千の天使がバスケットボールする

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『再会の街で』

2008-08-23 11:24:05 | Movie
アラン(ドン・チードル)は、ニューヨークの歯科医。この街でそれなりに成功している歯科医らしく、ホワイトニングのために訪問してくる患者というよりも客で仕事は順調。快適なオフィスと、もっと快適な自宅とその素敵な空間にふさわしい美しくしっかりものの妻とふたりの娘。ハードもソフト面もすべてが満たされているアラン。いや、アランは自分の人生に本当に満足しているのだろうか。
アランは、自分のクリニックと同じビルで開業している精神科医のアンジェラ(リヴ・タイラー)を待ち伏せをして、悩みを抱えている”友人”の相談をもちかけては、彼女に迷惑がられている。なにか、妻としっくりいかなくなっているアラン。そんな彼は、街で大学の寮で同室だったチャーリー(アダム・サンドラー)を見かけるが、ぼさぼさの蓬髪に無精髭、カバンをななめにかけて茫洋とした別人のようになったチャーリーは、彼のことを覚えていなかった。チャーリーは5年前に妻と3人の娘を失っていたのだった・・・。

かって大学の学生寮で同じ部屋で過ごした友人ふたりの再会。すべてを手にして身なりの整ったアランと、家族を亡くして仕事もやめて廃人のようになってしまったチャーリー。対極にあるようなふたりであるが、愛する人を失ったのか、失いかけているのか、どちらも孤独で満たされないふたりが再会する街はニューヨーク。この街が選ばれたのは、物語のテーマに雰囲気をそえるのにふさわしいだけではなく、元々結婚する前は天蓋孤独だったチャーリーが愛する家族を一瞬のうちに失ったのも、この街だったからである。彼は、「9.11」のテロで家族を失っていたのだった。「9.11」を題材にするだけで、確かに宣伝効果はある。特に米国では。しかし、私が映画の好ましい評判にも関わらずなんとなく敬遠していたのは、テロの背景をぬきに、善か悪しかない二元論で勧善懲悪の観念の米国映画だからだった。この単純さが、米国民の現在のブッシュ政権支持に、映画が影響を与えないだろうか。

しかし、大切な人を失うこと、家族を亡くすことは、誰の身近でもおこりうるという意味では”日常”的な哀しみである。そんなことを、最近しみじみ感じている。監督自身は「「これは9.11の話だ」とうたわれてしまったが、観客をよぶための広告には自分は関われる立場ではないとインタビューに応えている。実際、映画の中では家族を一瞬のうちに亡くす設定を「9.11」である根拠にしているのは、無職のチャーリの安定した生活資金が、生命保険や政府からの慰霊金であるという説明がされるだけである。交通事故、飛行機事故と違い、怒りの対象があまりにも政治的で、あまりにも理不尽な状況がチャーリーの深い哀しみと情緒不安定な精神状態に説得力をもたせている。若く健康だった家族を一瞬のうちにすべて失うことは、想像を絶する哀しみがまっている。自分があの立場におかれたら、私も壊れて廃人のようになってしまうだろう。けれども不図考えるのは、日本に原爆が投下された時、また今でも世界中のどこかで、彼のように同じような悲劇が繰り返されている。戦渦でたった一人残された人は、それでもなんとか崩壊せずに生きていく。生きていくしかない。誰もがチャーリーにはならない。毎日悲惨な戦争が続いていたら、悲劇も想定できる日常と化する。むしろそのことを考えたら、テロや戦争で家族を失う心配とは無縁な国で暮らす平和を感じる。

そして、もうひとつのはずせないのが、友情である。家族がいても、人生には友人が必要だ。チャーリーとぶつかりながら、ひどいことをされても彼のために奔走するアランは、自分自身も”友人”の存在によって再生していく。やがて友人を必要としていたのは、むしろ自分の方だったことに気がついていく。気がちょっと弱くて善良なアラン役を、『ホテル・ルワンダ』での名演でも知られるドン・チールドが、ここでもその存在感をきらりとひからせている。アダム・サンドラーとともに彼もコメディ出身とのことだが、トム・ハンクスに代表されるように不思議と味がありマルチな役者がコメディ出身者に多いような気がする。

チャーリーが愛する次の対象とあらたに”再会”するラストの場面は、女性としてはちょっと複雑な感情もなきにしもあらずだが、やはり人と出会い関わっていくことが作品のもっとも訴えたいことなのである。セラピー、ホワイトニング歯科、訴訟、そんな道具立ても「愛している」という言葉とともにアメリカ的だとも感じた。

監督・脚本:マイク・バインダー 
2007制作 米国映画