旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

はじめての会津

2015-09-06 14:20:55 | 国内
1986-7年に国内ツアーの添乗を数えきれないくらいやったのに、会津は訪れたことがなかった。

会津若松への交通を調べていて、いちばん便利なのは高速バスだと判断。朝七時半に南新宿・代々木を出発し、正午を少し回った頃には到着白虎隊の像が迎えてくれる。

午後の半日で見られる場所は限られている。定番だが鶴ヶ城と飯盛山をめぐる事にして、周遊バスの券を購入三十分に一台まわってくる。

鶴ヶ城まで直行しようと思っていたが、途中で野口英世が若いころを過ごした地域=七日町あたりがおもしろそうだったので途中下車。会津若松市役所は昭和十二年(1937年)建造
そこからは歩いてお城を目指す。正面に見えてきた城は思ったより小さいしかし、近づくと堅固な城壁と堀に守られた美しい城であることがかんじられてくる戊辰戦争の砲撃にも崩落せず耐え抜いたが、松平家が転封して廃墟になって明治四年には取り壊された。再建されて今年でちょうど五十年だそうだ。最近、瓦がオリジナルの赤瓦に葺き替えられ、戊辰戦争当時の色あいになったとのこと。
入口はこんなこれ、オリジナルの雰囲気なのだろうか?
内部にはいってみると、そこはもうお城という雰囲気ではない。特に一階二階の展示エリアは普通の博物館である。上層階から、赤瓦の向こうに周囲をぐるりとみわたせる
展示物はなかなか興味深く、価値ある訪問だった。
新島八重の像も、もちろんある

再び循環バスに乗って、飯盛山へ。
正面の石段をのぼれば白虎隊士の墓へ着く
階段を上りきった場所は神社の境内のようにひろくなっている。最初に目に入ったのが、この場に似合わない石柱の記念碑。

その隣にはドイツの一個人の設置した顕彰碑。
この二つについて⇒こちらに書きました。
左手には白虎隊士の墓
自刃した彼らの遺体は、西軍(薩長の新政府軍の事を会津ではそう呼ぶ)によって、埋葬を禁じられたそうだ。
三か月も骸(むくろ)を晒し続けた後、やっと近隣の人によって近くの妙国寺に仮埋葬された。ここに墓がつくられたのは明治二十三年になってからのこと。

墓から、かれらが自刃した場所までは三十メートルほど歩く。その途中に、ただひとり蘇生した飯沼貞雄翁の分骨された墓があった彼も自分の喉を突いたのだが、瀕死の状態のところを近隣の農民に助けられ、蘇生した。彼が生きかえったからこそ、現代に白虎隊の悲劇が伝えられたのである。それでも、生き残った事を彼自身も・周辺の人たちも、一種の「恥」ととらえていたのは、日本的だと言えるかもしれない。

この階段の下が、自刃の地。周辺は墓地になっていた「忠君愛国」が絶対の美徳とされた時代、彼らにあやかって、そこに墓所を持とうとする人々も多かったのか。

境内に戻ると、団体さんがやってきていて、彼らに向けて、白虎隊士の踊りが行われていた

バス停へ降りていく途中に、猪苗代湖から流れてくる水路の出口がある実は、戦いに敗れた白虎隊はこの隧道をくぐって飯盛山にたどり着いたのだった。西軍は市内への水の供給を止めていたので、当時この隧道には水が流れていなかったのである。

****
白虎隊士を祀ったお堂その前に、なんとも奇妙な塔がある。

なるほど「さざえ堂」とな

これについては⇒こちらに書きました。

本日は、ワシントンホテル泊。到着したときにはぽつりぽつりだった雨は本降りになっている
コメント
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