旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

アイリーン・ドナン城からアクナシーンへ

2017-08-22 17:45:26 | イギリス

ネス湖湖畔のフォート・オーガスタからちょっとした山道を超えて大西洋側に向かう。このあたりの道はまだまだ細くて、大型車がぎりぎりにすれ違う。道から外れて横倒しになった車もみかけた↓

 

海岸線は複雑に切れ込んだフィヨルド。ゲール語の「ロッホ」とは湖の事だと思っていたが、実はこういった深い入江のことも指している。アイリーン・ドナン城の周辺地図をみてはっきり分かった↓

アイリーン・ドナン城のまわりも、写真で見ていた時には湖だと思っていたが、降りてみると潮の香りがする。たくさんの海藻も引き潮の岸辺に溜まっている。これは、はっきり海だ↓

スコットランド指折りの絵になる城。なるほど。

当初の入場予約時間より三十分早く到着。「自由見学ならすぐ入っていいですよ」と言われたが、ガイドさんの来る時間まで待つ。やっぱり解説してもらわないと、何を見たのか、ちゃんと理解できないから。

待ちあわせ時間から十分ほど過ぎてようやく入場。この石橋は古そうに見えるが20世紀初めに新しく建設したもの↓中世の城にこんな渡りやすい入口がついている筈はないのです↓


入口柵の左右に二つの紋章。この意味はあとからわかった↓

 

橋を渡りきって建物を目の前にすると、何百年にもわたって増改築がされてきたことが分かる↓

名前の由来。アイリーンとはゲール語で「島」、キリスト教の聖人ドナンがAD580年にやってきて、この島に住んで布教をはじめたとされる。「聖人ドナンの島」だった。

バイキングが襲撃してきた十三世紀ごろに、ここは内陸への防御砦が築かれた。それが城になってゆく。スコットランド王からこの周辺を任されたマッケンジー家が、この城の守護を託したのがマックレイ家。入口に掲げてあった紋章二つは、この二つのクラン(ファミリー)のものである。

1719年。名誉革命に反対するスコットランド貴族「ジャコバイト」の拠点の一つとなる。支援する武装したスペイン兵46名と大量の火薬・武器が運び込まれる。イングランドの軍は三隻の戦艦で囲み、三日間にわたって千発以上の大砲を打ち込んだ。※城内に弾が展示されている  ついに降伏した時にも、城内には城を全部吹き飛ばせる火薬が残っていたそうだ。

城は破壊され、二百年の間廃墟となった。※この時代の写真、歴史が城のホームページから見られます

1912年 マックレイ家はついに城の再建に着手。1932年七月にやっと完成した。マックレイ家は八百年以上も変わらずこの城を守ってきたのである。★エディンバラで見たミリタリー・タトゥーのパンフレットにも、マックレイ家のタータンは、この城を指して乗っていた。

入口の上に掲げられた年号の意味はこれであった↓

正面左手の低い棟は、今でも御当主がプライベート利用されている。御当主とは、マリーゴールド・マクレイ、88歳の女性だった。彼女の肖像画も城内にあったが、撮影禁止。観光地になっていなくても伝統を受け継ぐ城が、このスコットランドにはたくさん存在している。

***今日の宿泊はアクナシーンという田舎の、レッドゴーワンロッジという一軒家。さらに不便な道を走ってゆく。

おどろくのは、こういう不便な道沿いにずっと鉄道が走っていること。調べてみると、1901年にはこの路線が開通している。車のための道よりも先にあったのである。二両編成の列車が追い越して行った↓

 

線路は、アクナシーンの宿泊するロッジの近くにも走っていて、ロッジの人曰く、「インヴァネスから電車で一時間半ぐらいで来られるよ」とのこと。駅からも歩いてこのロッジまでこられる距離だそうな↓

狩りの館だったのだろう。鹿がたくさん飾られているロビー↓

このレッドゴーワンロッジは、当初小松が考えていた宿泊先ではなかったのだが、夕食を現地払いでお願いすると、ていねいにメニュー全部から選んでよいことにしてくれた。事前に参加のみなさんにすべて開示してオーダーをとり、現地につたえてもらってあった。

