実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百七十九号

2012-06-22 15:29:40 | 子ども/学校
 <学校>と<子ども> Ⅱ

        <技術>使用の実際 (下)
          「生徒」と「子ども」①


 教室という<場所>


 私が若かりし時、先生になって三年目で五年生を担当した時の話だ。私が新人で採用された小学校は「安全教育」とやらを目玉にし、月に一回ぐらいの割で内外に授業を公開していた。私はよく覚えている。その時の私の授業は自動車の「制動距離」を主題にした授業だった。最後は校庭に出て、止まると予測されたところに段ボールかなんかを置いて、実際そこに向けて車を発信、ブレーキをかけても間に合わずにぶつかる、とかいう結末の授業であった。楽しい授業だった。
 学校の授業の公開ってのは、その後に必ず反省(研修)会が行われる。さて、その反省会でよその市から来た教師たちが口々に言った。
「子どもたちが良く訓練されていますね」

 以上が前置きである。10年ほど前だったか、無能で新しもの好きな学校関係者が、ディベートなる言葉(教育技術だって!)を持ち込んできた時、私は自分の若かりし時の「良く訓練されてますね」とかいう言葉を聞いた時に感じた、大いなる違和感を思い出した。民間会社でもこのディベートは結構使われているので知っている方も多いかもしれないが、一応説明すると、簡単に言ってこれは「討論」のことである。少し違うのは、相手との意見対立を前提とするところ。だから、大統領選挙前の討論会が後々、この「ディベート」として命名されるなどということもあった。以前ある時期、討論や学級会で「自分の利益を主張し、不利益から自分を守る」方法がはやったことがあるが、それらはこのディベートの元祖だとも思われる。
 そろそろ一般読者は退屈して来ましたね。かくも「教育」って退屈なんです。元気な子を前にした時、親だったら、
「元気ですね」
と笑うところを、教育という世界では、
「元気にしつけましたね(または『しついて?ますね』)」
と、先生たちはしかめ面して言うものである。「目標のないところに結果はない」と、「どの面下げて」?思うからだ。
 ってことで、まず若かった私の違和感のことだ。確かに車が段ボールにぶつかるわけで、子どもたちはそこに人がいたらと思ったりして、盛り上がりとしては、「キャー」だの「怖かった」だのというものになるわけだ。でも私は出張でやってきた教師たちが、
「子どもたち、みんな元気ですね」
「いいなあ、楽しそうで」
等という反応があるものだと思っていた。私は若かったなあ。『訓練』なる異民族の言葉を耳にした私は、初めはそうなんだ、そうなのか、ぐらいの気持ちだったが、時を追うに従い、太陽が西に傾き夕暮れになる頃、ボディブローのように効いてきたような記憶がある。
「オレは子どもたちを『訓練』してきたというのか」!?
 教師、そして学校というものは、いつになったら「子どもを育てる」という自縛的、そして傲慢な信念から自由になれるのだろう。
 さて、このディベートなる方法は、
「相手を説得する」
「そのために自分の考えを深める」
「そのため相手の意見を吸い上げる」
などという様々な利点、言ってみれば、
「子どもの持っている力を伸ばす」!!!
技術なんだとか。私もディベートとかいう名前をつけて欲しいと思わないが、
 カツ丼vs天丼
 タモリvsたけし
等というテーマで「いかに自分(カツ丼)が正しいのか」という討議をやってみた。むっちゃ面白かった。また、残念ながら出来なかったが、
 GTOvs金八
をやりたかった。出来なかった理由は分かると思うが、GTOを知り共感する世代の連中は金八を知らない、ゆえに討議にならん。また今は、
 AKBがYESvsNO
を出来るものならやりたいなどとは思う。
 そんなわけでディベート(討論)そのものがまずいと言ってはいない。しかし、学校が必ず抱え込む「学校的症状」を考えると…やはりまずいのだ。なぜか。

