旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

見所たくさんグラスゴー~大聖堂、ケルビングローブ博物館など

2017-08-24 18:00:58 | イギリス

グラスゴーのはじまりは6世紀。現在大聖堂のあるクライド川の河岸高台に聖マンゴーが修道院をはじめたことによる。現在見られる聖マンゴー大聖堂は1136年に教会として使いはじめられた、スコットランドでは数少ない中世からの建物である↓

前に立つ像は、リビングストン。医療宣教師としてアフリカをはじめて横断した人物。台座にはアラブ人に支配されていたアフリカ人を象徴する彫刻が刻まれている↓ターバンをしていることでアラブ人を表しているわけだが…

グラスゴー市の紋章↓

※この図の意味ずるところを、こちらに解説しました

近くには1471年からの古い四軒長屋が残されている。この建物はだいぶん復元したものかもしれないが、丸い塔が中世の雰囲気を感じさせる↓


大聖堂入口↓中世ゴシック↓

内部はシンプル↓

カトリック時代には豪奢に飾られていたに違いないが、それらを自主的にとりはらうことによって、1560年代の宗教改革時にこの教会だけは取り壊しをまぬかれたのだった↓その取り払われたモノの跡が柱や壁に今も見られる↓

見上げる天井は木製↓

ステンドグラスはすべて新しいもの。古いものは、やはり宗教改革の時に自主的に破壊された。
二十世紀に地元のステンドグラス作家によってデザインされた青が美しいステンドグラス↓


地下聖堂に降りてゆく↓

そこには中世以来の聖マンゴーの遺体または遺物が残されてる↓こういうものをたくさん持つことが巡礼を集める手段だったのである↓中世は、巡礼をたくさん集めることが教会だけでなく町の繁栄にとても重要だった時代だ↓


薄暗い壁にかけられた新しいタペストリーは、アン王女が奉納したものだそうだ↓


聖歌隊席の一角獣↓たぶんもともとの角は折れてしまったので、小さいのを付け直した?

主祭壇の左右に陸海両軍の椅子が置かれている↓

海軍の椅子には、密かにテントウムシが隠されている↓


***
再びバスに乗り、市街をめぐる。ジョージ・スクエア以前に町の中心だった、GLASGOW CROSS「交差点」が見えてくる。真ん中に立つ細い塔は1625年に建設された当時の市庁舎にあたる建物の一部だった↓

※この塔の変遷について、こちらに少し書きました

近くにあった、マーケット・クロスは、アバディーンで見かけたものとよく似ていた↓


***バスに乗ってクライド川沿いを移動。かつて港湾地区の中心だったエリアにはその名残が感じられる。新しく建設されたアーチ形の白い橋の右側に立っている古い鉄塔は、フィニストン・クレーンと言われるもので最大揚力175トン。1932年生で今はもう使わないけれど、グラスゴー造船の記憶として残されている↓

幕末、長州から伊藤博文らと密行してきた山尾庸三は、ここグラスゴーで造船と工業を学んでいた。当時、世界の船の二割をつくっていたというグラスゴーの港をみて、「いつか日本も」と誓ったそうな。
※山尾庸三は長州藩から密行というかたちでの渡英だったので、ロンドン滞在中に学費が払えない窮地に陥った。それを助けたのは薩摩から豊富な資金援助のもとに渡英してきていた留学生たちだった。十六人が一人一ポンドずつを出し合い、山尾の希望であったグラスゴー行を実現させてやったのだそうだ。
本国日本では対立していた薩長だったが、遠いイギリスまでやってきてしまえば、自然に協力する気持ちになったのはよく理解できる。

明治維新前後において、日本とスコットランドの関係は思ったよりも深い。トマス・グラバーがスコットランド人であったことも大きいのだろう。

造船業は二十世紀後半には衰退していき、荒廃した港は二十一世紀に入ると再開発がすすんでいる。↓2013年にノーマン・フォスターが設計した3000席のコンフェレンス・センターは、通称「アルマジロ」と呼ばれている↓なるほどね

↑上の写真で右側に見えるROTONDAと書かれたレンガの建物は、エレベーター!地下に向かって降りてゆき、川底の通路を通して対岸へモノや人を移動させるためにつくられたものだった。なるほど、対岸を見ると同じ建物がもうひとつある↓あそことつながっていたのか


