえた。いたしかたなく、指をのぞかせる靴はそのままだった。
暑い日だった。しかし、中大会館の中は「寒い」くらいなのだ。レストランというものを初めて経験した。「何でも好きなものを頼みなさい」という叔父に、兄は「年相応の責任」だったのか「ラーメン」と頼んだ。母が慌てて、また不憫そうにだったか「ここにはそういうものはないのよ」とたしなめた。
ハンバーグという初めての食べ物にももちろん目を見開いたが、添え物のニンジンのソテーに驚いた。大嫌いなニンジンがこんなにでかいままのに、甘くて癖がない。そして、デザートは叔父が「おいしいから」と頼んだ「プリン」が出た。足付きのアルミの皿に乗ったお菓子は、コップを逆さに伏せたような形をしており、黄色に染まった身体のあちこちにちいさな針のような穴を見せていた。焦げたてっぺんからキャラメル状のソースが全身にからまって、少しの振動に反応し、ふるふると揺れるのだった。初めて見るこの未体験のお菓子に、私たち兄弟は釘付けになった。叔父は優しく笑っている。
「ねえ、コトヨリさんは食べないの? なんで? こんなにおいしいのに」
そうパオの職員が、持ち込んだ私の「ままどおる」を勧める。
☆☆
『麒麟の翼』見ました? ずいぶんリアクションありですよ。「命に別状はなかった」も、大事なポイントでしたね。学校関係者も見た方がいいです。
☆☆
『奇ッ怪』の仲村トオルが、9日の味噌・チョコの支援に急遽かけつけてくれることになりました。実はもともとチョコは彼に、というこちらの思惑でした。「北のカナリアたち」(ばかりではないと思うけど)の仕事の合間をみつけた、ということで急遽なのです。ありがたい。関東勢は私と二人でということになるのかな、配布いたしてまいります。
☆☆
「危険警戒区域に11名定住」という事実を御存知ですか。実はこれ『福島民友』の、過ぎること1月16日の記事です。遅れて毎日新聞の「地方版(福島)」にこのことは1月31日に掲載されました。全国にはまだ封印されているこの事実、それがいいとか悪いとかではない、いつまで黙っているのでしょうか。今月中には報道されると思いますが、いずれここでも報告します。
~戦後-昭和~
パオ
私はいつもパオでお昼をすませてから「呼吸」のレッスンに向かう。大体お握りが一個、多い時には菓子パンと合わせて二個くらいが私のお昼である。
お握りはいいよね、向かいに座っているマッサージ士さんが言う。目の見えない彼女はパッケージを開ける音でそう分かるのだ。良かったらと、彼女は自分が作ってきたという、舞茸と小松菜の煮物を勧めてくれる。これでこの日の私の菓子パンは不要となった。
職員の女の方はコンビニの幕の内弁当だった。子どもには給食があるし、自分の分だけ作るってのは別にいいかなってね。そう彼女は言う。蓋をとると、マッサージの彼女が、ウィンナと唐揚げだ!おいしそう!と言う。私は我が目と耳を疑う。見えるんですか、と思わず尋ねる。職員の方がなれた風に、匂いよ、匂いで分かるのよ、と口をはさんだ。マッサージ士さんも、こちらは手作りのお握りの包みを上手にほどき、賑やかなお昼時だ。
食後にみなさんにと、と私は銘菓「ままどおる」を出した。私はいつもここでプリントや書類の手伝いをお願いしている。気持ちだけと、一番小さい5個入りのを持参した。よく考えたら少なかった。
いわきの銘菓とくれば「じゃんがら」と、この「ままどおる」である。以前いわきの友人がよくおみやげとして持ってきてくれたお菓子は、このどちらかだった。
「じゃんがら」は「じゃんがら念仏踊り」に由来する。新盆の各家を回って亡くなったものの魂を祈る、といういわき伝統の8月の行事を言う。「じゃんがら」と言ったら普通はこの踊りの方をさす。その踊りに使う太鼓の形をもじったのが、このお菓子の「じゃんがら」である。『お菓子のみよし』発売のこの「じゃんがら」は、丸く固めた小豆の餡を、両側から丸い皮ではさんでいる。この皮も固く、むりやり餡をはさんでつぶすと太鼓のような形になる。それをさらに固く砂糖で覆う、という実に甘く固くというポリシーのもとに作られている。見た目、固い食感と甘さがこのお菓子の売りである。殆ど小豆の風味も無視して、ひたすら甘い。こういうものだと思って食べるとおいしい、駄菓子の世界である。駄菓子に対する京菓子として、金沢の城下町も挙げられるが、ずいぶん甘くなった。会津藩・伊達藩の勢いに負けたというべきか、客に媚びた現代の空気にやられたというべきか。
銘菓「ままどおる」は、『奥の細道菓子処 三万石』が発売する。よく見ると、本店は郡山であっていわきではなかった。しかし、いわきの人たちは「ままどおる」をこよなく愛している。震災後、銘菓「じゃんがら」は、四月半ばの水道復帰とともに、営業をほどなく開始出来たが、「ままどおる」は地盤が沈下し、私の記憶では六月を待ってからのオープンだった。実はこの両店、六号線の目抜き通りを百メートルほどしか離れていない。
「ままどおる」は、原料が玉子とミルクと粉。和菓子の「黄身時雨」の洋菓子版というべきか、プリンを粉末状にして、細長く固めた感じというか、ホロホロと口のなかで優しく崩れていく。
「『ままどおる』食べて牛乳って最高よね」、職員の方が食べながら言う。「あんパンと牛乳の相性くらいにね」と、もう一人の方が言う。外から戻ってくる職員の分も合わせるとあと二個くらいは必要だった。
プリン
母は昔、小さい私たち兄弟を伴って何年かに一度、東京へ出向いた。そのまた以前、非合法活動に従事していた父と「別れて家に戻らないのなら勘当だ」と言われた裕福な家の出の母は、結局実家に戻ることを断念し、父との極貧生活を選んだ。
