千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

ストラディバリが3億9千万円で落札

2006-05-18 00:07:42 | Classic
イタリアの名匠アントニオ・ストラディバリ(1644ごろ~1737年)が製作した「ハンマー」と呼ばれるバイオリンが16日、ニューヨークで競売にかけられ、354万4000ドル(約3億9000万円)で落札された。
(→「ハンマー」)
競売商クリスティーズによると、楽器では過去最高の落札額だという。

このバイオリンは1707年製作の名器で、米国を拠点に活動するバイオリニスト竹沢恭子さんが貸与を受け、約1年前まで使用していた。落札者は明らかにされていない。
これまでの記録は昨年4月に203万2000ドル(約2億2000万円)で競り落とされたストラディバリ製作の別のバイオリンだった。(5月17日)


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ストラディバリウスに関しては、もはやその楽器の購入価格や落札価格では驚かない。楽器をこえて、希少性の高い優れた芸術品なのである。時計が単なる時間を知らせる道具から、ダイヤをちりばめて宝飾品になるようなものだ。
ヴァイオリンという楽器は不思議なもので、他の楽器のように傷ひとつない新品というのは、何故か見た目の魅力に欠けるのである。あるヴァイオリニストの方が、良い楽器は”顔”も良いとおっしゃっていたが、ストラディバリウスは圧倒的に顔がよい。竹澤恭子さんが使用していたという「ハンマー」の落札のニュースから1998年カナダ・イタリア合作映画「レッド・バイオリン」を思い出した。

会場はモントリオール。まさにこれから今夜のオークションの最大の呼び物ロット・ナンバー72、ニコロ・ブソッティ1681年の作品といわれている名器バイオリンがオークションに登場する。この「天使のように優しく語り、悪魔のように淫らに誘う」という伝説の名器「 レッド・バイオリン」を競り落とそうとしているのは、高名な音楽家ルセルスキー、中国人ビジネスマンのミン、そしてオーストリアの修道院の代理人であるポープ財団の代表者だった。なんとか楽器を競り落とそうと必死な彼らを見守る男性がいる。
それはチャールズ・モリッツ(サミュエル・L.ジャクソン)だった。彼には、胸に秘めた決意があった。

1681年月の光が室内を輝かせるイタリア、クレモナの工房。バイオリン職人ニコロ・ブソッティ(カルロ・セッチ)の妻アンナ(イレーネ・グラツィオーリ)は、月の光に誘われるかのように子守歌をうたう。そのおなかの中には、まもなく誕生する新しい命が宿っていた。臨月のおなかをなでるアンナの表情は、このうえなく優しい聖女のようだ。けれどもアンナはこどもを死産し、難産のために命まで落とす。こどもに贈るために最高のバイオリンを製作していたニコロは、亡き妻をしのび最後のしあげにニスを塗る。そのニスには、妻のカタミともいえる仕掛けをする。
「奥様は、将来永い旅をするでしょう」
家政婦の占いは、バイオリンの数奇な運命を予言していた。

やがて「レッド・バイオリン」は、1792年オーストリアの修道院、音楽の才能を認められた孤児の手で弾かれるようになる。このバイオリンから離れられないほどとりつかれた少年は、王家主催のオーディションに出場するほどの腕前になる。しかし、突然の不幸が少年の命を落とす。そして、イギリスの作曲家であり演奏家であるフレデリック・ポープ(ジェイソン・フレミング)、文化大革命に荒れる中国・・・と、楽器は使用者とともに数奇な運命をたどるようになる。

そしてとうとうこの日、楽器はこのモントリオールで競売にかけられる。オークションに出品するために、ニューヨークから鑑定家のモリッツが招聘されていたのだ。彼は、「レッド・バイオリン」が、ブソッティの最高傑作であることを確信し、その秘密に気がつくのである。そして、ある事を思いつく。

この映画の主役は、楽器である。人でなく楽器を主人公にしたその発想に、まず意表をつかれる。彼、あるいは彼女は、数人のひとに抱かれ、歌い、虜にさせてしかも相手の人生を狂わせて行く。「悪魔のバイオリン」なのか、それとも至上の幸福と美をもたらすバイオリンなのか。この楽器のようにドラマチックではないにせよ、海を渡り、国境をこえた長い旅は、”オールド”と呼ばれるバイオリンの多くも同じような運命をたどっていると想像される。この映画の壮大なドラマもあながち虚構とばかりはいえない。実際パガニーニが使用していた楽器、ヤッシャ・ハイフェッツ愛用の楽器(諏訪内晶子さん所有)が現存して、現代の日本の最高級のホールに足を運べば、最高の演奏家(すべてとは言わないが)による名器のまばゆいばかりの輝かしい音に、ため息をもらすことができるのである。
こうした題材をモチーフに扱うからには、演奏家の一流、バイオリン演奏は14歳でカーネギ・ホールでデビューしたジョシア・ベル。彼はまた、パガニーニをモデルにしたと想定されるヴァイオリニストの背後から、実際に演奏をするというもうひとつの”超絶技巧”も披露している。

