旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

地震の後、バロックの街へ②モディカ

2015-09-18 13:23:13 | イタリア

モディカもまた、古代からの歴史が斜面にうずたかく積みあがった街だ。

その中にバロックの教会がたちあがっているのが見えるだろうか⇒カオスの中にシンメトリーのバロック建築がその存在感を発揮している。教会は1738年完成だが、下の街にあるガリアルディ通りから教会入口へ導く二百五十段の階段は1818年に完成

 

建物に近づいて見上げる 地元自治体のホームページによると、中世初期から教会があったが、西暦845年にアラブ人によって壊され、12世紀にやってきたノルマン人のロジェール王の時代に再建された。1613年の地震で壊れたものを補修したが、1693年にさらに大きな地震が襲って倒壊。 再建に、すでにラグーサでサン・ジョルジョ教会を手掛けていたシラクーサから呼ばれた建築家ロザリオ・ガリアルディに依頼され、名前は同じサン・ジョルジョでかたちもよく似た教会が建設された、というわけである。※①ラグーサの日記を参照 

午後のお休みに入る少し前、ひっそりした教会の中。主祭壇は二つの地震の前1573年にベルナルディーノ・ニジェールによって描かれた板絵のパネル祭壇画。この手のものとしてはシチリア最大なのだそうだ⇒ 

シチリア島メッシーナ出身で、後年バロック建築の大家となったフィリップ・ユバラは、若い時にここで色大理石祭壇を制作していたと教えてもらった。そのひとつがこちら

後年彼が北イタリアのトリノで代表作となる仕事をしているが、そこでは南のようには色大理石が手に入なかったので、かわりに彩色で疑似大理石をつかっているのだそうだ。

トリノへ行く機会に探してみようと思います。 

モディカのある丘は、かつてイアンニとマウロという二つの川の合流地点だった。なんども氾濫する川は治水され蓋をされて、今は「下の街」として街の一部になっている。そこからさっきの丘の上の街を見上げるとこんな風にみえる

 

元は川だったと言われると、道が傾斜していることでその名残が感じられる。そのまま「下流」へあるいていくと、下の街の中心教会サン・ピエトロの前に出た内部は、先ほどの上の教会と雰囲気が似ている同じ時期にたくさん建設されたバロック教会というのは、どうしても似た雰囲気になってしまうらしい。

***

そろそろお昼時、元の川に沿ったところにあるオステリアを勧めてもらって入る。この店の名前、日本語に訳すと「失われゆく時の味」とでもなるそうな。昔ながらの田舎料理を出す店なのである。九月半ば過ぎとはいえシチリア、天気の良い今日は昼間屋外日向は誰も座れない。中に入ると賑わっておりました「この店のメニューは写真付きでわかりやすいですよ」そう聞いて、はじめはとんでもなくツーリスティックなだけの店かと心配したが、まったくそんなことはなかった。こんな風に使っている材料の写真から調理法まで分かりやすく解説してくれている小松がいちいち写真を撮っていたら、おやじさんが「一冊あげるから」と、新しいのをプレゼントしてくれました(^^)/日本で似たようなものを再現できるかしらん。上の写真を注文して出てきたのがこちら⇒ 前菜もりあわせがこちら⇒ そして、いちばん印象的においしかったのが、このトリッパ(内臓・胃袋)料理だった⇒トリッパは多くの店でトマト味に煮込んでしまうが、ここでは玉ねぎをはじめとした野菜で煮込み、きつすぎないスパイスで仕上げてある。これ、また食べたい味です。

パンもぎゅっと生地がつまったこの地のものなんだそうな

***

この近くの地元チョコレートも紹介していただいた⇒ もともと南米でカカオをすりつぶした医薬飲料としてスタートしたからか、この歴史あるチョコレート屋さんは入ると薬局みたいな雰囲気もある40℃程度でゆっくりかき混ぜるのでざらっとした食感がある。試食になかったけれど、めずらしいと思って買ったのは、このカラスミ風味と海苔風味の二つのミニチョコセット。これで2ユーロ30セントでした。

おいしくお昼をいただいて、今日三つめの街③ノートへ移動・・・

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地震の後、バロックの街へ①ラグーサ

2015-09-18 11:33:21 | イタリア

シチリア島、東岸の古都シラクーサから日帰りで三つの小都市をめぐる一日。 どこも斜面につくられた歴史ある街。

どこも1693年の大地震の後、バロック建築で再整備された事で世界遺産指定された。

●ラグーサがちかづいてくる。斜面なので、こんな橋が町への入口になる ラグーサは二つの地区にわけられる。最初に車を降りた ラグーサ・スペリオールは区画整理されている。

 1693年1月の地震のあと、新興貴族たちは新しい街を築くと決めた。

羊を連れて地震で倒壊した街を出て、野営をした翌朝、放した羊がなかなかつかまらない。

これを「ここに街を築け」という神のご意志と受け取り、建設されたのがラグーサ・スペリオールの街。中心にそびえる大聖堂羊の逸話にちなんで、洗礼者ヨハネ(イタリア語ではジョヴァンニ)を守護聖人とした。教会の入口にそのヨハネの像 大聖堂の内部、真っ黒な石はピエトラ・ペーチェという天然アスファルトに似たものだそうな。※調べてみると古代から使われているラグーサの石油を含んだ特産の石で、1838年にスイス人の手によって工場が建設されて産業のひとつになっている…と自治体の広報ページに書かれていた。 坂の斜面にまっすぐな道が通されて、いかにも計画都市の道路 ラグーサ・スペリオールの街の急な坂をくだってゆくと、突然視界がひらけた。 対岸の丘を埋め尽くしているのが、十七世紀の地震以前からのラグーサ・イブラ。

