7年が過ぎ(下)
~福島の歩む道~
☆初めに☆
17日の土曜日、なじみの楢葉町・天神岬で反原発の集会があったので、顔を出してきました。知っている人も結構来ていたはずなのですが、五千人?規模の集会だったせいか、見つかりませんでした。
前日は天神岬にほど近い渡部家を訪ねておりました。改めて福島について考えました。
1 「2018原発のない福島を! 県民大集会」
多分、岬の駐車場はいっぱいと思い、渡部さん家に車を置かせてもらって、徒歩で向かいました。
天神様の鳥居(とりい)をくぐると、修理を終えた社(やしろ)が待っていた。
先日までは足場とシートに囲まれて見えなかった境内でした。鳥居はもちろん、門番の牛や砂利(じゃり)が真新しい。運動公園の方から太鼓の音が聞こえてくる。
集会はまだ始まっていない。太鼓の音は集会前のイベントで、地元の若者たちによる演舞だった。
参加者はバスで来るのだろう、ほとんどが40~50人のまとまった単位で会場にやって来る。
ゲストと呼びかけ人、そして県民からの訴えと、集会は進んだ。
2 帰還すること
経産省前の脱原発テント村について、以前レポートしたと思う。現在テントは撤去されてしまったが、テント村で三上治が活動している。吉本隆明や友人の山本哲士のつながりで三上治と知り合い、いつもテント村の新聞(「テント日誌」)を送ってもらっている。
今回の集会も「テント日誌」で知った。しかし、それは、
「このタイミングで福島の楢葉で開催するというのはいかがなものか」
と、集会開催を真っ向から批判するものだった。国が奨励(しょうれい)する「福島に帰還/復興路線」に便乗する、というのだ。
私は三上氏に滅多に返信しないのだが、
ゲストは鎌田慧があいさつ。
続いたのは、呼びかけ人の武藤類子のあいさつだった。
「この集会を福島の被災地で行うことに対する批判があった」
と、はっきり証言。集会実施の決断をするのは大変だった、と言う。そして、
「しかし、福島に帰りたい人たちがいるのも事実です」
と続けた。90歳のお年寄りは、
「避難を指示され」「あちこち引っ張り回され続けた」
でも、
「ここに帰ってくるのは自分で決めた」
「自分で決めたのは初めてのことだった」
しかし、
「孫とここで会うことはないと思う。そしてここに来いとは言えない」
と言ったという。誠実な報告だった。そして、今回の集会に反対する人たちへの気づかいを、あちこちで感じた。90歳の、この方の話を取り上げたからだ。
福島に帰還する人たちは、原発に賛成しているわけではない。しかしこうして、人々が向き合う困難さが出現している。
分断は無数の場所で起こっている。
ここ最近、原発事故補償に関する訴訟(そしょう)は、いい判決が続いている。しかし、お金の問題は福島をますます狭いところに追い込んでいる。そこには必ず、
「まだ足りない」
という人が出てくる一方で、もらえない人や額の少ない人たちから、
「(あいつらは)もらい過ぎだ」「ちっとももらえない」
という声が出る。人々は細かく小さく寸断される。
3 福島での生活
いつもの渡部さん家の離れに上がると、思いがけなくリビングの棚の上に、家族三人の位牌(いはい)と写真を見いだした。いよいよこの三月で、いわきの仮設住宅が閉鎖する。いわきで生活していた奥さんや息子の荷物の移動が本格的に始まったのだ。
位牌を見ながら、震災時の大変さを聞くこととなった。
「あの頃は大変で」
おばあちゃんがしみじみと言う。
「お金が全然ないしね」
いわき市内の避難所から会津、そこから新潟に移動し再び会津と移動をする。しばらくして楢葉町から、避難先で一万円が支給される。
「あれは助かったね」
まさに「着の身着のままの避難」をした。その間はずっと「姉妹都市」などのつながりを通し、受け入れる自治体が避難場所を準備し、避難する自治体は了解を取り付けた。それが「町ぐるみの避難」なのだった。
お茶請けに出していただいたカブの花?のお浸し。ごまだれがかかっていて美味しい。醤油とカツオ節では誰も食べねえんだ、おばあちゃんが笑って言う。
これはお土産にいただいたのを、私が調理したものです。