楽器と五ヶ国に渡る時代と風景が、美しい。服装、修正される楽器とともに時の移り変わりと長さを感じさせる演出は、よくできている。非科学的かもしれないが、やはりバイオリンにはあかるい音を出す楽器、暗く情熱的な音をだす楽器とさまざまである。昔から、そうした楽器にまつわる伝説は多い。最後のモリッツのとった行動は、観客に強い印象を残す。物語は、まだこれで終わっていない。まるで、「レッド・バイオリン」そのものが命をもち、またあらたに人間の意志を操作しているかのように。

督: フランソワ・ジラール
製作: ニブ・フィッチマン
バイオリン演奏: ジョシュア・ベル
演奏指揮: エサ=ペッカ・サロネン
オーケストラ: フィルハーモニア管弦楽団

http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/etc/violin.html

「バイオリニストは肩が凝る」鶴我裕子著

2006-05-16 23:24:25 | Book
今読んでいる途中の『ショスタコービッチの証言』が、あまりにも鬱々とする内容なので、図書館で不図見つけた肩の凝らない本をお持ち帰り。
それが、鶴我裕子さんの『バイオリニストは肩が凝る』。

鶴我裕子さんって、誰?とピンとこなくても、最後の著者の写真を眺めて、この方かと納得するだろう。NHK交響楽団の第一ヴァオリン奏者である。この楽団の”ダンナ”にあたるNHK教育放送の日曜日午後9時から放映される「N響アワー」で、すっかり親しんだ女性である。なにしろ女性が少ないのですぐわかる。もっともそれも過去形になりつつあるけれど。”鶴我サンに本を出させる会”の会長である壇ふみさん(以前、N響アワーの司会を務めていた)の口上によると、”バイオリン界の「中村紘子」か、オーケストラ界の「向田邦子」か”という名誉を背負う方でもある。あくまでもそのタッチはヴァイオリンの如く華麗だけれど、沁に強さとあたたかさと同時に冷静さをひそめている。

鶴我さんは、「まんず、バヨリンなんて、どんな食べ物だべ」というくらいの山形で育ち、高校は都立駒場高校に進学。その高校時代に、当時父上が社長をしていた竹中工務店が傾きかけて、オケの夏合宿代の5000円もなかった。そこで彼女は、通りがかった印刷工場に飛び込み、アルバイトに使ってくれるよう頼み込む。バイオリンを弾く受難なお嬢様時代を経て、その後、芸大を卒業してNHK交響楽団に入団した時は、緊張のあまり続かないのではないかとシンパイしたが、幸運にもお家がビンボーだったために、2004年5月、めでたく勤続30年を迎えた。その音楽人生の中で、殆どがカイシャへの出社拒否になるような毎日に、ソーメンの束に2~3本混じっている色つきソーメンにあたる部分を集めたのがこの著書である。

その細い色つきソーメンは、いとおしいような学生時代のエピソードに始まり、痛快な「オーケストラの舞台裏」、人気度とオケ団員のぼやきが聞こえそうな名指揮者編「カイシャでであったマエストロ」と、鶴我さんの笑えるエキスたっぷりのおしゃべりが続く。その一部を抜粋。

「コンサートマスターとは、オーケストラにおける、サル山のボス。そういえば、顔も似ていることが多いかな。」瞬間に、私は元コンマスの徳永次男さんの顔が浮かんだ。似ている!

「放送会社がダンナなので、イヤと言えないテレビ中継に関して、スヴェトラーノフは『電波にのったコンサートは、単なる資料』と言った。」

「オケ向きとは、オーボエの茂木氏によると落ちず、とちらず、飛び出さずに尽きるという、なんだか、さびしい人物像」

「音楽的才能は比例しない。音楽性は色気と比例する(ただし、逆は真ではない)」

「ファイト一発・N響定期 -聴(効)いていますか」という調子でいきたい。なにしろクラシック音楽は、いくら追求しても無限に受け止めてくれる世界だと。

語り口はあくまでもユーモラスに。けれども”N狂”での演奏活動と音楽を通した彼女の精神は、音楽の受けてよりもはるかに冷静な現実主義ともいえる。そこが精神活動のみで語られがちな観念的な音楽批評家とは違った、現実の生活者として聴衆と同じ地点で見る音楽家の本音に読者は快哉するのである。
つい最近、N響に大宮臨太郎さんが入団していた。彼のような進化を感じさせる大物の入団を喜びつつ、今の輝くような若者たちにもかって自分のように巨匠たちを味わっていただきたいと願っているが、世界的に見て名指揮者軍の旬は過ぎたように見える、と憂う鶴我さんの指摘は、深い。打ち上げ花火的、イヴェント的なエンターティナーならいるけれど、楽員の求めるようなよい指揮者が不足していて多忙だという。何しろ彼女の世代は、スヴェトラーノフがショスタコービッチの棺おけをかついだ話まで聞いているのだ。
肩が凝らないから、軽いというばかりではない。軽さのなかに重みもある。クラシック音楽ファンは、巻末の裕子の音楽辞典とともに、一度はお付き合いしてみてはいかが。

『夜よ、こんにちは』

2006-05-14 23:07:58 | Movie
シューベルトの「楽興の時」が流れている。
誘拐されたモロ首相が、55日めに解放されて自由の身になって道をゆっくりと歩いている。その肩に柔らかく雨が降り注ぐ。
でも、これはキアラが見た最後の夢。甘く夢見るようにせつなく、どこかものがなしい「楽興の時」の音楽は、23歳のキアラの自由で理想的な社会の実現を象徴する。けれども、仲間の銃弾が希望を打ち砕いた。1978年3月16日、極左武装集団「赤い旅団」によって誘拐されたイタリアのキリスト教民主党の党首であるアルド・モロ首相は、55日後の5月9日殺害された。

