実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

7年が過ぎ(上)  実戦教師塾通信五百九十一号

2018-03-16 11:13:07 | 福島からの報告
 7年が過ぎ(上)
     ~写真で振り返る2011年~


 ☆初めに☆
森友問題が何とも信じがたい展開となってきました。何が信じがたいかって、真実が明らかになるかもしれないという展開が、です。こんなことは前代未聞。森友問題の当初、某(ぼう)官房長官の「怪文書」発言は、本気ありありでした。私たちもとぼけていてはいけません。こんな不正は「日常茶飯」のことだと思ってたはずです。「あり得ない」のは今の展開の方です。「民主主義の危機」とは、国会議員が言うのは仕方がないのかもしれません。でも、それが今まであったわけではありません。そんなもの初めからないと思っていたはずです。金持ちは不当な金もうけをし、政治家はウソをつく、私たちはそう思っていました。そして「分相応」な生活を送ってきたのです。そんなことを変えるきっかけとなるのかどうか、それが問われているのです。
 ☆☆
佐川辞めました。次は麻生、そして安倍ですか。でも、辞めるのは最後です。すべてが解明されてからです。そして追求するのは野党(与党が加わってもいいが)です。何が第三者委員会ですか。学校や教育委員会は解決能力がないからと、自他ともに認めた時と同じです。腹が立ってしょうがない。
先立っての「自衛隊日報事件」もそうでした。省庁間の利権、あるいは現場との確執(かくしゅう)が、いろいろなところで出てきている気がします。別の機会にきちんと考察します。
今回と次回は、8年目を迎える大事な福島の記事となります。

 1 豊間/江名海岸 
昨年は当時の新聞や雑誌で、震災を振り返りました。今年はあの当時、私が福島で撮った写真を集めてみました。ブログに載せてない写真も、まだ結構ありました。皆さんも見てください。

いま思えば、すぐにでもカメラを使えばよかったのです。でもあの当時、被災現場を写真に収めようという気はありませんでした。
でも、ボランティアで訪れていた多くの若者が「帰ったらみんなに伝えたい」と言ってはカメラに収めるのを見ているうち、私の気も変わりました。私が写真を撮り始めたのは、福島に入って二週間もたってからでした。

見渡す限りどこまでも続く瓦礫(がれき)。これでも道らしきものが出来ている。聞いたところによれば、消防/警察に先立ち、地元商店会の青年部がこの道を作ったと言います。

凄惨(せいさん)な光景ですが、これでも海岸からは一キロ離れている。そしてこれでも二週間後。この一週間前は、民家の庭先に大型漁船、大木の上に引っかかっている乗用車などがありました。それらは自衛隊によって片づけられました。

上の写真。建物の屋上まで津波が到達したことが分かります。

この辺りに多かった水産加工工場。右奥の工場は、大型冷蔵庫と屋根だけかろうじて残りました。この工場の片づけの時、カモメまで津波にのまれたことを知りました。

エアバッグが飛び出す時間もなかったのでしょうか。

テトラポットと堤防と車が、破壊されて瓦礫となっていました。奥に見える屋根と柱だけのガソリンスタンドは、再建を試みましたが、結局更地(さらち)になりました。

向こうに見えるのが塩屋崎灯台。この場所で右に90度、身体を回して撮ったのが、下の写真です。かろうじて形を残した家々の手前に見えるのは瓦礫です。


 2 四倉/久之浜海岸
四月いっぱいは、いわき久之浜地区に原発事故による避難指示が出ていました。いわき市長が避難指示を解除して、私たちボランティアが久之浜に入ったのは、五月になってからです。放射線量をちゃんとアナウンスするべきだ、という意見(私の意見です)を、対策本部がなかなか通さなかったことを思い出します。

だいぶ片づいて、道も姿を現しています。向こうに固まっているのは、焼けた家屋の瓦礫です。久之浜でも大規模な火事が発生したのです。高台に逃げずにいた久之浜のおばちゃんに、二階の下を渦巻く津波と、向こうから次々に爆発しては火の手をあげる家並みに、ただただ震えていたと、それは何度も聞かせてもらいました。

久之浜の幼稚園すぐ裏手の堤防。指で突ついたらひっくり返りそうな車でした。

これは震災から一年を過ぎてからの写真。やっと再建しようという干物屋「ニイダヤ水産」です。

 3 人々の姿
当初私は、写真になるべく人物が入らないようにと心がけました。でも、次第にそれも可能と感じるようになったのです。

これは震災の年の夏、私が「住み込んで」?お世話いただいた避難所の缶詰。まだ食べずに残っていたものです。仕方なく食べた時期もあったそうですが、ひどくまずいと、皆さんの意見でした。

愛車とともに真ん中にいるのが私。四倉で流されたセブンイレブンのあとに作った食堂「くさの根」です。三年後だったと思います。右側の人が、塩屋崎の避難所でご飯を担当していた板前さん。ここでも料理をしていたのですが、やめました。「くさの根」も変わったのです。そして左側が「ニイダヤ水産」の社長。なんとか会社をやっていますが、大変な状況です。やはり、ひどい風は吹き続けているというのが実感です。

これは震災からもうすぐで一年、という仮設住宅で。おばちゃんたちの元気で仕事の早いのは、いつも驚きでした。私の仲間たちが送ってくれた、支援の味噌の梱包(こんぽう)を解いているところ。この日はバレンタインで、仲村トオルが皆さんにチョコを届けてくれました。嬉しそうなおばちゃんたちが懐かしい。
今日から福島に行ってきます。


 ☆後記☆
今週は火曜日が中学校の卒業式でした。柏中学校にI WISHの川嶋あいが来て歌ったそうです。曲は「旅立ちの日に」だったそうですが、あの卒業式定番の曲ではなく「明日への扉」だったそうです。川嶋あい、元気でよかったです。

     我が家の桃。予定通り見頃を迎えました。
 ☆ ☆
新刊本、やっと仕上げです。前回の本の発行から4年が過ぎてしまいました。いま現在、慌(あわ)ただしく、でも楽しく作業してます。発行は5~6月頃だと思います。「希望篇」です。タイトルは『子どもの希望/絶望の大人』の予定です。

     手賀沼の早咲き河津桜です。春ですね~