千の天使がバスケットボールする

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「續 明暗」水村美苗著

2008-08-15 06:34:18 | Book
最後の最後まで読んだ感想、、、作家の水村美苗さんは確信犯である。Gackt流で言えば、不埒だ。凝った装丁、旧字の使いわけ、明治の女の言葉遣いやら、生活習慣、長火鉢の上でちりちりと鳴る續ける鉄瓶の音が孤独の感情をさらにあほる描写。おそれ多くも、我が国の文豪、夏目漱石の遺作「明暗」を、作者にかわって続きを書いたのが本書である。

妻のお延との結婚の媒酌人も務めた吉川夫人に唆かされる儘、津田はちょっとした手術をした後の静養をかねて、結婚寸前で逃げられて友人と結婚した清子が逗留する温泉場を訪れている。同じく温泉場の客の安永と連合いの貞子と行動をともにしながら、なんとか清子とふたりっきりになる機会を窺っている津田は、友人の関に嫁いでしまった清子の翻意と真意をつかもうとするのだったが。

夏目漱石が亡くなったために、未完のままになっている「明暗」の結末には、お延自殺説、清子、津田自身の自殺と諸説がある。しかし、おそれおおくも漱石の続編を書こう、なんていう大胆不敵なこころみをする作家が登場するとは思わなかった。話題性は充分過ぎるくらいある。あり過ぎる。だからこそ、漱石を自分の分身のように理解して、批評家、読書家を納得させるようにかなり書きこんでいなければ、完全に無視されるか、罵倒されるかのどちらかであろう。下手すれば、文壇から抹殺されるのではなかろうか。相当の自信がなければ、こんな危険の伴う本を世におくるわけにはいかない。こんなことを言っては不謹慎だが、作者が女だからできたこころみかもしれない。作者の経歴を知ると、著名な経済学者の岩井克人の妻にふさわしいバックグラウンドもさることながら、夏目漱石が大好きで暗記できるくらい読みこんできたことが、かかる勇気を後押ししたのだろうか。米国の一流大学で日本文学の講義をもってきた研究者として、漱石の論文を書くならば、いっそのこと続編を書く方がむしろ漱石LOVEの感情表現にふさわしい、という動機を私は見た。

平野啓一郎氏が、若くして文語体で文壇にデビューした時は、その鮮烈な斬新さに喝采をあびた。職業作家にとって、当時の旧字と言葉遣いや小道具、シチュエーションを”再現”するのは、素人が考えるよりもさほど困難な作業ではないとか思われる。しかし、「明暗」に描かれる近代人の自我のめばえや個人主義を”表現”して書くことは、そうそう簡単な藝ではない。津田は、常に保身を考え、自分の身をどうころんでも立ち直れる安全圏におくことを無意識のうちに細心の注意をはらいながら生きてきた。自分自身すらも見つけることを忘れているかのように、だから、逆に自分を投げ捨てることもできずに、本物とは離れた津田。そんな長身で端正な顔立ちの兄につりあうように、きっちりと整った顔立ちの妹のお秀は、勝気な性格で、芯が強く地味な嫂を嫌っている。利己主義的で計算高い津田ではあるが、それゆえに小心ものでもある。津田を中心に、登場人物の心理描写が巧みである。彼らの小さな、どんな些細な一挙一足にも、細かな漣のような心象風景が反映されている。これぞ、小説の醍醐味である。単純でデジタルな表情になれた現代人とは遠い、繊細な日本人がここにいる。
続編では、穏やかな美しさをもつ清子が、きっぱりと津田をいやになった訳を伝えている。そして、他の女性に奔走しかかったという理由ではなく、むしろ妻である自分を決定的に裏切ることもできなかった津田に絶望したお延。それは翻って、そんな夫を選んだ後悔を欺瞞で糊塗してきた自分自身への絶望でもあった。ここに、所謂男女の三角関係の悩みとは異なる文明人の自意識がくっきりとわらわれている。

草津温泉に、「茶房 ぐーてらいぜ」というドイツ語で「よい旅」の意味をもつ小さな喫茶店がある。このお店は、草津最古の宿、日新館の風呂場の構築をそのままに残している。避暑で訪れたこの地の店で読んだ「續 明暗」は、格別な味わいがあった。