1978年ローマのアパートに、キアラと婚約者が引越ししてきたのは春。多くの蔵書が壁を飾る真面目な新婚家庭らしく、質素だけれどあかるくて清潔な室内。そこへ3月16日、誘拐されたモロ大統領が運ばれた。新婚家庭を装ったキアラたちは、極左武装集団「赤い旅団」の4人のメンバーだったのだ。目的を果たした達成感と今後の緊張感で高まる興奮状態の彼らは、事件を報道したテレビのニュース番組を観るのだが、命を亡くした5人の護衛官の葬儀の模様とともに、殺人集団と糾弾する政治家たちに失望し、いらだつ。やがて彼らは、モロの写真とともに、「彼を労働者階級(プロレタリア)の裁判にかける」、という声明文をつけて政府に送りつける。

ところが、政府は簡単に彼らの欲求を通さない。更に権威ある人間の手紙を書けとモロ首相に命令し、その手紙はローマ法王の手元に届く。
大学図書館に勤務するキアラは、何事もなかったかのように日常の勤務を続ける。しかし、自分の描く理想の社会実現のために必要だと信じていた自分たちの行為に、疑問をもちはじめるようになる。自分たちの信念に、ひとを殺す権利があるのかと。
そんな彼女に好意をもつひとりの大学生が、「若くて美しいのに、それを隠そうとしている」と指摘する。ある日作家志望の彼から「夜よ、こんにちは」という脚本を渡される。そこには、今度のモロ首相誘拐事件をベースに、犯行グループのひとりの女性を主人公に、計画の正当性に悩んで葛藤していく過程が書かれていた。そして彼は、「赤い旅団は、単なる殺人者だ」と言い放つ。
常に冷静に議論してくるモロ首相と、焦燥感で追い詰められていく4人。やがて決断をくだす日がきた。

この映画は、なんといっても主役キアラの真なる自由への希望と、理論による殺害に疑問をもち苦悩する役を演じたマヤ・サンサの鮮烈な印象が残る。
マルコ・ベロッキオ監督は、「今の政治には思想がない。思想のあるところには、人間性と愛情がない」と語っている。政治の世界に熟知しているモロ大統領が、「政府にとって自分の遺体は、君たちを潰す道具に使われるだけだ」と忠告するが、最後まで信念を変えないリーダー、マリアーノ(ルイジ・ロ・カーショ)は、彼に死刑を宣告する。
「プロレタリアート革命のためなら、母親だって殺せる」そうモロ大統領に叫ぶマリアーノは、イデオロギーのために家庭も捨てる思想はあるが、愛情がない。常に理路整然と理論を語る彼には、人間性への信頼も希望もない。彼にとっては、モロ首相はひとりの人間でなく、抹殺すべきブルジョワ”政府”にしか見えない。(「ベッピーノの百歩」「僕の瞳の光」で出会ったルイジ・ロ・カーショが、この映画でもあまりにも適役!)同じ犯行グループのひとり、キアラの恋人は、深くものごとを考えるタイプではないが、目的は冷静にかつ着実に実行する職人タイプ。そして夫役を偽装する男は、モロ大統領を殺害するのは間違いだと叫び、恋人のもとに走っていく。そしてイタリア最大の事件といわれたこの事件の史実よりも、「思想と愛は両立する」と監督の語るところの希望のひかりを感じさせるのが、キアラの存在である。キアラは眠りの中で、自由に歩きまわるモロ首相を夢みるようになる。政府を具現化した首相に、女性らしく人間性を感じるようになる。

そして、彼らの行為を所詮君たちが軽蔑する政府のやり方そっくりだと批判するモロ首相の言葉と、間に入るキアラの記憶の映画の断片や事実の映像によって、いかに暴力が残酷であり、暴力によって社会を変えていこうとすることの無意味さと虚しさを感じさせる。かってファシストに弾圧された先祖のパルチザンと、立場はかわれどこれからやろうとする残酷な行為にかわりない。

最初から最後まで、まるで1978年にタイムスリップしたような感覚だった。それには、当時の事件を報道した映像、古い映画の断片、ピンク・フロイドの音楽(初めて聞いたが)や時代考証に基づいた彼らの服装や髪型のせいだろう。この映画を、99%の人は退屈と感じるかもしれない。けれども、私は深い感動を覚えた。同じ女性として、主人公のキアラになりきれるからだろうか。
ささやかに伝えたい。「イタリア映画万歳」
最後に「楽興の時」は、何故かもの心ついて以来、嫌いな曲ではあるのだが。

赤い旅団と元イタリア首相・モロについて

再見!アプティくん

2006-05-13 22:52:23 | Gackt
ある日のこと。会社を休んだ翌日出勤すると、我がパソコンのうえに”たらちゃん”のキャラクターグッズが、ちょこんとのっていた。そのうちサザエさんもやってきた。。。
コンビニ限定ペットボトルの景品についているキャラクターグッズが、私のシマではちょっとしたブームであるが、オトナの女性にはキティちゃんやらたれパンダなどを愛玩する趣味を理解できないと決めていた。『萌え経済学』でもとりあげられているコレクターの心理には、ついていけないものを感じていた。所詮、モノだ。モノに執着するのもいかがなものか。