ホテルもいっしょうけんめい用意してくれたのだ

そのメニューを一部ご紹介しましょう(^.^)

●ハギスとウィスキークリーム↓ スコットランドの伝統料理「ハギス」は内臓を刻んで香辛料と共に形成したもの。クセがある料理だが、ウィスキーとは相性が良い

●カラメライズしたマンゴーとシャーベット(これも前菜)↓デザートとしででなく、美味し(^.^)

●パテと野菜サラダ↓

★ブリーチーズとビーツを焼いたパイ↓はじめての味(^.^)

●トマトスープ↓見た目は普通だけれどかなり好評↓

●サーモングリル、バターソース↓ スコットランドの川にはサーモンがあがってくるので、新鮮であっさりしていた

●リブアイステーキ、赤ワインとキノコのソース↓

●パヴロヴァ↓ 三つで一人分は日本人には多いけれど

●ブリュレ↓

田舎の一軒家のマナーハウスだけれど、これだけ丁寧においしいチョイスを用意してくれていれば、ここまで来た甲斐があるというものです。

ゆっくり夕食の後別室でお茶。真っ暗な屋外には雨が降りだしていた。

 

 

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ハイランドの首都~インヴァネス

2017-08-22 12:00:09 | イギリス

スコットランドは、ハイランドとローランドに分かれている。エジンバラやグラスゴーといった大都市はローランド。第三の都市アバディーンもローランド。ハイランドは北西部、ヘブリディーズ諸島を含み、荒々しい自然の中、交通も不便な一帯である。しかし、もっともスコットランドらしさがあるのはハイランドだとスコットランド人が言う。


ハイランドの「首都」とされているのがインヴァネス。人口は近年増えたとはいっても10万に届かない。観光都市になっても落ち着いた佇まいが保たれている。


キングス・ミルズ・ホテルから出発旧市街ど真ん中とはいかないが、町まで歩ける距離。中庭があって部屋の施設も悪くない


市内を流れているのはネス川。あのネス湖が北海へ流れてゆく河口から少しだけ上がった位置にある↓ 川向うに見えているのは19世紀に建設された大聖堂。



↑上の風景は、対岸のこの城がある場所からのもの↓



現在の建物は19世紀に再建されたもので、役所・裁判所になっている。前に立つ像はフローラ・マクドナルド。彼女は1746年カローデンの戦い(イギリスからの独立のための最後の戦いだった)で敗走してきた「ジャコバイト(名誉革命でオランダからやってきたウィリアム王を認めず、議会に追放されたジェームズ王(=ラテン表記でジャコブ)の血統を正しいとした)」の大将、ボニー・プリンスを、自身の出身地であるスカイ島へ導きフランスへ亡命させたという人。ハンサムだったというボニー・プリンスとの恋もあったのか、彼の落ち延びた先を見ているのだ↑


この戦争で破壊され、二百年以上も廃墟だった城。再建時に残っていた石材は再利用しているので、一部はがらりと色がちがう。


↓同じ地元のタラデール砂岩をつかっても年月は色を変える↓



坂を下ってゆくと、市庁舎の建物が修復中↓こちらも同じタラデール砂岩だが、新しいとこんなに白いのか↓


はめ込まれた紋章↓左はラクダ?右はゾウ↓



道を挟んで向かい側に、かつてはここで入市税を徴収していた門塔↓



昔城壁のあった場所を過ぎて、橋をわたってゆく↓



↑19世紀のマンション群。


↓振り返るとさっきのお城↓



大聖堂への道案内表示↓上がゲール語、下が英語となっている↓ハイランドの僻地へ行けば、いまでもゲール語で生活しているひとがいるのだそうだ↓



地方独自の言語は、近年どこの国でも復活させようという機運がある。学校で必修事業にし、地元の放送局はその言語で番組をつくる。


大聖堂入口↓



中にあったこの胸像の司教=ロバート・イーデン氏がが奔走して資金を集め、この教会が完成した↓



いや、実は完成していなくて…彼のもともとのプランでは尖塔がつく予定だったのだそうだが、ない。


当時の「完成予想図」が壁にかけられている↓



**


インヴァネスからネス湖の湖畔をドライブして、逆側のフォート・オーガスタまで向かう↓


ネッシーはいずこ、売店にはたくさんいるけれど


ネス湖は19世紀はじめに建設された★カレドニア運河の一部である。



これは北海と大西洋の間を安全に航行するため、1799年に国家事業として計画され1803年トマス・テルフォードが着工二十七の水門を使って細長い湖まで船を上げ下げする仕組み。フォート・オーガスタでその水門を船が行き来するのを見られた↓



