実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百七十四号

2012-06-09 12:03:41 | 子ども/学校
 <学校>と<子ども> Ⅱ

        <技術>をめぐる前提 最終回 「態度」



 お断り


 この「最終回」は「前提」の最終回である。いつになったら「技術」内容に入るのか、という方もそろそろいらっしゃるようだ。次回からその技術の内容に入りたいと思う。と言っても慧眼な読者は、その技術を実際に駆使する場面の「批判的」叙述になる、と思っていますね。その通りです。技術を駆使する時には、常にその「態度」が問われる。技術を駆使するbeforeをきちんと把握できているか、そして予期せぬafterにどう対処するか、それが「態度」であり、それが大切だ。
 どんなにすぐれた技術や実践も、別な教師(大人)にかかると無惨な結果を生む。その原因の多くは、技術や実践の中にはない。「態度」がいけない、あるいは「態度」が<学校的>だからだ。分かりやすく言えば、「子どもとはこういう(未熟な)ものだ」という承認ができずに、「子どもとはこうあるべきだ」と考えているからだ。こういう態度を「子どもが嫌い」だという。
 「前提」の二回分はどちらかというと子どもに対する「立場」である。この「立場」を踏まえれば、子どもに対する「態度」はほぼ確定する。
 少し実際の場面を見ながら考えてみよう。


 班ポスター

 まぁ今どき班ポスターかよ、なんて半畳が入りそうだが、そんな教室のデコレーションの話で…。学級会で班ポスターのテーマを話し合った。アニメ、グルメ、ゲームのキャラ、世界遺産、タレント(写真)等々。どれがいいか採決。…しかし挙手が少ない。バラバラというより圧倒的に絶対数が少ない。そこで、妥協案としてテーマは「自由」ということに。しかし、子どもたちは賛同しない、ような雰囲気。というか、のって来ない。
 ここで担任は気がついてしまう。そうだ分かった、班ポスターのテーマではない。班ポスターそのものを「やりたくない」のだ。担任はそこで思案した。そして、そうかオマエたち、やりたくないんだな? そう呼びかける。しかし、ここで子どもたちはハッとしたような顔になる。連中も自分たちの気分をしっかり把握出来ていたわけではなかった。話し合う中で自分の気持ちが煮詰まらない、はっきりしないモヤモヤした気分だけが持続されていた。それを「やりたくない」ものとして指摘されて分かった、というようなことだったのかも知れない。子どもたちは開放(解放)されたような笑いと声をあげる。担任はその後「どうしてやりたくないんだ?」という追求をしなかった。そんなこと(時)もあるのだ、という判断をした。というか、子どもの方でも「そういえば『やりたくない』感じ」にこの時気がついたからだ。そして、そのことを指摘されたことに、いたく興味を感じた。そっちの方がはるかに面白く、言ってみれば「重要」だったからだ。
 このブログを読む人に「そんなことでいいのですか?」という人は居るまい。また「いつもそんな風だったのですか?」と思う人も居るまい。
 勝者は生徒か、いや教師だ、とそんなことではない。勝者などいない。両者はこの時承認し合った。そして両者はこれを機に、また互いの距離を縮めた。ということだ。


 <まなざし>の変更のために

 随分と前座が長かったが、そろそろ石川さんの著書から「教育技術」を見ていこうと思う。石川さんは、ありがちな「現場の問題」を、違って視点からとらえると楽になりますよ、と言っているのではないかと思えた。
「たち歩きを悪いものと考えることもない」
「おしゃべり自体は悪いことではない」
そうやって「諭す」ようにしていると思えた。
 かつて私が女の子を持つ両親から相談を受けた時の話だ。昼夜逆転・食事のとり方(方法や時間)・不登校などの問題を抱えるその子と両親は、話し合おうとした。
「でも、話し合おうとしても、なかなかテーブル(椅子)につこうとしないんですよ」
「ようやく向かい合ったと思っても、テレビのスイッチを入れたり切ったり」
「こちらが、やめなさいって言うと余計に激しくやるんです」
と訴えるのだ。そうして、うちの子はどこかおかしいんでしょうか、と言う。
 私は呆れてしまった。この両親に、だ。この子が、
「それどころではない」状態か、なんらかの理由で
「両親を拒絶している」か、
のどちらかであることは明白だったからだ。それをこの両親がさらに追い込んでいるからだ。そんなことも分からないのですか、と両親に言うことから話は始まった。
 石川さんは「そんなことも分からない」たくさんの教師たちに
「こんなふうに考えたらいいんではないですか」
「こんな方法もありますよ」
と言ってる気がする。この『対話がクラスにあふれる!…アイデア42』のアイデアは、そういう動機を持ち、そして利点と限界を持っているということだ。
 そんな「技術」の検証をあと二回くらいにわたってやってみたい。前に言った通り、結局はどんなすぐれた技術も、それを使う人によって無惨な結果になる。それは「技術の善し悪し」ではない、それは、この「前提」で述べた「立場」と「態度」で示されると思っている。
 一応内容を予告すると、

 (1)「アメとムチ」(石川さんの本とは直接からまない)
 (2)「合法的たち歩き」など

である。


 ☆☆
「東電OL事件」再審となりそうですね。ゴビンダさんにもですが、被害者のYWさんにもおめでとうと言いたいです。2万部が売れたという『東電OL殺人事件』(2000年発行)なのに、この事件についてあまりにも知られていないし、今回の判決後もこの事件の「核心」にメディアは触れようとしない。少しここで振り返っておこうと思います。当時のメディアが一切触れなかったことを、佐野眞一はその著『東電OL…』で、以下のように報告していました。

・東電の重役候補だった被害者の父親が50代の若さで死んでいる
・その東電に被害者は入社している
・幹部候補生として抜擢された彼女は、その頃「客」をとり始める
・彼女がとった客のアドレス帳が彼女の殺害現場から見つかっている
・その客のなかには「大平正芳」(覚えてますか、この大物政治家を)の三男もいた
・東電の常務もいた
・事件当時、近隣の住民の多くが「絶対(犯人は)日本人だよ」と語っている
・ゴビンダのアリバイ証言を「できなかった」ゴビンダの友人がいる

もうやめますが、私の感じる疑惑とは反対のこともあります。渋谷道玄坂丸山町の一画にある、ぼろぼろのアパートで殺されていた「売春婦」は、客が東電の悪口を言うと「東電はそんな会社ではありません」と遮ったと言います。また、アドレス帳のことはメディアも報道しましたが、それが見つかるというのは犯人にとって決定的にまずい。
 それでも見つかったアドレス帳は一部だった、と言います。やはりWさんは慕っていた父親の復讐の返り討ちにあった、という私(読者)の思いは払拭されません。事件を闇に葬っていたと思っていた「真犯人」はどうしているのでしょうか。そしてこの闇を照らし出したのは、やはりあの「福島原発事故」なのでしょうか。

 ☆☆
「国民の皆さんがさまざまな不安を抱えていることは理解できますが」「最稼働を決断することといたしました」…なんという屈辱、無力感、憤り。この語るにおちた国・政府・政治を明確に今日の『山本哲士公式ブログ』が語っています。ホントだよ、です。

 ☆☆
ネットニュースで「AKB CD大量廃棄」というのがあったので、オッと思って検索したのですが、これが出ない出ない。「ページが表示されました」「エラー」がひたすら繰り返されるのです。必死に削除してるんですねえ。