ところが、そんなアダルトな姿勢がもろくもくずれる事件があった。
ちょうど一年前から捜索していたアプティくんを発見して、再会した!!アプティくんは、我が人生はじまって以来の、萌えキャラクターなのだ。村上ファンドの青目化に伴い、シンガポールまで連れて行かれるのかと心配していたが、オリコとの業務提携解消となってほっとしていたところだった。しかも、今度はあの事件を起こした○○○のダンスCMをパロディしたかのような傑作CMで復活しているではないか。アプティくん健在っ。

リボ払いなどと言っているが、結局月賦で借金を返済しているようなものだ。うっかりカードローンを利用しようものなら、(50万円枠で)実質年利25%!なんたる高利。だからボンビーな私は、いくらアプティくんのグッズが欲しくても、Gacktカードが発売されてもこのようなカードは利用しない、もたない、つくらない。でもアプティくんだけは、連れて帰りたい。。。(マネキン人形ではない。Gacktさんだ→)

しかし、近頃テレビを殆ど観ないが、元広告研究会に所属しているものとして、このCM
は実によくできていると評価したい。



ガリバーのネット証券参入-「ジョインベスト証券」

2006-05-12 23:48:56 | Nonsense
今週号の「週刊東洋経済」の特集は、<僕らの知らない「未来格差」生涯給料>だった。
他人の懐具合を推察するのは、卑しいことだと思ってはいるが、生涯賃金という側面から社会のひとつの断層をみるこの企画は、なかなか考えさせられるので一度ブログにも書いてみたいものである。
ところである男子大学生の友人が生涯賃金No1のキーエンス(6億837万円)に就職が内定したという世間話から、5/13号の「トップの履歴書」のある方のお顔の話題にうつった。
彼曰く「いかにも野村総研の顔」という診断がくだったのが、明日サイトオープン予定のジョインベストメント証券の社長、福井正樹氏である。
かって野村総合研究所のプレイアデスというシステムを利用し、また惜しくも廃刊になってしまった同名の機関紙を愛読していた者として、彼のなにげない感想に思わずうなづいてしまった。

ジョイ(喜び)+ジョイン(参加)+インベスト(投資)の造語(私には、さらに”ベスト(最高)”も兼ねているように思える)から来る「ジョインベスト証券」は、ガリバーと称された野村證券系のネット専業証券会社である。今や個人投資家の8割超がネット証券経由で売買する時代に、ようやく巨人も遅ればせながら動きだしたというわけだ。しかしその背景を調べてみると、興味深い野村證券の迷走ぶりも浮かぶ。

ジョイン社は野村HDとしての経営戦略であり、野村證券の営業戦略ではない。だからネット証券の横綱「松井証券」のシステムを受託した実績をもつ野村総研の元金融ITイノベーションセンター長の福井氏が、社長として就任した。また、野村本体とのカニバリゼーションをさけるために、あえて”野村”というブランドの冠をはずした。事実、福井氏は、野村證券本体への競争意識はないと語っている。そしてもうひとつの理由として、投信の通販にのりだした「野村ファンドネット証券」の事実上の失敗という痛みから、”野村”の冠を与えることに社内では慎重だった。そして楽天グループのように、新しいコミュニティサイト、ネット上で発生するニーズのサービス・商品化という非金融へのビジネス拡大まで構想をもつ同社としては、「社名に”野村”が入る方が違和感がある」ということになる。証券会社がたちあげたネット証券というよりも、シンクタンク兼IT企業がネット上にあたらしい金融の広場をつくるという感じに近いのかもしれない。

大御所、野村の最大の強みは、富裕層の顧客基盤である。こうした富裕層をつかむコツは、新規公開株を優先的に割り当てることだ。リテール営業のビジネスモデルを語るには、地方支店に配属されているベンチャー企業発掘専門担当者の存在が欠かせない。地方の営業マンは、発掘された企業の上場を手助けしながら、経営者の個人資産の運用にも入り込んでいく。そして上場するあかつきには、新規公開株をお得意さまに割り当てるという、質量ともに人的資源の豊富な野村だから可能なこの一石二(三?)鳥ビジネスモデルは、かって「完成形」とまで賞賛された。しかし、ネット専業証券によってこの完成形も崩れつつある。まず富裕層の開業医や医師たちが肌あいがあうのかネット証券を利用するようになり、その一方町やのぼんぼん達は気楽に取引ができるネットに興味を示す時代になった。なんたってガリバーは、体が大きいだけにこまわりがきかない。

ネット専業証券の社長は、マネックス証券のようなベンチャーか松井証券のように金融ビッグバン後の生残りをかけた中小規模の証券出身が多い。彼らは未開の道なき道を歩き、手数料の引き下げや情報サービスの豊富さを競い、システムに大金を投資して便利さと安さとサービスで真剣勝負をしている開拓者である。そんな彼らのつくった細い道を、野村というブルドーザーが後を追いかけているように見える。「PUFFY」をイメージキャラクターに使い、メディアも話題にとりあげてくれるのも豊かなバックグランドがあるからだ。
その開拓者のひとり、松井道夫社長は、会長を務めるネット証券評議会で「野村には、是非参加して欲しい」と発言している。
他のネット証券会社は、こうした泰然とした発言をどのような思いで受け止めているのであろうか。
福井社長は、「客が得たサービスに対して、どれくらいの対価を支払っているかが大事」と、手数料に関しては、相手が下げたからといって下げるつもりはないと公言している。さすがに、確率統計専攻の”いかにも野村総研の顔”である。(為参考←)

