【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

「トップドッグ/アンダードッグ」(シス・カンパニー公演;作スーザン=ロリ・パークス)

2012-12-12 23:59:00 | 演劇/バレエ/ミュージカル

            

 三軒茶屋にある「シアタートラム」で「トップドッグ/アンダードッグ」(シス・カンパニー公演;作スーザン=ロリ・パークス[翻訳・演出小川絵梨子])が公演中である。見逃せない。(トップドッグ、アンダードッグは「勝者」「敗者」と言った意味合い)


 二人芝居。堤真一さんと千葉哲也さんが出演している。

 ボロ屋アパートの一室にシェアする二人の兄弟。アフリカ系のアメリカ人である。名前はなんとリンカーンとブース。黒人解放で有名なリンカーンと彼をピストルで暗殺したブース。親が半分冗談でつけた名前のようだ。その両親ともいまはいない。二人は幼いころに捨てられたも同然で、離別した。二人は苦しい中、助け合って生き抜いてきた。

 ブースに稼ぎはなかく、あちこちで窃盗を働いている様子。結構いいものを身につけているが、盗んできたものばかりだ。兄のリンカーンは、遊園地で暗殺されたリンカーン大統領のものまねで稼いでいる。リンカーンはかつてはトランプの賭博のディーラーで稼いでいたが、いかがわしいその世界から足を洗った。いまの仕事はいいとはいえないが、まじめに生活しようとしている。

 ブースは兄のトランプ賭博の凄腕ぶりを知っていて、それに憧れ、練習し、その道でひと儲けしようとして企んでいるが、兄ほどの才覚もなく、根気もなく、その日ぐらしで、恋人との甘い生活を無邪気に夢想している。

 舞台はこのふたりの過去と現在、そして二人の信頼と確執。最後に決定的な破たんが・・・。

 アメリカの演劇らしく、兄弟のやりとりのなかに、この国が孕んできたいろいろな問題をとりこみ、この国がどのような国だったのか、そこに住む人々はいかに生きようとしたのかが見えてくる。しっかりした構成劇で、堤さんと千葉さんはその世界をうまく見せてくれた。

 


森光子『人生はロングラン-私の履歴書-』日本経済新聞社、2009年

2012-12-10 23:51:17 | 演劇/バレエ/ミュージカル

              

   表題にある「ロングラン」は彼女の女優人生そのものを讃えたものだろうが、あわせて彼女がその主役を務めた「放浪記」(林芙美子)が2000回を超え、文字通りロングランを続けたことへの賞賛があるのだろう。ロングラン、長く続けることには価値があるのだ。


   本書は森光子さんが自身の人生を語ったもの。日本経済新聞の「私の履歴書」(2007年12月1日~31日)に書ききれなかったことを補足してなった書。

   その森光子は大正9年に京都の割烹旅館「國の家」で生まれ、15歳で従兄弟の嵐寛寿郎のつてで嵐寛寿郎プロに入り映画デビュー。多くの少女役をこなした。20歳を過ぎ、歌手をめざして東京へ。しかし、時代は軍靴の不吉な足音が。外地の慰問活動へ、朝鮮半島、シンガポール、ボルネオ、セレベス、チモールなどを巡回。本土に戻るも、東京は焦土と化し、京都に帰郷。

   昭和27年にNHK大阪のラジオ番組「エンタツの迷探偵」に出演、芸能界復帰を果たす。以来、順調に(とはいえ結婚生活は必ずしもうまくいかなかった。また、かなり深刻な病気も患った)女優の道を続けた。名脚本家で演出家の菊田一夫の眼にとまったのが大きかった。

   「放浪記」といえば森光子、森光子といえば「放浪記」であるが、有名な「でんぐり返し」を演じた経緯、もともと5時間ぐらいあったこの舞台を3時間ほどに台本を圧縮したさいの三木のり平の才覚、など興味深いエピソードが織り込まれている。珍しい写真も多数。


深大寺散策

2012-12-09 22:11:44 | 旅行/温泉

        

 高尾山のあとに、高幡不動尊金剛寺、そして深大寺へ。ここの紅葉もよかった。深大寺はおそばで有名。仲見世にはお団子屋さん、饅頭屋さんもあれば、花を売っているお店もあり、いろいろだが、蕎麦屋さんも目立つ。


