千の天使がバスケットボールする

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「野に咲く花のように」

2007-03-26 13:45:30 | Gackt
今朝は、私がほれてる男、Gacktさんの新曲「野に咲く花のように」をじっくり聴いてみた。
彼の最大の魅力は、「天使のような高音と悪魔のような低音」という”声”にある。
しかし最近ヴォーカルにこだわっているためか、新作でも感じられることが、彼の魅力である幅広い音域とそれぞれの音域の彼らしい持ち味をいかした音楽つくりよりも、謳い方にこだわっているようだ。この「野に咲く花のように」でも従来のディープで難解な彼の世界観から離れた、小学生や中学生でもわかるシンプルな詩をリフレインしている。オトナのファンとしてみれば、単純でこどもじみた言葉の繰り返しには少々ものたりなさを感じたのだが、そこはやはり”Gackt”。同じ詩でもただのリフレインではなく、最初はせつなく、甘美に、そして最後は力強く希望に満ちて見事謳いあげている。この曲は一見歌い易そうだが、実は難しい。またどの曲もそうなのだが、音程をとるのが難しい曲でもある。つくづくこの方は天性の歌手だと、NHKの大河ドラマに出演する時間が惜しい気もする。

ところでこの「野に咲く花のように」が生まれたエピソードは幣ブログの。「Gacktさんが高校の卒業式に出席」でもお伝えしているが、日本の学校では今、卒業式のシーズンをむかえている。新曲は、まさに卒業式の日に聴く音楽である。
「いつかみた夢の場所へ たどりつくまであきらめないで」
そう歌うGacktさんの美声は、あくまでも澄んでいて、尊く、あたたかくも力強い。卒業して、これから社会人になる若者へのエールだ。
けれども、世界にはなんの希望ももてなく学校を卒業して、野に放されてしまう花もある。

ドイツのベルリン市立リュトリ中学校は、「テロ・スクール」としてドイツでもっとも有名である。
暴力、ゆすり、授業崩壊で教育当局と警察が校内正常化対策をとりながらも、とうとう昨年3月末には全教職員からベルリン市教育庁に、事実上の敗北宣言ともとられる公開状が送られた。そこには、日常的に制御不能の状態で、学校が暴力、侮蔑と深い絶望に沈んでいると認められていたという。ヘルムート・ホーホシルト校長は、「根底にあるのは本校独自の欠陥ではなく、中学校のシステム全体の問題」と語っている。
ドイツでは、小学校4年を修了すると大学進学者向けのギナジウム、中堅実務向けのレルシューレ、そしてリュトリ中学校のように主要学校と三つのコースに分かれていく。主要学校の卒業生は自治体や企業がつくる職業訓練校に進み、マイスター制度で職人の卵としてスタートする。そして腕を磨いて晴れてマイスターになるという、ひとつの選択肢だったはずだ。ところが現在では、貧困家庭のこどもや落ちこぼれの受け皿校になってしまった。05年の同校の卒業生は、ドイツ人、移民という民族や出自に関わらず、誰ひとり職業訓練の場をえることができなかった。同校だけでなく、主要学校全体で卒業生が訓練職場にありついたのは、26%。4人に3人は、15歳で卒業すると同時に無職となる。また彼らの親自身もリュトリ校の場合では、36%が失業者だという。
その主な理由として、これは日本でもあてはまることだが、IT化、オートメション化によって産業構造が激変したことにより、単純作業よりもより高度な技能の必要性から中卒レベルの(青年ではなく)少年、少女を受け入れる職業訓練の場がなくなったことによる。無職の親から、就職のチャンスが益々なくなっていくそのこどもたちという貧困の再生産。別の面では階級格差社会ともいえる。貧困家庭のこどもは、いつまでたってもなかなか貧困からぬけだせない。はたしてリュトリ校の教師たちの敗北宣言を、彼らの教育放棄とせめられるだろうか。校長がインタビューで強調する暴力の根が「生徒たちが感じ取っている将来への希望の欠如」に、オトナ世代の一員として考えさせられる。そして悲しいことに、今日このような校内暴力は世界的現象にまでなっている。

「またこの場所で出会うその日まで 野に咲いた花のように 決して負けずに つよく咲きたい」
今日も、どこかで卒業式が行われていることだろう。新社会人には、働ける場があり、食べていけることが当然のようで、実は当たり前ではないことを卒業証書とともに胸に残して巣立っていかれることを願いたいものだ。

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