秋月龍泯師がかつて、このようなことを書いていた。
>もうだいぶ昔のこと、山田無文老師が朝日講堂で講演されたある夕ベの話である。法話の後で舞台裏の控え室に老師を訪ねた。かねて老師の熱心な信者だった老婆が先に来ていて、ふと老師に問いかけた。
「老師さん、私ら死んだらどうなりますのじゃ。」
老師は無造作に答えられた。「死んだらおしまいじゃ。身も心も何にも亡くなる。」
一瞬、老婆は淋しそうな顔をした。「何にもないんですか。魂もないのですか。」
老婆の様子を見て老師は言われた。
「そうじゃな。自分のためなら、霊魂も何もないがな。菩薩はなあ、後に残って苦しんでいる愛する者の所にもどってきて、何かをしてやらんとな。」
老婆は心からほっとした顔で、師匠の言葉に安心しきったふうだった。
・・・これは、筆者の好きなストーリーだ。いろんな面で、考えさせられるものがある。
「生まれ変わり」とか「死後の世界」とかをバッサリと否定する老師だけど、仏教というのは本来、こういうものだった。
というのも、修行者は、自我に執着しない。自我に執着しないから、死後の存続にも関心を持たない。
「ボクは、長生きして幸せな老後を迎えたいな」というくらいなら、まだしも人間的な願望と言える。しかし、「ボクは、死んでも永遠に生き続けたいな」というのは、もはや人間として許される域を超えた、言語道断な自我執着になってしまっている。だから、老師がそんな考えをバッサリと否定するのは当然ともいえるだろう。
しかし、だからといって、「仏教というのは、人間は死んだらオシマイだ。だから、生きてる間は精一杯に生きよう・・・というような思想なんだな」と思ったら、それは大きな誤解になってしまう。それは、20世紀の実存主義哲学の考え方。昭和の時代に、左翼の学生運動をやってたような人たちにアリガチな考え方だ。
仏教は、それとはまったく異なる。そもそも、現代の西欧人と、古代のインド人の住む世界が違いすぎた。
というのも、インドでは、「輪廻転生」は当たり前の常識。誰もが、それを当然の前提として話をしていた。古代のインド人が「ここで」と言えば、それは「この世で」を意味した・・・とさえ言われている。たとえば、「ボクは、ここで商店をやってます」といえば、それは、「この人生では、商人になりました。次の人生で何をやるかは、まだ決めていません」・・・というような意味。
今の日本や欧米で「輪廻転生」の話をしたら、「ちょっと変わったスピ系の人」って感じだけど、常識というのは、時代や地域によって変わるもの。
「輪廻転生」が当たり前の常識になっているところでは、わざわざ、「人は、死んだらオシマイだなどと思っちゃあいけません。実は、生まれ変わってるんですぜ!」などと主張するまでもない。「そんなの知ってるよ。だから何なのさ?」と言われて終了だからだ。「仏教は輪廻転生を否定している」と主張する人たちは、そこのところを根本的に見落としている。そうではなくて、仏教は、もともと輪廻転生を当たり前の前提として、すべての話をしているのである。
それはともかく、「人は、死ねば無になる」という上級者向けの深遠な哲理を説いたところ、老婆がさびしそうな表情になった。それを見た山田無文老師の、変わり身の早さが見どころだ。
なんと、「菩薩は、悩める衆生を救うため、また生まれ変わってくる」というのだ。
それを聞いた老婆は、ほっとした表情になった。こういうのが、優しさというものだろう。
古代インドのお釈迦様も、そうだった。在家のお爺さん・お婆さんに対しては、「善いことをすれば、善いところに生まれ変わります。悪いことをすれば、悪いところに生まれ変わります」と説く。その一方で、出家したプロの修行者に対しては、「人は、死ねば無になる」と説く。この、見事なまでの使い分け。こういうのを、「対機説法」という。
しかし、上には上がある。プロの修行者よりも、さらに上をゆく「菩薩」ともなれば、なんと、また生まれ変わってくることになるというのだ。
菩薩は、本当はもう、とっくに地球生命系での輪廻から解放されている。それなのに、悩める衆生を救うため、こんな地球に仕方なく舞い戻ってくるのである。なんとも、ご苦労なことだ。まったく、「菩薩にだけは、なりたくない」と思わせるものがある・・・。