「渡部さんは、どうしてお金を使わずにすんだの?」
私が聞く。長い避難生活の中、パチスロやゴルフ練習場、そして資産投資などで補償金を散財してしまった人たちの話をたくさん聞いた。でも渡部さんはそうではなかった。
「仕事をしたからだろうな」
夏に始まった楢葉町の仮設住宅。渡部さんはすぐに、ここの連絡員として働き始めた。担当した百世帯の人たちの健康を確認し、相談にのる仕事だ。
「あとは、楢葉に戻って牧場をやるって気持ちがあったからな」
それは一度も揺らいだことがない、と渡部さんは静かに言うのだった。でも、酒に飲んだくれることもあったね、私がチャチャを入れる。
三年前の九月の帰還宣言を待たず、渡部さんは、それ以前の「準備宿泊」段階から楢葉での生活を始めた。
「でも、戻ってきたところでやることがねえからさ」
そう言って「酒にのめり込む」期間を振り返った。そして、ネズミや猪(いのしし)そして、もとはペットだったアライグマなどの野生動物に荒らされていく母屋(おもや)は「途中であきらめた」。
その母屋はいよいよ家の形になってきた。
小雨が降るこの日は、大工さんはいなかった。左側に渡部さんがいます。
大工さんの仕事に、ただただ感動するだけの私でした。
二匹の子牛たちも、すでに親のもとを離れて、元気そうでしたよ。
☆後記☆
前川氏の講演会をめぐる出来事、面白いですねえ。国家の教育内容への介入、という点は興味ないのです。面白いのは、たかだか一介の中学校が、国家直属の機関に、「凛(りん)としている」ことです。普通はなかなか、こうは行かないですよ。名古屋市長の持っている「空気」もあるのでしょうか。この先どうなるのか、見逃せませんね。
☆ ☆
今日は終了式ですね。子どもたちも、お疲れさまでした。短い春休みですが、宿題のない休み(宿題を出すしょうもない学校もあるらしい)です。ゆっくりしましょ。
桜も開花しました。桜の写真は次回にして、これは天神岬の見事な梅です。
~福島の歩む道~
☆初めに☆
17日の土曜日、なじみの楢葉町・天神岬で反原発の集会があったので、顔を出してきました。知っている人も結構来ていたはずなのですが、五千人?規模の集会だったせいか、見つかりませんでした。
前日は天神岬にほど近い渡部家を訪ねておりました。改めて福島について考えました。
1 「2018原発のない福島を! 県民大集会」
多分、岬の駐車場はいっぱいと思い、渡部さん家に車を置かせてもらって、徒歩で向かいました。
天神様の鳥居(とりい)をくぐると、修理を終えた社(やしろ)が待っていた。
先日までは足場とシートに囲まれて見えなかった境内でした。鳥居はもちろん、門番の牛や砂利(じゃり)が真新しい。運動公園の方から太鼓の音が聞こえてくる。
集会はまだ始まっていない。太鼓の音は集会前のイベントで、地元の若者たちによる演舞だった。
参加者はバスで来るのだろう、ほとんどが40~50人のまとまった単位で会場にやって来る。
ゲストと呼びかけ人、そして県民からの訴えと、集会は進んだ。
2 帰還すること
経産省前の脱原発テント村について、以前レポートしたと思う。現在テントは撤去されてしまったが、テント村で三上治が活動している。吉本隆明や友人の山本哲士のつながりで三上治と知り合い、いつもテント村の新聞(「テント日誌」)を送ってもらっている。
今回の集会も「テント日誌」で知った。しかし、それは、
「このタイミングで福島の楢葉で開催するというのはいかがなものか」
と、集会開催を真っ向から批判するものだった。国が奨励(しょうれい)する「福島に帰還/復興路線」に便乗する、というのだ。
私は三上氏に滅多に返信しないのだが、
「福島に『帰らないといけない』のがまずいことはもちろんだが、『帰ってはいけない』とすることも、同じことではないか」
という要旨の返信をしたのだった。ゲストは鎌田慧があいさつ。
続いたのは、呼びかけ人の武藤類子のあいさつだった。
「この集会を福島の被災地で行うことに対する批判があった」
と、はっきり証言。集会実施の決断をするのは大変だった、と言う。そして、