****バスは再び高台へ、美術館の前から見える大学↓グラスゴーって多面的な魅力があります↓


↓ケルビングローブ博物館・美術館は1888年に開催された博覧会の展示物を収蔵するために、博覧会の収益によって建設されたとされる↓


その後もコレクションは増え続けて、現代美術も混在している↓

後にアール・ヌーボー、アール・デコと呼ばれることになる新しいデザインを実用的に使ったチャールズ・マッキントッシュの作品も多く収蔵されている↓お昼に行ったティールームの模型椅子もオリジナルがありました↓

マッキントッシュにティールームを依頼したキャサリン・クランストン↓

彼女自身が新しいデザインを好んだので、ウィローティールームが出来た。何事も理解あるパトロンが存在することが必要なのです。

チャールズ・マッキントッシュは大学時代に出会ったマーガレットと結婚している。マーガレットもその妹のフランシスも優秀なデザイナーだったが、女性の名前で展示会に出すことが難し時代で、チャールズと共作ということでウィーンの分離派展に出展された、金屏風のような作品↓グスタフ・クリムトはこの作品を見た筈だ。影響も受けているにちがいない。

ジャポニズムと呼ばれる日本美術の影響は顕著。この証明は日本の行燈のようだ↓

代表作でオリジナルのまま現存していたグラスゴー美術学校の図書館↓の写真

ここはなんと2014年に焼失してしまっていた!
あぁ、前回小松がグラスゴーに来た時にはまだ見られていたのか、残念!
モノも人も、いつまでもそのまま存在してはおりませぬ。
**
絵画セクションも充実しているが、ひとつだけ紹介。
ゴッホを生前に評価したグラスゴーの画商アレキサンダー・リードの肖像画↓

1887年のパリに住み、ゴッホの弟のテオと知り合い、短期間モンマルトルのアパートにも同居した(と書かれた資料あり)。テオを通じて知り合った兄のゴッホに才能を感じてこの肖像(と全身像もあるらしい)を描かせた。

おもしろいのは、1928年まで描かれた人物はゴッホ自身=自画像だと思われていたこと。
アレキサンダー・リードの息子が偶然ゴッホのカタログでこの絵を見て「父に違いない」と確信し、ゴッホの遺族に連絡して、アレキサンダー・リードだと判明したのだった。
ゴッホの亡くなった翌年には弟のテオも死んでしまっていたので、事情を知る者はいなくなっていたのか…。

経済的繁栄の頂点にあったグラスゴーには、ちゃんと文化も理解する人物がいたのだ。

****
芝生では「ボーリング」に興じる年長者の方々↓

ピンを倒すタイプはあとからできたので「ピン・ボーリング」と別の呼び方をされる。

*****
グラスゴーで最後に訪れたのは、英語圏で四番目に古い創立とされるグラスゴー大学。
オックスフォード、ケンブリッジ、セント・アンドリューに続き1451年にスコットランド国王ジェームズ二世により創立↓正門↓

正門の柵には、創立王のジェームズ二世と妃の名前が一番下に↓

著名な卒業生の中でもアダム・スミスは別格だろう↓


グラスゴー、次は一泊して一日を見学に充てたい街であります(^.^)

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見所たくさんグラスゴー~ウィロー・ティールーム、ジョージ・スクエア

2017-08-24 13:01:52 | イギリス
フォート・ウィリアムから豪快な谷の景色で有名なグレンコーを通り、グラスゴーへ向かう

右に見えていた湖に見えたのは入江だった。スコットランドのシンボルアザミが美しい。大昔の戦争で、この花の棘が密かに忍び寄る侵略者の足を刺して声をあげさせ、寝ていたスコットランド側に気付かせてくれたという逸話による。

入江を離れ、だんだんと豪快なグレン(ゲール語で「谷」の意味」に入ってゆく。雲がかかっていることでよりダイナミックに見える↓ぽつんとある小さな白い家にはどんな人が暮らしているのだろう↓



雨が降っていると、固い岩盤をたくさんの水が筋をつくって流れ落ちてくる↓


谷を抜けると、細長い湖がはじまる。イギリス最大の面積のローモンド湖↓それでも最長の長さ39㎞しかない↓


何回か景色を楽しむストップをして、三時間ほどでグラスゴーの町に入った。産業革命以降急速に人口を増やして二十世紀はじめごろは120万人にもなる町だった。その当時「世界の工場」は中国ではなく、イギリスだったのだ。現在は半分の60万人ほどに減っているというが、スコットランドではエジンバラよりも大きな都市である。中心のジョージスクエア近くで下車し、歩行者用繁華街ブキャナンストリートへ↓