★トマス・テルフォードの名前は、昨年の《手造の旅》ウェールズで何度も出てきたのでよく覚えていた。1779年に世界で初めての鉄の橋=世界遺産「アイロン・ブリッジ」や、船が石橋を渡るこちらも世界遺産の「ポンテカサステ水道橋」1805年、コンウィ城からかかる橋など、現代の目から見ても価値がある仕事をたくさん遺している。※こちらから昨年訪れた時の日記をみていただけます



トマス・テルフォード、これからもお目にかかりそうな人物


**ネス湖クルーズは一時間ほど、湖水はこんなウィスキー色↓



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ダフタウンとスコッチ・ウィスキーのグレンフィディック

2017-08-21 17:26:03 | イギリス

ダフタウンは主要な通りが三本ほどしかない小さな町である。中心に1836年に建てられた時計塔がある↓

歴史を読んでいると、ナポレオン戦争から帰還した兵士たちが1817年に新しく建設した町なのだそうだ。19世紀にも、ローマの軍団兵の入植のような話があったのを知る。

ここはスコッチ・ウィスキーの故郷、スペイ川近く。町中にウィスキーの宣伝がある。醸造所も近くにたくさんある 

お茶に入った店では、ウィスキー樽を再利用した家具を販売していた↓

「天使の分け前」と名付けた、こんなお土産があるのも、ウィスキーの町ならでは↓

***

すぐ近くのグレンフィディック醸造所を見学に行く。グレンフィディックは1887年の創業者ウィリアム・グラントの作り方を受け継いでいる。世界で初めてシングルモルトの製品を世に問うた会社。

キルト姿のガイドさんが、製造過程を追いながら熱を込めて語ってくれた↓ 

いちばん驚いたのが、モルトをつくるのに、泥炭を焼いた煙をつかっていないこと。なんと、ウェールズ産の石炭を焚いていた↓

「スコッチウィスキーというのは、スペイ川周辺の泥炭を焼いてモルトをつくるからこそ、そう呼ばれる」と、思い込んでいた。グレンフィディックは冷静に味を追求して、このやり方に行きついたのだろう。

シングル・モルトの製品をはじめて売り出したグレンフィディック社にして、こういう思い切った改革をしていたのか。たいしたもんだ。

発酵過程の管理は、今でも手書きの黒板をつかっていた→

「いちばん重要なのは、あの山ロビードゥーの(と指差す)水を使うこと」とガイドさん。製造のあらゆる過程で使う水を、同じこの山からのものを使っているのだそうだ。これが、グレンフィディックの今のいちばんのこだわり、と理解した。

泥炭を焼く煙を使わなくても、泥炭地をながれてくる茶色の水を使っていれば、スコッチらしいウィスキーに仕上がるということなのかもしれない。

「水」を守るために、グレンフィディックは1200エーカーという土地を購入したのか。社の敷地もこんな↓

モルトの原料を運び込んでいた↓

****さて、試飲。

四種類をためさせてくれた↓

熟成年の違いではないのが、一番右のIPA。これは(シェリーでもバーボンでもなく)ビールの樽をつかって熟成させたもの。ウィスキーの味はよくわからない小松でも、このIPAは違って感じられた

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ダンノッター城

2017-08-21 13:26:57 | イギリス

スコットランドで最も印象的な城のひとつに数えられるダンノッター城↓

北海に突き出した孤立した断崖にある。17世紀半ば、清教徒革命がはじまるとスコットランド王になるための三種の神器がここに避難していた共和国イギリス・クロムウェルの軍は1650年から八ヶ月にわたり包囲したが落とせなかった。これらは今もエジンバラ城に保管されていて、次のスコットランド王戴冠式にも使われるだろう。

