【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

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松本侑子『恋の蛍-山崎富栄と太宰治』光文社、2009年

2017-04-26 18:07:56 | 小説

             

 太宰治が山崎富栄と玉川上水で心中したのは、1948年6月である。


 今から考えると、売れっ子作家だった太宰は当時結核をわずらい、アルコール依存症、不眠症の状態にあり、独自の作風も限界に近づいていた。志賀直哉、井伏鱒二と敵対し、そして家族とは断絶し、極限状況にあった。常に死をちらつかせながら生き、実際に数度の心中事件を起こしている。

 山崎富江についてはあまり知られていない。評判はよくない。亀井勝一郎、臼井吉美は山崎が太宰の首をしばって、玉川上水にひきずりこんだかのようにとなえ、この説が影響力をもって、定着しているふしもある。

 本書はこのいわれない富栄に対する誹謗中傷を否定し、富栄の名誉回復をはかった。富栄は実際には聡明な知的女性である。若くして英語、フランス語、ロシア語をまなび、まじめな女性であった。父は日本の美容業の先駆者で、富栄がまだ小さいかったころからしっかりとした女性に育て、ゆくゆくは後継者に考えていた。

 富栄は一度、結婚している。夫は三井物産の社員で、結婚後、フィリピンで現地召集され、戦死した。富江の結婚生活は、わずか10日間ほどであった。

 富江は夫が生きていると信じて待ったが、念願はかなわなかった。富栄には兄が3人、姉が1人いた。しかし、姉は生後すぐになくなり、兄も病気で次々と病死した。年一という名の兄とは年齢も近く、よく一緒に遊んだ。その年一は旧制弘前中学にまなんだが、太宰もその学校に通っていた。ほとんど同期である。富栄はまだ小さかった頃、父に連れられて弘前の年一のところに遊びにいっている。その年一は、若くして病死した。

 太宰と面識のあった富栄の友人、今野貞子は、富栄に太宰が弘前中学に在学していたことを教え、太宰に紹介する。富栄は兄の年一のことを少しでも知ることができると思い、太宰とあう。三鷹のうどんやの屋台で、である。1947年3月末のこと。

 お互いに直観的にひかれあうものがあったのかもしれないし、太宰一流の話術的魅力があったのかもしれない。富栄は富栄で、日々の美容院での仕事(その頃、その仕事にたずさあわっていた)のなかでの会話には欠けている、太宰の知的な話に惹かれたのかもしれない。ふたりは急速に親しくなり、同棲生活に入る。太宰には、妻と3人の子供があり、また太田静子という愛人(「斜陽」の資料として使われた日記を書いた女性)がいたのだけれども。

 富栄は太宰に私的生活はもとより、創作活動の助手のようなこともし、もっていたかなりの額の貯金を全て太宰のために使った。

 ふたりは一緒に死ぬことを語り合っていた。すでに心中の一年前に、富栄は遺書を書いている。真面目で一途なところがある富栄は、太宰から離れられなくなっていた。一心同体であった。誰がその私生活をただすことことを忠告しても、聞く耳はなかった。

 富栄が太宰を殺したというのも、彼女が知的レベルの低い女だというのも、事実無根である。本書はそのことをつぶさに明らかにしている。

 


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