昼食を席だけ予約したのは、マッキントッシュがデザインした「ウィロー・ティールーム」。青い左右に挟まれた、地上階の白い小さな入口。

いちばん有名な店は1903年にソーキーホール(「柳の草地」の意味)にオープンした。なので、この名前になったのだ。実は同時期に四つのティールームが同じオーナーの元、マッキントッシュにデザインが依頼され、同じコンセプトでスタートしている。それらはしかし1917年には元の所有者の手を離れ、店としても半世紀以上前にクローズしていた。
現在は、新たな会社が、オリジナルのデザインを復元し、元の場所の出来るだけ近いところで開業したもの。このブキャナンストリートの店は、向かって左の隣ビルがオリジナルの場所だったそうな↑

地上階に面した小さな白い入口を入るとすぐに階段がある↓

それほど広いスペースではないが、日本式の二階と三階に効率的に席が配置されている↓

★午後から訪れたケルビングローブ博物館にあった展示とそっくりだ↓椅子の形も配置も、愛情感じられる復元(^.^)



さて、メニューを見て、それぞれに好きなものを注文しよう(^.^)

テーブルのナプキン↓

きのう、海辺の町マレイグで出会った●キュレン・スキンクがあったので、こちらで試してみる方も↓

※この料理についてはこちらに書きました

●「SCOTTISH RAREBIT スコティッシュ・レアビット」とは、なんぞや?
昨年ウェールズの旅をした時に、ウェーリッシュ・レアビットというのがあったが、それと同じ?↓

貧しかった人々はウサギの肉のかわりにチーズをパンにのせて焼いて食べていたというのが語源とか…

●小エビのオープンサンド↓これは予想通り


もちろんアフタヌーン・ティーでも、充分昼食の代わりになります。
***
食事の後、グラスゴーの中心部を少し歩く。
活気ある商店街にはこんなディスプレーも↓これは?

これは、グラスゴーのかつての記憶を表しているように見えた。産業革命の最初期にこの町の主要工場は繊維と衣料産業だったのだ。

ギリシャ神殿風な建物が、今は「GoMA」⇒ あ、モダン・アート・オブ・グラスゴーなんですね

入口の前に立つウェリントン将軍の騎馬像なのだが・・・↓

スコットランドの象徴ユニコーンになっております(笑)

さきほど通ったジョージ・スクエアにやってきた↓
国王ジョージ三世にちなんで名づけられたこの場所は18世紀後半に、それまでの中心だったグラスゴー・クロスに代わる新しい計画都市の中心として搭乗した。
右手に見えるのは豪華な市庁舎。こちらは1883年に建設がスタートしたもの。
広場にはグラスゴーの著名人の像がある。産業革命の父ワットは1736年にグラスゴー近郊の港町で船大工の子として生まれ、グラスゴー大学に研究室を持った。日本なら平賀源内より八歳年下なだけ↓


広場の向こうに、ひときわ目立つピンクの看板が掲げられたビルが・・・これって、景観破壊してますよね↓「ヨーロッパが古い町並みをずっと大切にしてきた」と思い込んでいる人は多いが、実際はそうではない。産業革命がはじまると破壊がはじまり、19世紀にはパリなどの新しい街を生み出す大破壊へと発展し、20世紀後半には景観を気にしない現代ビルもばんばん建てられていたのであります↓

「あれは景観をあまり気にしなかった時に建設された大学の建物なんです。新し校舎ができたので、近くとりこわされるとおもいますよ」と、ガイドさん。新しくできた校舎の前をとおりかかった↓


市庁舎の正面に置かれた巨大な白い記念碑は、第一次と第二次大戦の慰霊碑。イギリスは何百年にもわたり、世界で戦争をし続けている↓


市庁舎のロビーにはいると、高価な大理石をふんだんにつかったロビーとその向こうに吹き抜けが見えてくる↓

床には★グラスゴー市の紋章
※この紋章の意味について、こちらに書きました

公共の建物にこれだけの予算をかけて高価な材料をつかえたグラスゴーの繁栄を感じさせてくれる。一角に、さっき訪れた「ウィローティールーム」に置かれていたオリジナルの「ハイバックチェア」が展示してあった↓


建物の後ろにもう一つ同じような建物があって渡り廊下で連結してある↓

電話などない時代、メッセージをすばやく伝えられるボーイが、この渡り廊下を走ったのだそうな。

・・・次はグラスゴー大聖堂とケルビングローブ博物館を訪れよう・・・

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