【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

藤沢周平の実像を子が語る

2009-12-16 12:54:22 | 評論/評伝/自伝

遠藤展子『藤沢周平 父の周辺』文芸春秋社、2006年      

          


 著者は,藤沢周平のひとり娘です。

 現在、「藤沢周平記念館」の準備などをしています。その彼女が父(本名:小菅留治)の日常を、普段着の言葉で語っているのがこの本です。

 周平は生前、 肺を病み、手術しました。そのときの輸血のさい菌が入り、慢性の肝炎に、お酒も止めて漢方でだましだまし生活、執筆していました。

 最初の妻を癌でなくし、その後、再婚。著者は最初の妻の子です。

 周平が再婚した相手は、よく尽くし、肝っ玉も大きく、気のつく女性だったとのことです。周平の作家生活を前面的に支えました。

 周平は作家生活を除けば、ごく普通のお父さんでした。趣味は映画、音楽鑑賞、散歩、コーヒー、囲碁。高校野球観戦、相撲観戦をたのしみ、適度に怒りっぽく、そして寡黙。生活は規則的だったとのことです。

 著者が幼少の頃は、童話を読んでくれたり、動物園に連れて行ってくれたり・・・。あまり父親の書いた小説は読まなかったようですが、最近は読むようになったとありました。


週刊誌というメディアのレーゾンデートル

2009-11-27 09:19:11 | 評論/評伝/自伝
元木昌彦『週刊誌は死なず(新書)』朝日新聞社、2009年
              週刊誌は死なず
 週刊誌というメディアがピンチです。売り上げの減少、休刊、廃刊に追い込まれています。著者は、このまま雑誌というメディアは消滅していいの? と疑問を発しています。

 確かに雑誌記事に「勇み足」は多く、品の悪い記事があとを絶たないのですが、雑誌の存亡を左右する背景に権力の側の企みがあると言います。

 その根拠はあげれば多くあるのでしょうが、たとえば現行裁判では名誉棄損でメディアが訴えられた場合には、メディアの側で事実の立証をしなければならないことになっているとか(p.214)、慰謝料が桁外れに高額になっていることとか、です。この危機意識が、かつて週刊現代の編集をつとめた経験のある著者の問題意識です。

 それでは、雑誌のレーゾンデートルとは、著者によってどのように押さえられているのでしょうか? 著者は端的にそれは「スキャンダルで権力者の首を取ること」(p.129)だと言いいます。この観点からかつて雑誌記事は確かに成果をあげました。72年3月の「沖縄密約事件」での毎日新聞・西山記者と女性の関係の暴露、73年ごろの青山学院大学教授の教え子暴行事件のスクープ、89年の時の首相であった宇野首相の愛人スキャンダル、オウム事件での麻原被告の『自白調書』の全文公開(警察・検察は調書は存在しないと隠していた)などなど。

 テレビでも新聞でもできないことをする、体制内化したメディア世界の異端児ではあるが、真実を暴く役割が、雑誌規制というファシズムのなかで損ねられてはならないというわけです。

 知らない業界の知らない話がたくさん書かれていて面白く読めました(雑誌にも新聞社系統[週刊朝日、週刊読売など]と、出版社系統[週刊文春、週刊新潮など]があるということなど)。

奇想天外な発想を得意とした米原万里

2009-11-25 00:53:23 | 評論/評伝/自伝
井上ユリ/小森陽一『米原万里を語る』かもがわ出版、2009年
                          
                                 
 2006年5月に亡くなったロシア語同時通訳者で文筆家でもあった米原万里さんをめぐる「家族文集」、「家族会議録」です。

 それほど厚い本ではありませんが、内容が豊富です。

 第一章では井上ひさしさんと井上ユリさんの対談、第四章では小森陽一さんと井上ユリさんの対談。第二章ではノンフィクション作家の吉岡忍さんが、第三章ではTBSの金平茂紀さんが想いでを書いています。

 この本を読むと万里さんがどれだけ奇想天外な発想の持ち主であり、ロシア語同時通訳者としての能力が高かったか、作家としての資質も十分で、もっともっと多くの作品を残せたはずの人だったかがわかります。