父の死後、そんな母のその後を心配して、親戚筋の叔父が「そっと」母親を東京まで呼ぶことがあったのだ。上野までは汽車のときもあったように思うが、私の記憶ではそれはEF型のディーゼル機関車で、それが客車を引く、というスタイルだった気がする。甲高い汽笛を鳴らすという点では汽車と同じ列車から降りて上野に着くと、そこにはまったく違う音を発する「電車」というものがホームに入っているのだった。それを私は羨望にも似た違和感で見た。鉄道マニアでない私には分からないが、全身チョコレート色に染めた蒲鉾形の、まだ全国のどこかたった一線で現役生活をしているという、あの電車だ。東京の駅のホームには電線がある、そして、列車の上部にはパンタグラフというユニットがあった。そこから電気を取り入れている、そんなことはあとから知る。
上野で降りると必ず目に突き刺さるように入って来る光景があった。傷痍軍人である。療養所や国立病院で生活していたという彼らは、その院内生活に使用している白い患者服を着ていた。大体が二人一組で「活動」している彼らは、手足がある程度自由がきくものは、松葉杖を頼りにしながらアコーディオンで軍歌を流し、手足のないもう一人の方は、首から慈悲袋を下げ、そこに入れられる小銭を待っていた。ホームに、西郷さんの下に、道の端に彼らはいた。軍帽の下にはサングラス(当時は色眼鏡と呼んでいた)が控えていて、目(表情)を固く拒絶していた。この姿は、私が中学か高校の頃までは見ていた気がする。
たった一度だけだったと思うが、山手線の電車の中に彼らが巡回してきたことがあった。思えば幼少の頃、私たちが東京まで出向くことなど何度でもなかった。彼らが電車で「活動」することなど珍しくなかったのかも知れない。一人はやはりアコーディオンを弾きながら、もう一人は四つん這いの状態で、どうしてだろう、足の方にはゲートルが施してあるだけなのに、手の方は金属の鉤、それはまるでフック船長のような鉤を、なくなった腕の先端につけていた。その人が左右の乗客に、頭を床につきそうなお辞儀しながらこちらにやってくる。みんな素知らぬ顔であった。恐れに近い気持ちで、私はどうすればいいのかと、隣の母を見上げたのを覚えている。見るんじゃない、母がそうささやいたことも覚えている。
どうしようもないんだ、と言う母の言葉だったのだろうか、それとも今思えば、どうしようもなかったのよ、という言葉だったとも思える。母の言葉が、戦争の影を意味していたことは間違いのないことだった気がする。戦争を見たという体験をした、戦争が息づいている、とも思った。どろどろした怨念とも思える上野の空気は、集団就職でさらに磨きがかかったと思える。いや、啄木までさかのぼれるのかも知れない。人々の希望、いや絶望はそこで分厚い地層になっている。
上野を抜けてお茶の水で降りると、空気が驚くほど変わっている。そして、叔父が待つ中大会館へと坂をおりる。この日のために母は「夜なべ」をして、私たちのために白い半袖のシャツをあつらえた。いたしかたなく、指をのぞかせる靴はそのままだった。
暑い日だった。しかし、中大会館の中は「寒い」くらいなのだ。レストランというものを初めて経験した。「何でも好きなものを頼みなさい」という叔父に、兄は「年相応の責任」だったのか「ラーメン」と頼んだ。母が慌てて、また不憫そうにだったか「ここにはそういうものはないのよ」とたしなめた。
ハンバーグという初めての食べ物にももちろん目を見開いたが、添え物のニンジンのソテーに驚いた。大嫌いなニンジンがこんなにでかいままのに、甘くて癖がない。そして、デザートは叔父が「おいしいから」と頼んだ「プリン」が出た。足付きのアルミの皿に乗ったお菓子は、コップを逆さに伏せたような形をしており、黄色に染まった身体のあちこちにちいさな針のような穴を見せていた。焦げたてっぺんからキャラメル状のソースが全身にからまって、少しの振動に反応し、ふるふると揺れるのだった。初めて見るこの未体験のお菓子に、私たち兄弟は釘付けになった。叔父は優しく笑っている。
「ねえ、コトヨリさんは食べないの? なんで? こんなにおいしいのに」
そうパオの職員が、持ち込んだ私の「ままどおる」を勧める。
☆☆
『麒麟の翼』見ました? ずいぶんリアクションありですよ。「命に別状はなかった」も、大事なポイントでしたね。学校関係者も見た方がいいです。
☆☆
『奇ッ怪』の仲村トオルが、9日の味噌・チョコの支援に急遽かけつけてくれることになりました。実はもともとチョコは彼に、というこちらの思惑でした。「北のカナリアたち」(ばかりではないと思うけど)の仕事の合間をみつけた、ということで急遽なのです。ありがたい。関東勢は私と二人でということになるのかな、配布いたしてまいります。
☆☆
「危険警戒区域に11名定住」という事実を御存知ですか。実はこれ『福島民友』の、過ぎること1月16日の記事です。遅れて毎日新聞の「地方版(福島)」にこのことは1月31日に掲載されました。全国にはまだ封印されているこの事実、それがいいとか悪いとかではない、いつまで黙っているのでしょうか。今月中には報道されると思いますが、いずれここでも報告します。
わざわいは口から出て身を破ります。
幸いは心から出て、自身を飾るのです。
繰り返す
月は山よりいでて山をてらす、
わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心
よりいでて我をかざる(十字御書)