  ここの蕎麦が有名になったのは、このあたりの土地が米の生産に向かず小作人がそばを作り深大寺にそば粉を献上したのを、寺側はそれをそばとして打ち、みなにふるまったのが始まりらしい。享保の改革の折りには、地味の悪い土地でも育つそばが深大寺周辺で奨励された。

 蕎麦は一般庶民とにはなじみのない食べ物だった、江戸時代後期には文化人太田蜀山人が巡視中、深大寺の蕎麦を食し、それを宣伝すると、知名度は上がり、文人や墨客にも愛されるようになった、という。また「江戸名所図会」に深大寺そばが記載され、知名度が上がっていった。

 「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)を旅した中国の僧、玄奘三蔵を守護した神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来する、といわれる。 創建は天平5年(733年)、満功上人が法相御宗の寺院として建立し。後に(859年)、天台宗に改宗。
 1646年と1865年に二度、火災に遭い、堂宇の大半が失なわれた。現在の本堂は大正年間の再建である。

          


蓮池薫『拉致と決断』新潮社、2012年

2012-12-07 10:41:57 | ノンフィクション/ルポルタージュ

         

   著者は大学3年生だった1978年に北朝鮮に拉致され、24年間をそこで過ごした。拉致された当初は指導員、幹部の顔さえ見れば、日本への帰国を訴えていたものの、徐々にこのまま日本には帰れないのではないかという諦念が支配し始め、北朝鮮が拉致問題の存在を認めたときでも、まさか日本に帰れるとは思っていまかったようである。が、2002年に子どもをおいて帰国。すぐに北朝鮮に戻る道もあったが、日本残ることを決断、子どもが著者のもとに戻ってきたのは1年8カ月後であった。日本に帰国して8年半。


   著者はこの本で迫られた決断にいたる心理、葛藤を吐露し、拉致被害者としての招待所での生活と思い、平壌市内で目撃した市民、旅先での人々の生活をあますところなく描いている。北朝鮮の市民の生活をとりあげたわけを著者は次のように書いている、「北朝鮮社会の描写なくしては、私たちの置かれた立場をリアルに描けないという理由とともに、決して楽に暮らしているとは言えないかの地の民衆について、日本の多くの人たちに知ってほしいという気持ちもあった。彼らは私たちの敵でもなく、憎悪の対象でもない。問題は拉致を指令し、それを実行した人たちにある。それをしっかり区別することは、今後の拉致問題解決や日朝関係にも必要なことと考える」と(p.3)。

   拉致された著者は在日朝鮮人の帰国と周囲にまた子どもたちにも説明していたとのこと、それを貫き通したとある。仕事は主として翻訳業、北朝鮮の民衆の生活と比べるとややよい生活が保障されていたものの、自由は全くなく、日々の生活と行動は監視され、油断すると密告されかねない状況であったとのこと。

   金日成、金正日、そして党が絶対的存在で、市民はいつでもアメリカ、韓国、日本との戦争がおこるかもしれないという環境のもとにあるようである。逃亡を考えたことも数度、しかし常に子どものことを最優先に考えて行動していたことが痛いようにわかる。その北朝鮮も、国内の状況は少しづつ変化しているようである。著者の願いはただひとつ、一日も早い拉致問題の解決、北朝鮮に残されている拉致被害者の帰国である。


高幡不動尊金剛寺散策

2012-12-06 20:48:29 | 旅行/温泉

    

 昨日のブログで高尾山を紹介したが、ここへ行ったおりに山頂に登らなかったのは、この同じ  日に高幡不動尊金剛寺と深大寺で、やはり紅葉を観る予定だったからである。時間の関係であった。


 高幡不動尊金剛寺には京王線の「高幡不動」で降りて、向かう。日野市にある。真言宗智山派別格本山、高幡山王院は関東三不動のひとつで、地元では「高幡不動尊」と親しまれている。

 創建は大宝年間(701年)以前ともいわれる。今から1100年も前、平安時代初期に慈覺大師円仁が清和天皇の勅願によってこの地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建て、不動明を安置したことに始まる。