 「国家と国家、文化と文化、異なる言語と言語の間、異なる時代と時代の間を境界線を侵しながら行き来する[小森さんの「あとがき」]」(p.178)万里さんは、「記憶の人」「工夫の人」「発明の人」「核心をつかむ人」でした。

 万里さん、ユリさん、小森さんは幼少の頃、プラハで学んでいたこともあり、そこでの教育と日本のそれとの大きな違い、など興味深い話がたくさん盛り込まれていました。
                           

世界でいちばん面白い英米文学講義-巨匠たちの知られざる人生-

2009-08-30 00:46:24 | 評論/評伝/自伝
エリオット・エンゲル/藤岡啓介訳『世界でいちばん面白い英米文学講義-巨匠たちの知られざる人生-』草思社、2006年

            世界でいちばん面白い英米文学講義―巨匠たちの知られざる人生


英米の作家のなかで・・・・
 ①アメリカのベスト4の作家は?
 ②小説の分野での初めてのコミック・アイロニストで、「完全な小説」を書いた作家は?
 ③殺人者や自分自身が狂人である者の心理学的な視点から「恐怖物語」を書いた最初の作家は?
 ④アメリカ人の言葉で初めて書いたアメリカの作家は?

 答えは①はヘミングウェイ、フォークナー、フィッツジェラルド、スタインベック、②はジェーン・オースチン、③はエドガー・アラン・ポー、④はマーク・トゥエンです。もっとも答えはこの著者、エンゲルによれば・・・ということです。

 本書は英米の小説家の「とっておきの話」を軽妙な語り口での講義を、活字におこしたものです。面白い話し、興味深いは話がいっぱい、つまっています。

 自身の小説を売り込む商才をもっていたディケンズ、シェークスピアの脚本のグローブ座での公演は大変だった、下手な役者にはトマトがなげつけられたというのだから、ブロンテ姉妹の姉のシャーロットの「ジェーン・エア」は小説のなかでも最高峰のもの、彼女は器量があまりよくなかったが晩年結婚したが39歳で亡くなった(「嵐が丘」のエミリー・ブロンテは30才で没)。ジェフリー・チョサーの「カンタベリー物語」は猥本よりエロチック、マーク・トゥエンはペン・ネーム(船乗りが水深を測るときの掛声)、コナン・ドイルはシャーロック・ホームズを創りだした男と後世の人々に記憶されるのを忌み嫌っていた、D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」はセックスの美しさ、女性を救うセックスの力について正確に語った小説、等々。

 こういう授業は、若いころに聞きたいものです。間違いなく英米文学を英語で読みたくなりそうです。

 原題は、"A Dab of Dickens & A Touch of Twains"で、『ディケンズひと刷毛、トウェイン少々』といことで、邦題とはかなり違います。

一葉文学の真髄に迫る

2009-08-22 11:18:39 | 評論/評伝/自伝
澤田章子『一葉伝』新日本出版社、2005年

              
          


 一葉の小説を完読したことはありませんが、触れたことはあります。あの若さで擬古文の雅文体をどのようにして身につけたのか、それが謎でした。その疑問が少し解けました。

 萩の舎に入塾し、早くから古典文学、歌に関心をもち(大変な読書家だったと推測します)、また小説を書き始めてからは庶民の生活をリアルに描いた井原西鶴に学んだことが大きかったのではないでしょうか。

 一葉(夏子)の生きた時代は、明治に入ってから顕著になった女性蔑視の空気が蔓延していました。そして、日清戦争。彼女の生活は、困窮を極めていました。

 人間関係では、比較的恵まれていましたが、それは一葉の生き方の姿勢によるものでした。

 まず萩の舎の師匠で歌人の中島歌子、田辺花穂、伊東夏子ら、そして小説作法を学び、恋心も一時抱いのですが、絶交状態となった半井桃水との交流。

 文学関係者では藤村、馬場胡蝶、北村透谷などの影響も受けました。自ら住んだ下谷区龍泉寺町界隈の吉原遊郭の女たち、本郷区丸山福山町の銘酒屋街の人々の生活に接したことは、彼女の小説のモチーフのバックグラウンドとなりました。

