【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

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大野達三『松川事件の犯人を追って』新日本出版社、1991年

2013-02-01 00:01:26 | 政治/社会

           

  松川事件とは、1949年(昭和24年)8月17日午前3時9分頃 、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)を通過中だった青森発上野行き上り412旅客列車(C51形蒸気機関車牽引)が、突如脱線転覆した事故のことである(その一か月ほど前には、三鷹事件が起きている)。

  現場は、東北本線松川駅 - 金谷川駅間のカーブ入り口地点で、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車なども脱線。機関車の乗務員3人(機関士と2名の機関助士)が死亡した。現場検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認された。
  更にレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれ、長さ25m、重さ925kgのレール1本が外されていた。周辺捜索の結果、付近の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見された。事件件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、取り調べを受けた。
  少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が国労員、東芝労組員、都合20名が逮捕、起訴された。一審では20名全員が有罪(うち5人死刑)、二審では17名が有罪(うち4人死刑)、4名が無罪。しかし、この判決に抗議する国民的規模の運動が澎湃として起こり、広津和郎、川端康成、宇野浩二、吉川英治、松本清張などの作家がこれを支援した。
  結局、1963年9月の最高裁判決で全員無罪確定、歴史の汚点となる冤罪事件であった。

  本書は、被告の無罪確定の勝利に続く、この事件の真犯人究明の書である。犯人とおぼしきグループから松本善明弁護士に宛てた書簡、この件に先だって松本弁護士(当時は司法修習生)・ちひろ夫妻の身辺で起きた事件(留守の盗難、お手伝いさんの失踪と怪死)との関係、当時起こった関連の鉄道脱線・転覆事件との共通点、日本少女歌劇団の松楽座での公演との関わり、背景としてあった1950年前後の国際情勢とアメリカ極東戦略と日本国内の民主化運動の高揚など、著者はいろいろな角度から考察をくわえ、主犯はCIC(米陸軍諜報部隊)を統率していたセクションG2のボス、ウィロビー准将と推定している(p.75)。

  続いて、著者は、ほぼ同じころに起きた下山国鉄総裁轢断事件をとりあげ、事件の究明を行っている。下山事件(しもやまじけん)とは、日本が連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件(その年の末に「下山事件特別捜査本部」は解散)。
  本書は松川事件の真犯人究明と同様に、この件でも、多角的に真相解明にとりくみ、下山総裁が何者かによって計画的、組織的に殺されたこと、当時からあった自殺説そのものがしくまれたものであったこと、究極的にはアメリカが日本を反動化させる目的で非常手段として決行した軍事作戦(オペレーション)であったと結論付けている(p.143)。

 末尾に「秩父事件・スパイM・祖母のことなど」のテーマで書かれた文書を含む。

 

 


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