 のちに建武2年8月に台風で堂宇が倒壊し、安永8年には業火で大日堂、大師堂が焼失した。しかし、そのたびに、再建され、現在では往時をしのぐ寺観を呈している。

 仁王門から入ると、境内には大日堂、五重塔が配置されている。他に奥殿、不動堂、聖天堂など。この五重塔の背後の紅葉が素晴らしかった。樹齢100-300年のものが約350株、20年未満のものが1000株ほどあるという。東京にもこのような立派なお寺があるのかと、びっくり。

 ここはまた新撰組の副隊長であった土方歳三の菩提寺で、像がある。

              


高尾山散策

2012-12-05 00:23:38 | 旅行/温泉

       

 高尾山に行く。目的は以前から、気軽に登山できる山として知られているここを訪れたかったこと、また今、紅葉の時期で見どころが多いのではないかということで「紅葉狩」をしたかったことである。

 年間約260万人の登山者がいて、ギネスブックにも世界で一番登山者の多い山として登録されているという話を聞いたことがある。


 快晴の日和。しかし、気温は低い。7-8度くらいだった。今回は山登りはやめた。ケーブルカーで中腹まであがり、そのあたりで散策。下山はリフトを使って降りてきた。標高は599メートルで、それほど高い山ではないが、結構、きつそうである。様子を見るということでケーブルカーの利用となった。140人ほどが乗車できるケーブルカーで、7-8分も乗ると、中腹に到着する。

 ここに薬王院がある。かなり大きいお寺で、山のなかほどによくこのようなお寺を建立したものだ。ケーブルカーの終点から男坂あるいは女坂を歩くとここい着く。「御朱印」をいただく。途中に植物園、猿園がある。お店もかなりある。団子、茸汁、いろいろなものが販売されている。大変なにぎわいだ。「銀座」を歩いているよう。健康志向で、老若男女が闊歩したり、杖をつきながら歩んでいたり、みなそれぞれの流儀で愉しんでいた。頂上まで、15分との標識があったが、今回はここまでとする。また、必ずいつか来ると誓って。

 高尾山は、東京近郊の行楽地としてつとに有名であるが、元来は修験道の霊場であった。現在は上記のように薬王院(真言宗智山派)の寺域となっている。天然の森林が素晴らしい。かつて中世の頃に八王子城主だった北条氏照による「本山の竹木の伐採を禁じる」という制札が薬王院に残されているそうで、江戸時代には幕府直轄領となり八王子代官・大久保長安が山林保護政策をとり、その書状が同じく薬王院に残されているという。

 紅葉は丁度よいぐらいだった。真っ赤なもの、黄葉、ながめがいい。絶景である。遠くにかすむようにスカイツリーも見える、。東京タワーも。見晴らしは抜群だ。

 帰路はリフトで。怖いも怖くないも考える暇もなく、乗ってしまった。しかし、慣れないとかなり怖い。細い座席に一人乗り。下を見るとかなりの高度、傾斜は急峻で、長い。約12分ほど乗っている。しかし、ここでしか見ることのできない、紅葉を楽しめた。


バレエ≪春の祭典≫(Le Sacre du Printemps);バレエ≪ペトリューシカ≫( Petrouchka) Stravinsky

2012-12-04 00:01:53 | 音楽/CDの紹介

         

 ストラビンスキー(1882-1971)は、3つのバレエ音楽を作曲してる。「火の鳥」「ペトリューシカ」「春の祭典」。「春の祭典」は、このうち最後に書かれたもので、前2曲同様、ロシア・バレエ団のセルゲイ・ディアギレフの委嘱による。


 「春の祭典」には、異教徒の祭典の情景が描かれている。輪になって座った賢者たちを前に、春の神の心を和らげるために選ばれた若い乙女が死ぬまで踊り続ける。1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場で初演されたが、大スキャンダルで迎えられた。
 しかし、翌年に演奏会形式で再演されてからは、センセーションを巻き起こしながら聴衆の心をとらえ、相次いで各地で演奏されるようになっていったという。

