【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

法起寺(奈良散歩④)

2010-04-05 00:24:30 | 旅行/温泉

             Hokiji03ds1536.jpg

  法輪寺の次は、すぐ近くの法起寺。このお寺のは別名、岡本尼寺、岡本寺などともとも呼ばれています。

  昨日の本ブログで予告した「大変なこと」というのは気候のことです。このお寺に入る直前まで晴れていたのに(法輪寺)、出たときあたりから雲行きが怪しくなり、風がでてきたかと思うと、なんと雪が降ってきました。奈良でこの時期に雪、それも直前まで晴れていたのに・・・。そして、何と車でホテルまで戻ろうとするその道すがら、ものすごい数のツバメがパニックのような状態で低空飛行、そして乱舞していました。見たことのない様相です。頭をよぎったのはヒッチコックの「鳥」という映画。それはともかく、行きかう車の運転手、オートバイの人たちも驚いて見呆けているという感じでした。ツバメたちは暖かくなるはずのここ奈良での異常低温と雪に、自分を失ったのでしょう。きっと。(3月29日)

 本題に入ります。
  法起寺の創建は、推古14年(606)です。聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられています。そして、ここは法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つです。

  『聖徳太子伝私記』によると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその死に臨んで、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とするように遺命し、山背大兄王はそれに応えて大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したということです。

  その後、福亮僧正が舒明10年(638)に聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立、恵施僧正が天武14年 (685)に宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。

 中門をくぐって右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に接続する様式の伽藍であったようです。

  当寺のことは、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも記録があるようです。奈良時代には相当栄えていましたが、平安時代以降、法隆寺の指揮下に入り、寺運は哀微しました。鎌倉時代には、講堂や三重塔が修復されています。しかし、室町時代に再び衰退し、江戸時代初期には三重塔のみが残されるのみでした。

  荒廃を憂い、寺僧の真政圓忍とその弟子たちは延宝6年(1678)に三重塔を修復しました。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財が集められ、元禄7年(1694)に講堂が再建され、文久3年(1863)に聖天堂が建てられ現在の寺観が整えられました。

  三重塔は昭和47年(1972)から3年かけて解体修理されました。