**

アバディーンから南へ三十分ほど走ると、専用の駐車場がある。入場しないで城の全容を見るだけの人も駐車料金はとられる。

少しだけこんな道をあるくと、見えてきた↓

城への道は最初少し降りてから登らなくてはならない。一か所しかない出入口↓

現在残る最も古い部分は1392年からの四角い塔。展示された模型でよくわかる↓

上がっていく途中にある「ライオンの穴」には、実際にライオンが飼われていたそうな。ずっと吠えていて、侯爵夫人が文句を言った。寒い土地に連れてこられたライオンは適応できなかったのだろう、長く生きられなかったそうな。

クロムウェルの軍隊を退けた城だったが、18世紀の「ジャコバイト討伐」では陥落し、廃城となった。19世紀にはその廃城を楽しむ観光がすでにはじまっていて、彼らの「使い捨て陶器製のパイプ」がたくさん発掘されたのだそうだ↓ 後ろに見えるのは戦争の時の弾です↓

断崖に囲まれた城↓

水の確保はいちばんの課題↓貯水槽がある

キース家の当主がつかっていたと思われる部屋には、紋章が刻まれた壁が↓

一部屋だけが、屋根付きで復元されている。置かれていた椅子は、「ダンノッター号」と名付けられた船の備品だった↓

印象的な岬の廃城であります↓

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アバディーン~《手造の旅》スコットランド 1,2日目

2017-08-20 13:58:13 | イギリス

アバディーンはスコットランドの北東岸に位置する、スコットランド第三番目の都市。ロンドンではなくパリからの便で到着した。夏なので19時をまわってもこの明るさ。耕作地をながれる蛇行した川↓

アバディーンは1970年以降北海油田の町として有名になった。空港にも油田プラットフォームの写真がそこここに見られる↓

空港から港に近い中心部までは四十分ほど。メインストリートのユニオン通りにはいってきた↓突き当りに見える丸い時計がついた塔が市庁舎だ↓

前を走る自転車は「デリバルー」という、好きな食事を家までお届けする新ビジネス。日本にもはいってくるかしらん?

ホテルはニュー・アバディーンの中心にあるメルキュール↓

谷を挟んで向こう側に教会の塔が見えた。レセプションで、「あれはなんていう教会?」ときいてみると・・・↓

「あれは今はナイトクラブになってるのよ」とのこと。部屋に荷物を置いてちょっと散歩にでると、なるほど、こんな感じのお店になっている↓

周辺は古い雰囲気のあるパブがたくさんある↓

アバディーンは北海油田の発見以前からちゃんと歴史を刻んできた大都市だったのが感じられる。ユニオン通り↓

エドワード七世(ビクトリア女王の息子、映画「キングス・スピーチ」の厳格な父ジョージ五世の父にあたる人物 1910年没)の像↓

***

翌朝、朝食バッフェで、スコットランドらしく「ハギス」があった→ また、散歩にでてみよう。気温は20度ぐらいだろうか。風はなくちょっと肌寒いぐらい↓

★アバディーンは港町の筈なのだが、このあたりを歩いているとまったくそんな感じがしない。しかし、地図を見ると港はそれほど遠くないようなので、坂道を少し降りてゆくと…あ、フェリーが停泊している港がたしかにあった↓

海洋博物館もの途中にある↓今回は時間がないけれど、次に(いつ?)訪れてみたいなぁ…

**

市庁舎のところまで戻る↓

広場にの真ん中に、歴史を感じさせる六角形のモニュメントがたっていた↓

頂上にはスコットランドの白い一角獣。まわりのパネルには、スコットランドの王様たちの肖像。これはいつぐらいのものかしらん?どんな王様が刻まれているのか、見てみよう↓

一番古い時代のものは、下の写真右のジェームス一世だった↓「IA1R」は、ラテン語での「ジェームス一世王」の略表示。左は「IA2R」でジェームス二世↓

次のパネルは右がジェームズ三世「IA3R」、左がジェームズ四世「IA4R」↓

次が「IA5R」ジェームス五世、そして下左が有名な・メアリー・スュチュワート女王↓

彼女はスコットランド王ジェームス五世の正室の子であり、父方の祖母がイングランド王ヘンリー七世の娘だったので、イングランドの王室からの正当な血統を継いでいる。 けれど、男と数々のスキャンダルを起こしスコットランドを追放されてしまった。エジンバラのホーリールード宮殿には、「夫殺し」の時の刀傷が今日でも残されている。