しかしかって野村本体は「ネット専業証券は脅威ではない。いざとなったら思いっきり手数料を下げて一網打尽にすればいいだけの話」と豪語していた。
5月8日に発表されたジョインベスト証券の手数料体系は、業界最低水準。こうなったら体力勝負にもつれこむか、キレル小粒の独創性の競い合いか。
”一網打尽”という表現に、思わずターゲットの小魚たちを応援したくなった。

「萌え経済学」森永卓郎著

2006-05-10 23:34:28 | Book
2005年5月11日に18歳3ヶ月の少女を3ヵ月以上も監禁して、自分のことを「ご主人さま」と呼ばせていたイケナイ王子、K容疑者が逮捕された事件をご記憶にあるだろうか。

森永卓郎氏がこのようなおパンチまるだしの表紙→を着せて、本書を世におくるきっかけとなったのがこの事件における、精神科医の香山リカさんのような萌えの本質への無理解にある。「オタク」や「萌え」への規制が必要というニュアンスの漂うコメントを、森永氏は大変残念がっている。何故ならば、K容疑者は(blueさまもGacktに似ていると思ったくらい)相当なイケメンということで、アキバ系のオタクではないと断言している。そもそもアキバ系の性的魅力に乏しい若者は、女性から「ダセーんだよ」の一言ではねつけられ、恋愛に対する絶望感から最後に下した結論が、本田透氏の「電波男」の「二次元だっていいじゃないか。オタクだもの」という解脱である。だからイケ面王子は、萌えではない。森永氏は、純性アキバ系の人たちや萌え産業が、彼と同列に扱われて非難されることに対する怒りを隠さない。
それでは、「萌え」とはなんなのか。

①萌えの定義・・・「萌え」とは、アニメのキャラクターに恋をすることである。

②萌え市場の規模・・・04年野村総合研究所によると推定市場は2900億円。もはやニッチな産業とはいえない市場規模と主張しているが、著者によると萌えのコンセプトがわかっていない頭の固いシンクタンクの試算よりも、実際は数倍という規模で尚且つどんどん膨張しているという。萌え市場は、ニーズが多様化しているため大手企業が参入するほどのロットがなく零細企業が中心であり、またオタクからオタクの間を資金が循環している閉鎖市場であるから統計がとりにくいが、今後日本経済や社会のあり方を根本的にかえていくだろうとまで予言している。

③芸術性が支える萌え産業・・・少年のこころとオトナの体(経済力)が合体したコレクターを満足させるには、中国製品などにないアート(芸術、技術)が重要である。もともと技術がしっかりしている日本の製造業に、イタリアのような高付加価値を実現するために、芸術性が必要だ。

恋愛市場における経済学は、特に読ませる。
戦後の日本は、結婚によって性の欲求が満たされる社会だった。愛には性愛と相互理解、相互依存という3つの要素があり、これらの抱き合わせ販売が行われていた。こうした抱き合わせ販売は、性愛の分配を一種の共産主義的な仕掛けで平等化していて、お見合いというシステムがこの販路に貢献し、おおかたの日本人は安定した性的パートナーを確保できた。ところが、この愛の抱き合わせ販売は近年崩壊している。何故ならば、女性の社会進出に伴う男性への経済的依存が不要になり、終身雇用制がなし崩しになったことから男性へ自分を託すリスクの増大、社会のマインドコントロールもきかなくなり結婚制度そのものへの疑問も生じるようになった。更に自由な市場経済が、一握りのモテる勝ち組が多くの女性という富をかっさらい、負け組みが下流社会を構成しているという現象は、今の日本の経済と同じラインである。。かくして「性愛の難民」、つまりモテない男たちの大量発生である。そこに萌え産業の需要と供給があるのだ。

以下、萌えの美学と消費者行動を連結して、新しい巨大市場を分析した著者のぺんは快進撃ですすむ。その行間からは、理想の女性は「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイと言い切り、ミニカーのコレクターとしても有名な氏の迫真のオタクぶりが油のようににじみでてくる。思わず、特徴のあるご面相←が浮かんでくる。そして足ツボマッサージを実践するくだりで、メイド服を着てかいがいしく奉仕する女性を普通の容貌にも関わらず、その姿を見ているうちにイトオシクて仕方がなくなるという告白がある。これには「きもいっ!」、、、それが正直な感想である。「萌え」には性的な含みがあることが、実験でも証明されているが、二次元の女子への恋というオタクの幻想もイタイ。しかし三次元の豆粒大Gacktを見ることがまれなライブの限定期間ということを考えると、私も殆ど二次元のGacktに「萌え」ていると指摘されるだろう。実際ブレインサイエンス・ラボラトリーの脳波測定実験の被験者になったら、間違いなくGさんの写真に脳波はエロ派として反応するはずだ。りっぱに解脱している自信がある。(そういう意味では、Gacktにはファンを裏切らない二次元キャラクターを終生演じていただきたい。)
時々、氏の表現には女性の立場から読むと不適切(不快)に感じる部分もあるが、オタクとネット市場との融合など経済学者らしい論説は、著者の顔を連想することをさけることを条件に、一読に値する。この本は、つまり経済書である。
「オタク」にも「萌え」にもあまり興味がなかったが、その市場参入者に魅力的な男性がいないという見る目はあたっているかもしれない。生身の女性とかかわり傷ついた殿がたには申し訳ないのだが。  -腐女子より

