【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

百目鬼恭一郎『現代の作家101人』新潮社、1975年

2012-11-30 22:50:53 | 文学

  1975年時点で現在進行形で執筆活動をしていた日本を代表する作家の評価。切り口は基本的に辛口で、手厳しいが、小説作法(文章、構成)がうまい作家は高くかっている。通俗小説に流れた作家への評価は概して辛辣。

  評価のよい作家はたとえば、福永武彦、村上元三、永井龍男、立原正秋など。「文章のたしかな表現力といい、構成の精巧さといい、およそ小説のうまさにかけては、福永の右に出る作家はそうざらにいないのではあるまいか。おまけに、福永の作品には、最近とみに希少価値となった、芸術的香気がただよっているのである」(p.165)。「村上の小説の作りかたは実にうまい。・・・また、プロっトの展開のしかたも、心にくいほどうまい」(p.199)。「永井の特質としてよくあげられるのは、ことばの選択に潔癖なこと、描写や会話が的確でムダのないこと、構成が巧みであること、などである。これだけでも『短編の名手』といわれる資格は十分なのに、永井は、他の作家にみられないもうひとつの特質をもっている。それは、彼が極端なくらい筆を省くということである」(p.144)。

  逆に、井上靖、加賀乙彦、渡辺淳一、三浦綾子、藤本義一、永井路子、梶山季之の評価はかなり厳しい。たとえば、井上靖については「井上の歴史小説は奇妙なほど静止していて、歴史の流れを感じさせない。・・・登場人物の型もつねにおなじ」(pp.41-2)、加賀乙彦については「軍国主義を屈服させるだけの強力な思想を、まだ作者自身が見出せ(ていない)。・・・この人は、もう少し小説作法を勉強する必要があるようだし、また、この人間不信のエリート意識を、もう少し捨ててもらいたいものだ」(p.66)、渡辺淳一については「題材は優れていながら、作品そのものは底の浅い感じを免れていない」(p.216)、三浦綾子については「(欠点のひとつは)、文章に味のないことだろう。・・・真実を吐露しさえすれば芸術になると素朴に信じている」、永井路子について「(彼女の)作品に不満が感ぜられるのは、一にかかって文学的な感銘の欠如のせいではあるまいか」(p.190)、といった具合である。

  文章のうまさでは倉橋由美子(「文章が明晰で確かな表現力をもっている」[p.76])、佐多稲子(「事物を自分の確かな感受性を通うして描いている」[p.93])、阿川弘之(文体に気品があってむだがない、構成がきちっとしている、作風が率直で、ひねくれた影がなく、明るいユーモアがただよっている」[p.17])が褒められている。

  作家のモチーフを一言で言いあてるのがうまい。「良俗のワクの中で聡明に生きよ」(p.117)をモチーフとした曽野綾子、「一度だけ女として生きてみたい」をテーマとした大原富枝(p.58)、その文学的素地は江戸町人文学の荒唐無稽で残虐な美の世界である円地文子など(p.47)。

  作家の生い立ち、人生と作品との関連に着目しているのは当然であるが、それが具体的に示されているので、納得できる部分が多かった。たとえば、真面目な文学とふざけた文学をかき分けた遠藤周作の背景にあるのはマザーコンプレックスの裏返し、生まれも育ちも浅草の池波正太郎作品が江戸の町人気質をにじませていること、社会の裏通りを歩いた梶山季之の作品にみられる疎外された人間の悲壮感、など。

  本書の著者は一体どういう人物なのだろうか。小説をしっかり読んでいるのは確かであり、支持するかどうかは別としてその批評の視点はぶれていない。


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