千の天使がバスケットボールする

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『さよなら、子供たち』

2006-05-28 18:03:39 | Movie
1944年も明けた早朝、冬の凍てついた道をひとりの神父と3人のこどもたちがナチスによって連れ去られていく。
整列させられたこどもたちは寒さにふるえながら呆然として、「神父さん、さようなら」と声をかける。そして、彼は振り返って応える。
「さようなら、子供たち。また会おう」

ルイ・マル監督は、40年以上経ってもこの日のことを忘れないと言う。この映画「さよなら、子供たち」を撮るために、自分は映画監督になったと。

シューベルトの「楽興の時」第二番が流れる。ナチスが占領する1948年、短いクリスマス休暇をおえてパリから離れた郊外のカソリックの寄宿舎へ戻る駅、12歳のジュリアン・カンタン(ガスパール・マネッス)は、母との別れを惜しんでいる。生意気盛りのジュリアンではあるが、母と別れる寂しさに車窓の冬の寂れた風景も涙でけむる。
こどもたちがそれぞれ寄宿舎に戻ると、縮れた黒い髪の転入生ジャン・ボネ(ラファエル・フェジト)がやってくる。文章表現能力ではジュリアンの右にでる者はいなかったが、ボネは彼をもしのぎ、また難しい数学も次々と解き、まさに才気煥発。しかし、誰にもこころを開かないボネを意識しながらも、反発を感じるジュリアン。
やがて森での宝捜しのゲームで、ふたりきりになった彼らは好きな小説の話をしたり、親しくなっていく。会計士だったボネの父は捕虜となり、母は非占領地域に行ったまま音信普通になっている。まだ幼いジュリアンは、ボネの事情を理解できない。父母参観の日、ジュリアンは誰も参観にこないボネを母と兄との食事に招待する。「ユダヤ人に偏見はない」と言う母に、ボネは母を思い出し親しさを感じる。
勉強、食事、運動、神父さんたちも参加する遊びの時間、寄宿生活での日々は、塀の外の戦禍と離れて平和に過ぎていくようにみえるのだが。

映画の最初から最後まで、忠実に再現された当時のカソリック系の寄宿舎でのこどもたちの生活である。広い部屋にいくつも並んだベッド、石鹸とタオルをもって近所にお風呂に入りに行く日、黒い制服に身を包む上品なこどもたち。その淡々とした日常生活を描くことによって、戦争という非条理な世界におしつぶされていく人間のあり方をルウ・マル監督は問いかけている。
同じドイツ人といっても、レストランでひとり静かに食事するユダヤ人紳士を恫喝するゲシュタポと、彼らのふるまいを嫌悪して逆にやりこめるドイツ空軍の将校たち。また寄宿生は、みな裕福な資産家のこどもたちである。そんな彼らが勉強し、運動する姿を横で見ながら同じぐらいの年齢で料理番として働き、給仕して奉仕するジョセフ(フランソワ・ネグレ)。ここに生まれながらにして富める者と貧しい者の対比がある。
そんなジョセフは、戦争の物資不足もあいまって少しずつ精神がゆがんでいく。闇商売に手をそめるようになった。
「富めるものは、もたざるものに分け与えよ」という共産主義的な富の再分配を信条とする校長のジャン神父は、その事実に気がつき彼を厳しく解雇処分にする。物資を提供したこどもたちになんのお咎めもなく、自分ひとり解雇されて放り出されたことに強い不満をもつジョセフは、憎悪をつのらせる。そして彼は、ユダヤ人少年をかくまっている校長をゲシュタポに密告するのである。弱者の復讐の対象が、さらなる弱者ユダヤ人少年へと向かう対立が、人間の哀しい存在をうきあがらせる。

そしてゲシュタポが教室に侵入してユダヤ人狩に来た時、ボネを気遣い思わず振り返ってしまうジュリアンの視線の先をドイツ将校のミュラーは、見逃さなかった。教室から退出するように命令されるボネは、すべてをあきらめたかのように「いいんだ、いつか、この日がくると思っていたんだ。」とジュリアンに声をかける。この達観した言葉は、生涯苦しむジュリアンをゆるすのだろう。

学校は、その日閉鎖された。ジュリアンたちは、二度と彼らに会うことはなかった。
ボネを含む3人の少年達はアウシュビッツへ、校長の神父さんはマウトハウゼへ連れて行かれたのだった。