『メリンダとメリンダ』

2006-05-09 23:27:55 | Movie
「人生は喜劇か、悲劇?」

マンハッタンのとあるビストロで、売れっ子劇作家たちがそんな議論を交わす。そして彼らは食事を楽しみながら、不倫の火遊びから離婚したばかりのバツイチ・いい女メリンダを主人公に、同じ設定でそれぞれのストーリーを展開していく。舞台は、ウッディ・アレン監督だから勿論ニューヨーク。洗練された知的なゲームをあなたもどうぞ。

①人生は甘い喜劇だ

失業中の俳優ホビー(ウィル・フェレル)は、映画監督スーザン(アマンダ・ピート)の新作映画の資金集めのパーティで、ホスト役&料理人としてかいがいしく働く。映画化が実現したら、自分にも出演のチャンスがあるから、妻の尻にしかれている立場としてのご奉仕ばかりとも言えない。準備が整い、魚をオーブンで焼いているというメインイベントの最中に、なんとアパートの階下に引っ越してきたばかりのメリンダ(ラダ・ミッチェル)が闖入してくる。
浮気がばれて医師の夫と別れたばかりの彼女は、睡眠薬を飲み過ぎてぼろぼろではあるが、なかなかいい感じの女性ではある。めでたくシングルになった彼女に、次の牡馬のお世話をしようと、周囲はお金持で多趣味な歯科医とのマッチ・メイキングに奔走する。ところがメリンダを競馬に誘ったボブは、そこで医師との結婚の理由を「タッチングが上手」という性的テクニックと聞かされてから、心身ともに落ち着かなくなる。やがて、高級スパーツカーを運転する歯科医とのお見合いの日がやってくるが・・。

②シリアスな悲劇こそ人生だ

俳優のリー(ジョニー・リー・ミラー)と音楽教師である妻ローレル(クロエ・セヴィニー)が、ホームパーティを主催している時、突然ドアの呼び鈴がなる。なんと、裕福な夫と結婚してふたりの子供にも恵まれた友人のメリンダが、単身長距離バスに乗って突然やってきた。
写真家との浮気がばれて離婚され、こどもにも会えず、そのあげくに離婚の原因となった恋人にも裏切られ、精神科に入院もしていたというではないか。しばらく友人夫婦宅のアパートに身を寄せるつもりだが、あきらかにリーは迷惑顔。しかし、ローレルともうひとりの友人は、メリンダにすっかり同情し、彼女のためにお見合いパーティを計画する。
その席で出会ったピアニストの「神経をはりつめて生きる女性はオペラ的」という芸術家らしい気障なセリフに有頂天になる。すっかり舞い上がり、彼との生活を夢みるのだが。

この映画は、ウッディ・アレンのウッデイ・アレンのための、そして彼らしさを好むファン、つまり私のようなスノッブな都会を舞台にしゃれた会話を笑いたいタイプの者へのプレゼントだ。
映画の随所に、ユーモアとウィットが散りばめられ、小技とちょっとしたひねりのきいた知的な会話のキャッチボールがとびかう。人生が、ほろ甘いか、せつなく苦いものなのか、いずれにしろ彼流のコメディという点では、定番である。

この映画製作の現場でも、俳優たちは作品の全貌を知らされず、リハーサルも殆どなくアドリブをとりいれて撮影されている。それが、ハリウッド俳優たちから金ピカの”ハリウッド”らしさという垢を落とし、自然だけれど奇妙な一種の室内劇のような雰囲気をただよわせている。俳優の知名度が必要、という映画界の事情から結局役にありつけない夫、お嬢様育ちの妻の行動をどうせ”ショッピングとランチ”で時間をつぶしていると嘲笑する夫、なにかと夫婦の生活に干渉してくるおしゃれできれいなママと待ち合わせてランチする妻、ハンサムだけど快楽的で頭がからっぽな歯科医、こういうスノッブな視点のキレル皮肉は、さすがに老いてもウッディ・アレン健在である。

恋愛遍歴も多く、女優として円熟した輝きのあるミア・ファローと生活している時に、35歳年下の韓国人の養女との関係が彼女の裸の写真が見つかったことで暴露された、という珍しい?経験もある恋愛の達人ウッディ・アレン。
彼にとって、人生とは苦いけれど、やっぱり喜劇なのだろうか。それとも甘~い悲劇なのだろうか。。。

苦くて甘いオトナのココアをNYのカフェでどうぞ。

ラブリー作曲家占い

2006-05-08 23:14:30 | Nonsense
ウィーンにも音楽留学(専攻はピアノです)されていたという麗しきemiさまのブログで発見した「ラブリー作曲家占い」
このような非科学的なお遊びは、信じないわりにはけっこう好きである。早速Go!

