【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

葉室麟『無双の花』文藝春秋、2012年

2013-03-22 00:00:44 | 文学

             

   江戸時代、筑後柳川領主、立花宗茂の生涯。宗茂は豊後の守護大名大友宗麟の家臣で筑前宝満城を預かっていた高橋紹運の嫡子。筑前立花城の戸次(立花)道雪は宗茂を養嗣子とし、娘である千代(ぎんちよ)の婿としました。


   宗茂は島津の脅威をもちこたえ、武名を九州に轟かせます。秀吉の寵愛を受け、柳川13万2千石を拝領。独立した大名に取り立てられ、「西国無双」と評価されます。その後も、秀吉の「唐入り」で武勲をあげ、秀吉のおぼえめでたい存在となります。

   関ヶ原の戦いでは、秀吉に対する義を重んじ西軍に加担、戦後、改易の憂き目にあい、以後、少数の腹心とともに牢人の身に。

   妻の千代死後、家康に接近。徐々に信頼を得て、幕府の御書院大番頭(将軍の親衛隊長)として5000石を給され、さらに嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられ、奥州の南郷に1万石を与えられて大名として復帰。その後、元和6年、幕府から旧領の筑後柳川10万9200石を与えられ、旧領に復帰を果たしました。

   不仲が伝えられた正室千代、側室八千子との心のふれあい、由布雪下、十時摂津、掘勘解由など家臣との信頼の絆、敵方ながら互いに認め合う真田信繁(幸村)との友情など、読んでいて印象に残ります。家臣の雪下が亡くなる時には、幼少の頃に厳しく鍛えられた思い出を語り掛けたり、19年ぶりに柳川の地に戻った際には、千代の幻との会話の場面を描くなど(無双の花は、千代のこと)、内面の表現がうまいです。
  黒田如水や徳川家康、伊達政宗などの武将とのやりとりからは、「義を通す」宗茂の胆力と清廉さが伝わってきます。


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