①「相手を説得する」ことが「価値」であると捉える
②議論の俎上に乗らないことは考慮に入って来ない
③大体においてルールの逸脱を承認出来ない

からだ。
 まず、相手を説得することは必要に応じてやればいいことである。周囲がどんなに必要と思っても、肝心の本人が必要としないことにどうこう言えるものではない。はずなのに、
「それではいけない」
という道筋を学校は作ってしまう。ついでに、
「今の世の中、それでは生きていけない」
などと、「真剣に」あるいは「親身になって」思うだけならいいが、ついに言ってしまったりする。「相手を説得する」ことは「制圧する」ことじゃないのかと疑う鋭敏な子も、中にはいるものだ。そして、そんなことは出来ないと初めからしり込み、ないしは「逃げる」子もいる。いやそんなことまで言ってない、と傲慢かつ鈍感な大人や教師は思うだろう。どっこい、子どもはそんなもんじゃない。同じ沈黙でも、つまんねえこと話し合ってねえで、さっさと授業終われよ、とだんまりを決め込むやつもいるし、自分が気持ちを抑えてこの場がなんとかなるのなら、と沈黙を選ぶ子どもだっている。そういう「教室」という、様々な寄せ集めとしての<場所>をどれだけ私たちは保障・承認できるのだろうか、いや出来ないはずはない。
 少し「カツ丼vs天丼」のケースで出される意見を考えよう。

・醤油と「揚げる」日本の文化が、様々な形で示される
・洋食と和食の違いと、その時代の「分水嶺」がいつの間にか浮かび上がる
・丼という食し方の合理性と快適さが提示される
・浅草の天丼はなぜグシャッとしているのか
・名古屋のソースカツ丼はカツ丼と言えるのか

最後のふたつは若干ずれてはいるが、以上は大体テーマとストレートにつながっている。面白いのは直接つながらないところで見え隠れするもの。

・天丼で忘れられない思い出がある
・私の家は玉子で閉じないカツ丼を作る
・カツ丼にグリーンピースを載せるのは反対だ
・うちのお母さんが「天丼のタレ」というのを買ってきたが、あんなことでいいのか

ディベートにはならない。が、教室は家庭にまで拡がっている。そして、目を転じると、教室はもっと拡がっている。

・いつも授業でお客さんのやつが唾を飛ばして発言している
・あいつはどんなことを言うのだろうと、自分ではまったく話そうとはしないが、興味津々で成り行きを見守っているやつ
・普段うつむいている子が、顔をあげている。そして笑っている

などということが「説得」とは別な場所で起こっている。そして最後に、

・やはり眠っているやつ
・やはり興味なさそうに手紙なんかを書いてるやつ(私の場合即取り上げですが)
また、
・いつもは元気なのになぜかこの日は元気がないやつ

こうしていろいろなのが教室だ。そこにはいろいろな「子ども」がいるのであって、導きの必要な「生徒」がいるのではない。
 それでも教師たちはダメを押す。

①話せないより話せた方がいいでしょう
②元気がないより元気な方がいいでしょう

まるで究極の選択を迫るかのようなこれらの考え・発想に対して私は、

「大きなお世話だよ」

という究極とも言える子どもの「暴言」を掲げておこう。
 この発言を私は肯定するわけではない。しかし、否定するものでもない。
 大切なのはここからだ、という話を次回にしようと思う。


 ☆☆
AKBの賛否を子どもたちにやらせるとどうなるのでしょうね。私は何となく、その賛否が男女で真っ二つに別れるような気がするんですよね。
そのAKB、前田敦子が「女優志願」と公言したのはだいぶ前だったと思うのですが、今日あたりずいぶんその話題で熱いですね。どうなってるんだか。

 ☆☆
どうなってるんだかと言えば、東電の最終報告書案、読売まで「いい訳ばかりだ」とずいぶんとこき下ろしてます。どうなってんだ。もちろん読売が原発最稼働の主張を下ろしてはいない。巨人の原のことは「ハラを括った」らしいですが、思いつきばかりが横行しているのでしょうか。
私は「いわき自立生活センター」所長さんの、
「(地元各市町村長の主張は)どれも思いつきのいい加減なもんばかりで」
という言葉を思い出してしまいました。