スコットランドを追われた彼女はイングランドのいとこ=エリザベス一世女王に庇護されるが、エリザベス一世よりも正しい血統であることを懸念されて、反逆罪で処刑された。

処女王と呼ばれたエリザベス一世が後嗣無く没すると、イングランドの王位はエリザベス一世が処刑したこのメリー・スチュワートの息子=ジェームス六世が指名された↓「IA6R」(下写真右)ジェームス六世がその人であります↓

**その息子チャールズ一世「CA1R」は、清教徒革命でクロムウェルに首を切られた王↓

クロムウェルの時代は十年ほどしか続かず、チャールズ一世の息子が1660年亡命先から帰国し、チャールズ二世「CA2R」↓(下右)として即位した↓ チャールズ二世は愛人ばかりで嫡出がなかったので、1685年に没すると弟のジェームズ七世「IA7R」↓(下左)が即位。しかし、カトリック寄りの政策が不評で、1689年に議会によって廃位された。名誉革命であります↓

 

 

スコットランドでは、この名誉革命でオランダから呼び寄せられて即位したウィリアム三世を認めない一派が度々反乱を起こすようになる。「ジャコバイト」=ジェームスの血筋を王とかんがえる人々、の反乱である。

※反乱の最後にして最大の戦いが1746年、インヴァネス近くカローデンでのもの。敗れたジェームス七世の孫はスカイ島出身のフローラ・マクドナルドに助けられて国外脱出。最後は弟をたよってローマに亡命を受け入れられ、そこで亡くなる。墓はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にある。

このモニュメントに名誉革命以後の王がいないのは意図的にそこまでにしたのか? 名誉革命前以前に制作されたものだからか?わかりませぬ。

 ******

ホテルの入り口目の前に、「蛍の光」の詩を書いたのでしられる、ロバート・バーンズの立像↓

入り口から左へ百メートルほどでウィリアム・ウォレスの巨大な像↓

19世紀も半ばになって、ようやくスコットランド人は自分たちの父祖を讃えることができるようになり、かつての「反逆者」にもこうして銅像になった。※こちらにもう少し書きました。

**

ニューアバディーンでいちばん立派な建物が、このマーシャル・カレッジだろう。世界で二番目に大きな花崗岩建築だと説明された。アバディーンは花崗岩の産地でもあるのだ↓

マーシャル・カレッジは、1593年に第五代マーシャル候ジョージ・キースによって設立された。マーシャルとは軍隊の階級のようなもので(元帥をあらわすMarshallとは綴りが違うが)、1314年にイングランドの軍隊を打ち破ったバノックバーンの戦いの後、ロバート・ザ・ブルース一世がキース家に与えて初代がはじまった。

正面入り口にはその歴史を現す紋章が掲げられている↓後に1495年創立のキングスカレッジと合同して「アバディーン大学」と呼ばれるようになったので、中央は二つが組み合わされた紋章になっている↓中央右がマーシャルである五代目キース家の紋↓その右がアバディーンの市の紋↓

右側が司教の紋、司教冠がついている↑

この建物は古いカレッジの建物を1835年に建てなおして巨大になった 。世界第二位の大きさの花崗岩建築(一位はスペインのフェリペ二世が建てた「エル・エスコリアル」)

角の時計塔だけまだ洗浄がおわっていなくて真っ黒なまま↓

入り口にはロバート・ザ・ブルース王の騎馬像↓

大学にしては入場警備が厳しいとおもったら、ここは現在市の行政がおこなわれている。大学が建物を貸しているのだそうだ。

***

アバディーンの町はどんどん開発がすすんでいる。古い教会に付属していた煉瓦の塔がぽつんとのこされていてが・・・↓

↓この塔を取り込む形での再開発が進行中だった↓

完成予想図がこちら↓

さて、いつか再訪した時、こんな風になっているかしらん。


 

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