(つづく)
>もうだいぶ昔のこと、山田無文老師が朝日講堂で講演されたある夕ベの話である。法話の後で舞台裏の控え室に老師を訪ねた。かねて老師の熱心な信者だった老婆が先に来ていて、ふと老師に問いかけた。
「老師さん、私ら死んだらどうなりますのじゃ。」
老師は無造作に答えられた。「死んだらおしまいじゃ。身も心も何にも亡くなる。」
一瞬、老婆は淋しそうな顔をした。「何にもないんですか。魂もないのですか。」
老婆の様子を見て老師は言われた。
「そうじゃな。自分のためなら、霊魂も何もないがな。菩薩はなあ、後に残って苦しんでいる愛する者の所にもどってきて、何かをしてやらんとな。」
老婆は心からほっとした顔で、師匠の言葉に安心しきったふうだった。
・・・これは、筆者の好きなストーリーだ。いろんな面で、考えさせられるものがある。
「生まれ変わり」とか「死後の世界」とかをバッサリと否定する老師だけど、仏教というのは本来、こういうものだった。
というのも、修行者は、自我に執着しない。自我に執着しないから、死後の存続にも関心を持たない。
「ボクは、長生きして幸せな老後を迎えたいな」というくらいなら、まだしも人間的な願望と言える。しかし、「ボクは、死んでも永遠に生き続けたいな」というのは、もはや人間として許される域を超えた、言語道断な自我執着になってしまっている。だから、老師がそんな考えをバッサリと否定するのは当然ともいえるだろう。
しかし、だからといって、「仏教というのは、人間は死んだらオシマイだ。だから、生きてる間は精一杯に生きよう・・・というような思想なんだな」と思ったら、それは大きな誤解になってしまう。それは、20世紀の実存主義哲学の考え方。昭和の時代に、左翼の学生運動をやってたような人たちにアリガチな考え方だ。
仏教は、それとはまったく異なる。そもそも、現代の西欧人と、古代のインド人の住む世界が違いすぎた。
というのも、インドでは、「輪廻転生」は当たり前の常識。誰もが、それを当然の前提として話をしていた。古代のインド人が「ここで」と言えば、それは「この世で」を意味した・・・とさえ言われている。たとえば、「ボクは、ここで商店をやってます」といえば、それは、「この人生では、商人になりました。次の人生で何をやるかは、まだ決めていません」・・・というような意味。
今の日本や欧米で「輪廻転生」の話をしたら、「ちょっと変わったスピ系の人」って感じだけど、常識というのは、時代や地域によって変わるもの。
「輪廻転生」が当たり前の常識になっているところでは、わざわざ、「人は、死んだらオシマイだなどと思っちゃあいけません。実は、生まれ変わってるんですぜ!」などと主張するまでもない。「そんなの知ってるよ。だから何なのさ?」と言われて終了だからだ。「仏教は輪廻転生を否定している」と主張する人たちは、そこのところを根本的に見落としている。そうではなくて、仏教は、もともと輪廻転生を当たり前の前提として、すべての話をしているのである。
それはともかく、「人は、死ねば無になる」という上級者向けの深遠な哲理を説いたところ、老婆がさびしそうな表情になった。それを見た山田無文老師の、変わり身の早さが見どころだ。
なんと、「菩薩は、悩める衆生を救うため、また生まれ変わってくる」というのだ。
それを聞いた老婆は、ほっとした表情になった。こういうのが、優しさというものだろう。
古代インドのお釈迦様も、そうだった。在家のお爺さん・お婆さんに対しては、「善いことをすれば、善いところに生まれ変わります。悪いことをすれば、悪いところに生まれ変わります」と説く。その一方で、出家したプロの修行者に対しては、「人は、死ねば無になる」と説く。この、見事なまでの使い分け。こういうのを、「対機説法」という。
しかし、上には上がある。プロの修行者よりも、さらに上をゆく「菩薩」ともなれば、なんと、また生まれ変わってくることになるというのだ。
菩薩は、本当はもう、とっくに地球生命系での輪廻から解放されている。それなのに、悩める衆生を救うため、こんな地球に仕方なく舞い戻ってくるのである。なんとも、ご苦労なことだ。まったく、「菩薩にだけは、なりたくない」と思わせるものがある・・・。
(つづく)