ラブリー作曲家占い
  
二番目に大事なものは抽象的だけれど、今の私にたりないもの。(←勿論、不足しているのは”愛”ではないですよっ)なんと結果は、モーツァルト。

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モーツァルトさんは自分の気持ちに正直で、自由奔放な生き方を好むタイプです。フィーリングと直感で行動しますから、周囲の意見や世間一般の常識にとらわれない、とても個性的な人だと言えるでしょう。自分なりのポリシーを持つあなたは美的センスにも優れていますから、メイクやファッションに光るものがあり、アピール上手です。ただそれは、寂しさの裏返しだとも言えそうです。周囲から注目されたいために自分の個性を押し出して生きているあなたは、心のどこかで注目されなくなったときの孤独を恐れています。そんな孤独を恐れて、遊びか本気かわからない恋愛を繰り返してしまうことも。自分の心と真摯に向き合うことが、幸せを掴むポイントになるでしょう。

● 樹衣子さんの開運温泉は、洞爺湖温泉です(入浴剤も可)。

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瀬名秀明さんの「科学の最前線で研究者はなにを見ているのか」でこのような非科学的な占いは、あたっていると思うのは単なる思い込みとある科学者が解明していた。でも、けっこうあたっているじゃんっ、とつい思い込むのも人間らしさなのかもしれない。(そういえば、学生時代”新宿の母”という方に占ってもらった友人は、結婚が外国に関係があると言われ、外交官と結婚するつもりでいた。銀座では、今でも占い師を街頭でみかける。)
常識にはとらわれない、自分なりのポリシーと美意識・・・まるで私という人間のツボをおさえたような分析も楽しい。周囲から注目されないことの寂しさの裏返しであるアピール・・・ブログの更新も寂しさという孤独を恐れるアピールなんだろうか?ぎょっ。。
「遊びか本気かわからない」→この部分、つい最近の『グレン・グールド エクスタシ』でのcalafさまへのコメントで、私の言葉が足りなくて誤解を招きかねない”不適切な”文章を思い出した。他意はなかったのだが、遊びか本気かわからない妙なコメントだった。(反省)
でも、何故モーツァルトなのだろう。(余談だがemiさまは、ロリコンで生涯独身だった”萌え系”のブルックナーとのこと。爆)そういえば、モーツァルトは早死にしたっけ。つまり佳人薄命?

『故郷の香り』

2006-05-07 17:58:46 | Movie
1本の舗装されていないあぜ道がなだらかにのびている。夏の夜明けのその道を、若者と呼ぶにはすでに年齢を重ねたひとりの青年が自転車で走ってくる。
彼は大学に合格して故郷を離れてから、10年ぶりにこの地に戻ってきた。何故、10年もの歳月故郷を帰らなかったのか。何故かくも長き間、生まれ育った村に背を向けていたのか。一台の自転車を追いかけていた映像は、やがてゆるやかにあけていく故郷の田園風景をひろげていき、観客は映画の舞台が中国の農村だとあらためて知らされる。その風光明媚な美しさと、村の貧しさと文明とはほど遠い農民の暮らし。
だから走る自転車の行く先が、あかるさに満ちた地というわけではないという予感でこの映画は、幕をあける。

村の名士の息子ジンハー(グオ・シャオドン)は、10年ぶりに故郷に帰ってきた。北京の大学に進学し、その後役所に勤務する彼は、恩師のトラブル解決のために帰省していたのだ。ほんの短い滞在予定の明日は北京に帰るという日、歓待の席から帰る客人をおくるために、その客人を乗せて自転車を走らせるジンハー。この村では、自転車はまだ貴重品だ。
橋のたもとでひとりの女性とすれ違う。大量の重いシバを背負い、不自由な足をひきずりながら汗と泥で顔まで汚れている貧しい女性だった。ジンハーは、そのまま気がつかずに通り過ぎても良かった。何故ならばそれほど、彼女の姿はかっての面影からあまりにも変わり果てていたのだ。
10年間故郷に帰れなかったのは、初恋のその女性ヌアン(リー・ジア)に出会うことが恐かったのだ。そして、また彼女と出会わないことが恐かったから。
けれども思わず自転車を止めて、ヌアンに声をかけるジンハー。そこで彼女が耳と言葉が不自由でそのせいか知的にも軽い障碍のある幼なじみのヤーバ(香川照之)と家庭をもち、6歳の娘がいることを知る。てっきり村を出て、町の人間と結婚して幸福に暮らしていると思い込んでいた彼にとって、かって村一番の器量よしで京劇の女優になる希望に満ちていたヌアンの現在の姿を、正視するにはつらい。

「何故、ヤーバと」
「”割れ鍋に閉じ蓋”だから」

好きだった女性のあまりにも過酷な歳月をその風貌に見るジンハーは、苦渋に満ちてヤーバとの考えられない結婚の理由を尋ねるのだが、ヌアンは朗らかにそう答える。
村の誰も、彼女の消息を教えてくれなかった。その理由を考えると、多くの想いが奔流のように彼の胸に流れて渦巻く。明日北京に帰る予定をとりやめて、ジンハーはヤーバとヌアン、ふたりの間に生まれた娘が生活する小さな家を訪ねる。映画は農村の貧しく文明から取り残された彼らの家庭を中心に、三人の複雑な心理をはらんだ交流と、かっての様々な思い出が交錯してすすんでいく。