二つのラグーサを地図で確認。地図上左がラグーサ・スペリオール。市域が狭くなった所から右側がラグーサ・イブラ  地図と下の遠景写真を見比べると、両ラグーサの位置関係井と地形を知る事が出来る。こういう事は実際に目にして歩いてみなくては理解できないのです。

上の写真左側から下る斜面を、車の道ではなく、昔からの階段を降りてゆく途中に「階段の聖母」教会がある。 入口をよく見ると、地震前のゴシック様式のアーチが一部残されている。写真手前に映った折れたゴシックのアーチ⇒

今日は結婚式があるようで、珍しく内部を見ることが出来た 彫刻にロマネスク的な雰囲気が感じられる。おもしろいお猿⇒ こちらはタカとケルビムだろう、なんだか妖怪みたい⇒ 地震の後、使えるものはつかって再建したのがよくわかる。

さらに降りてゆくと、バロックで再建されたお屋敷が点在している

坂を降りきると、古い街への登り坂広場の正面にバロックのファサードが美しくたちあがってきた。 1693年の大地震の後、街の再建に尽力したシラクーサの建築家ロザリオ・ガリアルディが手掛けた。鐘楼とファサードと一体化した当時斬新なスタイルでの再建。広場から正面ではなく、わざと斜めに建てられている。それによって、クーポラも見てほしい、ということであります。※教会は1739年の設計、クーポラは1820年の完成。ガリアルディは現在のクーポラの完成を見ておりませんね。

 こちらも同じくガリアルディの手になるヨセフ教会内部はなんと楕円形 聖ジョルジョ大聖堂の内部 お祭りで外に担ぎ出される山車の聖ジョルジョと、象徴的にその棺 パラッツォ・ラ・ロッカもバロックの彫刻がおもしろい。それぞれの彫刻で上の階がどんな部屋だったのかを表したのだそうだ。たとえば、楽器を演奏していればサロンがあった、とか 同じ建物に、ミシュランの星をもらっているレストランがはいっていた ****

②モディカへ続く

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地震の後、バロックの町へ③ノート 夜はシラクーサで海鮮料理を

2015-09-18 01:38:36 | イタリア

これまでの二つと違い、1693年の地震の後にノートは倒壊した町を完全に放棄した。現在見られるノートの町は、十キロほど離れた場所に一から建設されたのである。

入口にある「王の門」からまっすぐ伸びるのがメインストリートこの門は両シチリア王(ナポリとシチリアの両王国の王という意味)フェルディナンド三世がやってきたのを記念して建設されたそうだ。彼はナポレオン戦争の時代に二度もナポリを追われている。やってきたのは1799年の時か1806年の時か?はたまたその後ナポレオン戦争が終わってからだったのか?

この門から道は大聖堂へ向けてゆっくり上りになってゆく。理由は「王の門」を造ったとき(つまり18世紀末から19世紀はじめ)に、街を拡張する目的でメインストリートの地面を掘り下げたから。 結果、通りに面した教会の入口が歩く人の頭より上に残されてしまっているのがおもしろい通り全体から同じ場所を見るとこんな風→この教会の斜め前に位置するフランチェスコ教会も、大階段の下三分の一はこの拡張時の掘り下げに伴い付け加えられた部分→ さらに五十メートルほど行くと右手に大聖堂→ その正面には市庁舎→ ここまでくればメインストリートは平たんになった。もともと建設された当時の高さに至ったのである。

メインストリートを境に、上の方には貴族や宗教界の上位者が住んだ。なるほど、住宅の一区画が下の町よりもずっと大きい。

ニコラッチ宮殿にはつい最近まで御当主がお住まいになっていたのだそうだ。次の写真、バロックのおもしろい張り出し窓が並んだ建物がそれこの通りは彼ら一族の名前をとってニコラッチ通り  この通り、次の写真のように一年に一度花を敷き詰める祭り「インフィオラータ」(五月の第三日曜)が行われている→昼間だと花が萎れてしまうので夜の間に花を並べるのだとか。下書きの跡が残されていた→

**ニコラッチ通りの上突き当りにあるモンテヴァルジニ教会に入ると、すぐ左におもしろい螺旋階段があった→番をしている女性に二ユーロ払って上ると・・・ずいぶん荒れている。こりゃあつい最近まで閉まっていたな上に行くつれて細くなり・・・最後はここから塔の上に出た

整然と区画されたノートの町の様子が俯瞰できる。登れるところは上っておくべし、ですね(^^)

前出の祭りで花を敷き詰める通りを上から見下ろすと、あれはダリ?

再び狭い階段を下りる途中、かつて修道士が礼拝に参加した場所を通る。そこから見下ろす教会本堂。降りてから中に入ってみると、今も活動している騎士団の旗がいくつも掲げられていたいちばん正面右には、この町の守護聖人サン・コッラードの騎士団の緑色。北イタリア生まれのこの聖人は、地震で倒壊する前の古いノートの町で1351に亡くなり大聖堂に葬られていたが、現在は新しいノートの町に改葬されている。

**

シラクーサに戻り、夕食はオルティージャ島から湾をはさんだ本土側にある海鮮レストランへご案内いただいた。まずは水槽からこのロブスターを

ここで養殖されているという牡蠣は予想外の(失礼)立派なもの シラスを揚げてレモンをしぼって ファゾラーレと呼ばれるこぶりなハマグリのような貝 そして、先ほどのロブスターをつかったパスタと、ウニのパスタも 新鮮な食材をおいしくいただきました。

 

 

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