 そして、晩年の奇跡(14ヶ月に「たけくらべ」「にごりえ」「大つごもり」「十三夜」「わかれ道」の5作品)。

 著者の澤田さんは、最後に述べています、「絶対主義的天皇制下に、下層庶民の立場からの国の根本の変革をもとめる人たちによって、一葉文学は大きな刺激となり励ましとなって、日本の社会主義思想の組織化や文学の社会性の発揚をうながす力となった」と(pp.212-213)。

 一葉の日記を使った平易な評伝です。

困難な時代を生きぬいた女性たちに共感

2009-08-15 11:30:22 | 評論/評伝/自伝
森まゆみ『明治快女伝-わたしはわたしよ-』労働旬報社、1996年                             

 明治に生まれた50余人の女性の伝記を短くまとめてできあがった本です。

 著者がまだ若かった頃に(25歳ごろ)、著名な女性の列伝という出版社の企画を受けて3か月ほどで書き上げたものを基礎とし、書き直したり、新たに加えたりしているうちにほとんど書きおろしに近い形になったとか。

 著者の近代女性史の知識の土台になっている、といいます。構成は以下のとおり。

<明治女学校のころ>
 清水紫琴、相馬黒光、羽仁もと子、大塚楠緒子、佐藤輔子、斎藤冬子

<青鞜の「新しい女」>
 平塚らいてう、尾竹紅吉、伊藤野枝、神近市子、岩野清子、高村智恵子、田村俊子

<大正的事件>
 岸たまき、笠井彦乃、佐々木兼代、芳川鎌子、原阿佐緒、柳原白蓮、九條武子、波多野秋子

<私は納得しない>
 福田英子、菅野すが、山川菊栄、山内みな、丹野セツ、梅津はぎ子

<もの書く女>
 田沢稲舟、与謝野晶子、岡本かの子、宮本百合子、林芙美子、矢田津世子、杉田久女

<人のために生きる>
 山室機恵子、渋沢黎子、丸岡秀子、矢嶋楫子

<天職をみつけて>
 上村松園、河崎なつ、萩野吟子、人見絹枝、高群逸枝

<それでも私は演ずる>
 松井須磨子、三浦環、水谷八重子、東山千栄子

<横紙やぶり人生>
 松本英子、出口なお、安藤照子、阿部定、金子文子

今年は太宰治生誕100年

2009-07-08 00:29:39 | 評論/評伝/自伝
津島美知子『回想の太宰治』人文書院、1978年

                               
                             


 「太宰は箸を使うことが大変上手な人であった。長い指で長い箸の先だけ使って、ことに魚の食べ方がきれいだった。あれほど箸づかいのすっきりした人は少ないと思う」(p.83)。

 著者は太宰治の妻でしたから、生活者としての太宰のことをよく知っています。当然といえば当然ですが、上記のような文章は妻でなければ書けないのでは。

 著者は夫だった太宰について書いたものを加筆しつつまとめ、このような本にしました。

 冒頭、結婚にいたった経緯の回想があります。甲府での話です。以来、太宰が愛人と入水自殺するまで、妻として生活をともにしました。

 生活者としての太宰といっても、力仕事はだめでペンをもつことだけであしたから、著者の苦労は人並みでなく、「金の卵を抱いている男」と渾名をつけていたとか(p.31)。

 それでも、戦争中、甲府から千代田村への荷物疎開のおりに、大八車を引いていた太宰が著者に「荷車に乗れ」(p.103)と言ったり優しいところがありました。

 何かおもしろくないことがあって、著者は結婚前に交わした手紙やはがきを庭で燃やしてしまった(p.41)とか、ラジオや時計を含めて家財道具など買わなかった太宰が闇商人らしきものから懐中時計を買ったのを著者がむしょうに腹がたってなじったとか(p.177)、ありのままが書かれています。

 「太宰治」という筆名の由来(友人が「万葉集」をめくっているうちに「太宰」というのはどうかと言って、「よかろう」ということになったとか[p.154])、『女生徒』で使ったノートの書き手であるS子さんのこと、『右大臣実朝』『惜別』執筆の裏話、など興味つきません。

 銀座「ルパン」での太宰の有名な写真がありますが、穿いている靴は配給された兵隊靴で、いい靴が手に入りにくかった戦後、太宰が上機嫌で穿いていたという記述もありました(p.180)。