 「ペトリューシカ」は、1910年にピアノとオーケストラのための一種の協奏曲として着想されたが、ディアギレフの所望によってバレエ音楽に仕上がられた。1911年5月に完成。しかし、ストラビンスキーは1946-47年にかけて大幅な改定を加えた。このCDには、その改訂版が収められている。

 物語の舞台は1830年頃。ニコライ一世の統治下のペテルブルク。主人公の名前はペーターの愛称ペトリューシカ。ペトリューシカは人形のバレリーナに恋するが、ムーア人との奪い合いに敗れ、殺されてしまう。ストラビンスキーはロシア農民に多いこの名前を使って、みじめな人形に農民の姿を重ねあわせたのかもしれない。

バレエ≪春の祭典≫ Le Sacre du Printemps(Revised Version:1947)
第Ⅰ部(大地礼讃)
①導入
②春の兆し
③誘惑の遊戯
④春のロンド
⑤敵対する部族の遊戯
⑥賢者の行進
⑦大地へのくちづけ
⑧大地の踊り

第Ⅱ部(生贄)
①導入
②乙女達の神秘な集い
③選ばれた乙女への賛美
④祖先の呼び出し
⑤祖先の儀式
⑥生贄の踊り(選ばれた乙女)

バレエ≪ペトリューシカ≫  Petrouchka (Original Version 1911)
第Ⅰ場
①謝肉祭の市場
②手品
③ロシアの踊り

第Ⅱ場
①ペトリューシカの部屋

第Ⅲ部
①ムーア人の部屋
②バレリーナの踊り
③ワルツ(ムーア人とバレリーナの)

第Ⅲ部
①謝肉祭の市場(夕方)
②御者と馬丁の踊り
③変装社者たち

 指揮者はエリアフ・インバル。1936年にエルサレムに生まれたイスラエルの指揮者。演奏はイギリスのフィルハーモニア管弦楽団。


岩田規久男『日本銀行 デフレの番人』日本経済新聞社、2012年

2012-12-03 00:23:21 | 経済/経営

          
   日本経済は財政赤字とデフレという深刻な事態に直面している。その期間は14年間とかなりの長期にわたっている。政府と日銀が果たさなければならない役割は大きい。しかし、日銀の金融政策は一向に奏功しない。本書はその日銀金融論を徹底的に批判した内容となっている。


   2012年2月14日、日銀は「中長期的な物価安定の目途(消費者物価の前年比上昇率が2%以下のプラスと考え、当面は1%を目途とする声明)」を、追加緩和政策(資産買入額を10棟兆円増加)とともに発表、その後白川総裁は「1%達成の決意」を明確化した。この3点セットは、大きな円安と株価効果をもたらし、はしなくも「デフレの日銀理論」と「金融政策の日銀理論」の誤りを実証することになった。第一章は、この点をデータの提示で明らかにしている。

   第二章では、新日銀法施行以降の物価安定政策の成績が、日銀自身が設定した「中長期的な物価安定の目途」を基準に評価すると24%でしかないことが示され、そうなった理由は日銀の「デフレの日銀理論」と(第三章)、「流動性の日銀理論」に代表される「金融政策の日銀理論」(第四章)に依拠して金融政策が展開されたからと論じられる。

   それではデフレ脱却のためには、どうすればよいのか。著者は、それを世界標準の金融政策にもとめる。具体的には、日銀法を改正して政府が物価安定目標を決定し、日銀がその目標を中期的に達成することを義務付けること、と言う。インフレ目標政策を導入し、日銀が大量に長期国債を購入し、マネタリー・べースの供給増加させるならば、予想インフレ率が上昇、そのことによって円安と株価の上昇、予想実質金利低下によって設備投資の増加がはかられ、実質国内総生産の増加と雇用の増加、すなわちデフレ脱却の方向へ舵をきることができるというわけである。

   著者はこの壮大な社会実験を、「最適金融政策」と呼び、そのためには国民にこの内容を丁寧に説明しななければならないとし、その手順を示している(p.228-9)。

   問題提起は鋭いが、はたしてこれでうまくいくのだろうか。議論をうらずけるための統計的実証といっても、その中身をみると諸変数の相関分析が主なので(日本経済の実態分析が弱い)、これだけではもろ手をあげて賛成してよいものか、一抹の懸念が残る。継続した議論が必要であろう。