ジンハーにとって、彼女は故郷においてきた大切な箱だった。
おいてきたのか、捨ててきたのか。その箱を再び開くことの懐かしさと深い後悔の苦しみ。
映画の原題が、大切な箱の名前、初恋の女性の名前”援(ヌアン)”であるとおりに、物語の主役であり要はヌアンである。しかし、「山の郵便配達」(1999年)から、中国の都会と農村の対比をモチーフにしてきたフォ・ジェンチイ監督の作品であるからには、もうひとつの主役は舞台となる中国の農村である。
テレビもない二人の慎ましすぎる家に、難色を示すジンハーと、北京の有名な大学(北京大学と思われる)に村からたった一人進学した彼の妻は大学で講師を勤め、一粒種は、”男の子”との対比。この村では娯楽といえば、広場につくられた素朴なブランコと、何年かに一度巡業にくる京劇。
ジンハーが北京に帰る日に、ひとり娘が興味を示した折りたたみ式のジャンプ傘を置いていこうとするが、ヌアンは固辞する。この傘は、遠い都会の文明と村を捨てそこで快適に暮らすジハンを象徴する。ヌアンが毅然とした態度で傘を返す姿に、胸を衝かれる。過ぎた時間、かけ間違えたボタンは、取り返すこともできず、やり直すこともできない。

そしてもうひとりの主役は、ヤーバだ。
仲のよかったジーハとヌアンの後をいつもついて歩き、言葉が不自由なために村人から守られながらも、対等につきあう友人もいなかったヤーバ。ヌアンと結婚に至ったあまりにも彼の拙い愛情表現と胸に秘めた秘密、そして最後にとった彼の行動が、愚鈍に思えたヤーバの本当はひたすら純粋で気高い愛情の魂に誰もが意表をつかされるだろう。ここでヤーバ役を演じた香川照彦さんの演技力が、主役のふたりもかすむほどの強烈な印象を残す。人を一途に愛することの純粋さと、それでも犯した罪の愚かさがもたらす重さを、障碍のある役を通して香川氏は見事に演じている。彼の演技は、賞賛に値する。

「何故、ヤーバと」

ジンハーの苦悩する最初の問いは、最後に恋の勝利者が誰だったかを考えさせられる。
ジンハーは、村を去る前に彼らの小さな幼い娘を抱きしめて、ある約束をする。それは、10年前守ることのできなかった娘の母との約束を果たすため、そしてヌアンとヤーバの大切な箱を、今度こそ忘れないために。

「不確実性の時代」J・K・ガルブレイス氏去る

2006-05-01 22:51:26 | Nonsense
米国を代表するリベラル派経済学者で、『不確実性の時代』など数々のベストセラーで知られる米ハーバード大名誉教授、ジョン・ケネス・ガルブレイス氏が29日夜、老衰のためマサチューセッツ州ケンブリッジの病院で死去した。97歳だった。
ガルブレイス氏は政治・社会問題に積極的に発言し、経済理論の枠を超えた知識人として各界に大きな影響を与えた。
1908年カナダ生まれ。37年に米国籍を取得。当初は農業経済学が専門だったが、英ケンブリッジ大に留学しケインズ経済学を学ぶ。40年、米民主党ルーズベルト政権に加わり、戦時経済政策の立案や大統領スピーチの執筆にかかわった。経済誌フォーチュン記者などを経て、49年にハーバード大教授に就任。ケネディ政権下では駐インド大使を務めた。 (06/5/1 日経新聞)
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数々のベストセラーを飛ばした、人気・売れっ子経済学者を一部の新聞では”米国を代表する経済学者”と紹介しているガルブレイス氏だし、私もそう思っていたのだが今回の訃報で代表するというのが、世界的な人気という意味であり、米国の経済学会では決して主流ではなく、常に異端者だったということを知った。また、人気経済学者はリベラリストという立場から戦争から米国社会まで幅広く、常に時代に警鐘を鳴らして、そのことからも学会や政財界から疎んじられていた。
「常識を疑え」
今では、当り前なこの発想を、ガルブレイ氏は大恐慌時代の主流派経済学者の過ちから学んだ。経済学者の予想はあまりあたらない、という俗説はガルブレイス氏に限ってあてはまらない。日経新聞には、大柄なクリントン大統領(当時)とさらに大柄なガルブレイスが蝶ネクタイ姿で談笑している写真が掲載されていたが、ケネディ大統領と握手しているクリントン大統領の学生時代の写真を思い出した。ケネディ大統領時代、経済政策顧問やインド大使として支えて貢献したことを考えると、ガルブレイ氏の経済学者としての歴史が米国の政治・経済史そのものだと言える。
それにしても経済学者は、長生きなのだ。先日の都留重人氏の訃報と重ね、佐和隆光氏と同じく、まさに巨星落つという感にたえない。

さて、昨年大好評だった「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」
クリスマス・ローズさまからの参戦のご確認があったのだが、今年も5日間ほど留守にするので”熱狂”できず。昨年同様、大学の入学式の式辞を置き土産に残したかったのだが、新聞で読んで気に入ったお茶の水女子大学の式辞を検索できず。そのため、去年と同じこの方のメッセージを。↓
小宮山学長式辞
  
ちょっと今年は、定番で今ひとつだったが。。。