「しかし、福島に帰りたい人たちがいるのも事実です」
と続けた。90歳のお年寄りは、
「避難を指示され」「あちこち引っ張り回され続けた」
でも、
「ここに帰ってくるのは自分で決めた」
「自分で決めたのは初めてのことだった」
しかし、
「孫とここで会うことはないと思う。そしてここに来いとは言えない」
と言ったという。誠実な報告だった。そして、今回の集会に反対する人たちへの気づかいを、あちこちで感じた。90歳の、この方の話を取り上げたからだ。
福島に帰還する人たちは、原発に賛成しているわけではない。しかしこうして、人々が向き合う困難さが出現している。
分断は無数の場所で起こっている。
ここ最近、原発事故補償に関する訴訟(そしょう)は、いい判決が続いている。しかし、お金の問題は福島をますます狭いところに追い込んでいる。そこには必ず、
「まだ足りない」
という人が出てくる一方で、もらえない人や額の少ない人たちから、
「(あいつらは)もらい過ぎだ」「ちっとももらえない」
という声が出る。人々は細かく小さく寸断される。
3 福島での生活
いつもの渡部さん家の離れに上がると、思いがけなくリビングの棚の上に、家族三人の位牌(いはい)と写真を見いだした。いよいよこの三月で、いわきの仮設住宅が閉鎖する。いわきで生活していた奥さんや息子の荷物の移動が本格的に始まったのだ。
位牌を見ながら、震災時の大変さを聞くこととなった。
「あの頃は大変で」
おばあちゃんがしみじみと言う。
「お金が全然ないしね」
いわき市内の避難所から会津、そこから新潟に移動し再び会津と移動をする。しばらくして楢葉町から、避難先で一万円が支給される。
「あれは助かったね」
まさに「着の身着のままの避難」をした。その間はずっと「姉妹都市」などのつながりを通し、受け入れる自治体が避難場所を準備し、避難する自治体は了解を取り付けた。それが「町ぐるみの避難」なのだった。
お茶請けに出していただいたカブの花?のお浸し。ごまだれがかかっていて美味しい。醤油とカツオ節では誰も食べねえんだ、おばあちゃんが笑って言う。
これはお土産にいただいたのを、私が調理したものです。
「渡部さんは、どうしてお金を使わずにすんだの?」
私が聞く。長い避難生活の中、パチスロやゴルフ練習場、そして資産投資などで補償金を散財してしまった人たちの話をたくさん聞いた。でも渡部さんはそうではなかった。
「仕事をしたからだろうな」
夏に始まった楢葉町の仮設住宅。渡部さんはすぐに、ここの連絡員として働き始めた。担当した百世帯の人たちの健康を確認し、相談にのる仕事だ。
「あとは、楢葉に戻って牧場をやるって気持ちがあったからな」
それは一度も揺らいだことがない、と渡部さんは静かに言うのだった。でも、酒に飲んだくれることもあったね、私がチャチャを入れる。
三年前の九月の帰還宣言を待たず、渡部さんは、それ以前の「準備宿泊」段階から楢葉での生活を始めた。
「でも、戻ってきたところでやることがねえからさ」
そう言って「酒にのめり込む」期間を振り返った。そして、ネズミや猪(いのしし)そして、もとはペットだったアライグマなどの野生動物に荒らされていく母屋(おもや)は「途中であきらめた」。
その母屋はいよいよ家の形になってきた。
小雨が降るこの日は、大工さんはいなかった。左側に渡部さんがいます。
大工さんの仕事に、ただただ感動するだけの私でした。
二匹の子牛たちも、すでに親のもとを離れて、元気そうでしたよ。
☆後記☆
前川氏の講演会をめぐる出来事、面白いですねえ。国家の教育内容への介入、という点は興味ないのです。面白いのは、たかだか一介の中学校が、国家直属の機関に、「凛(りん)としている」ことです。普通はなかなか、こうは行かないですよ。名古屋市長の持っている「空気」もあるのでしょうか。この先どうなるのか、見逃せませんね。
☆ ☆
今日は終了式ですね。子どもたちも、お疲れさまでした。短い春休みですが、宿題のない休み(宿題を出すしょうもない学校もあるらしい)です。ゆっくりしましょ。
桜も開花しました。桜の写真は次回にして、これは天神岬の見事な梅です。