 「主観のかたまり」(p.196)のような太宰でしたが、人間臭さはその文学とともに一流でした。今年は太宰治生誕100年です。

青鞜社のなかで育った加藤みどりの生涯

2009-07-03 00:12:19 | 評論/評伝/自伝
岩田ななつ『青鞜の女 加藤みどり』青弓社、1993年
                青鞜の女 加藤みどりの書影
 岩田ななつさんは、6月24日付、本ブログで紹介した   『文学としての青鞜社』の著者でもあり、その本に刺激を受けて本書を読みました。

 青鞜社で育った加藤みどりの伝記小説です。加藤みどりは本名は高仲きくよ。1888年(明治21年)に信州上伊那群赤穂村に生まれました。12歳の時に母と死別。

 幼い4人の弟妹のめんどうをみる生活が始まります。父の了解を得て4人の弟妹をつれ上京。20歳のときに短編小説「愛の花」が『女子文壇』で一等当選。22歳で加藤朝鳥と「自由恋愛」から同棲、そして結婚。

 平塚らいてうが「青鞜」をたちあげるとともに、その考えかたに共鳴して入社します。雑誌「青鞜」誌上で小説を次々と発表(11編)。

 社会、家庭で束縛された女性の鬱屈した生活、悲惨な境遇に悩む女性の生き方をテーマとしました。

 注目すべきは1913年(大正3年)4月に大阪でイェーツの「幻の女」の女王デクトラを演じたことです(ただし、この演劇の評判はあまりよくなかったようです)。

 生涯3人の子をもうけますが、社会で活動したいという願いは強く、子どもを家政婦に日中、世話してもらったり、里子にだしたり、社会活動と家庭との狭間で悩むことが多かった人生でした。理想主義的な夫とは当初は順調な結婚生活であしたが、生き方、芸術の在り方などで意見があわず、経済的に恵まれないこと、子育ての環境が整わなかったこともあって、次第に疎遠となりました。

 1921年(大正10年)、子宮癌で死去。亨年34.本書にはみどりと朝鳥の生活と活動、清踏社同人とのつきあいが、現場にいるような錯覚を覚えるほど、細かく描かれています。

 従来、青鞜社の平塚らいてう、伊藤野枝についてはよく知られていましたが、加藤みどりに関しては全くといっていいほど明らかにされていなかったので、著者は自ら執筆を思い立ったとのことです(p.185)。

ロシアの女性数学者、ソーニャ・コヴァレフスカヤの評伝

2009-06-18 07:17:42 | 評論/評伝/自伝
野上弥生子訳『ソーニャ・コヴァレフスカヤ【改訂版】』岩波文庫、1978年
              
                (ウィキペディアより)

 19世紀ロシアの世界的な女性数学者ソーニャ・コヴァレフスカヤ[Софья Васильевна Ковалевская](1850-1891)が『ラエフスキ家の姉妹』という題目で書いた少女時代の回想録と、彼女の友人のスウェーデンの女流作家で後カジャネロ公爵夫人となったアン・シャロット・エドグレン・レフラー(1849-93)によって書かれた追想録が収められています。

 砲兵将官の二女としてモスクワに生まれたソーニャは偏微分方程式の権威でありコーシー・コヴァレフスカヤの定理で有名、1844年にストックホルム大学の数学の講師として招聘されました。ヨーロッパで最初の女性の大学教授です。

 その後、1891年秋にフランスの科学学士院からボルダン賞をやはり女性として初めて受賞しました。彼女は作家としての資質ももち、この本の前段の『ラエフスキ家の姉妹』を読めばその片鱗がうかがえます。

 『ラエフスキ家の姉妹』では自身をターニャとして姉のアニュータと対比して登場させています。この『ラエフスキ家の姉妹』では姉の自由への強い熱情、また姉妹のドストエフスキーとの交流、淡い恋愛感情を描いた部分にインパクトがあります。

 また、生前のソーニャとの約束を果たして彼女の生涯を綴ったアン・シャーロットの回想録では、ソーニャが地質学者のコヴァレフスキとの偽装結婚で国外に脱出し(その後コヴァレフスキとの間に一児をもうける)、数学を学び、業績をあげ、自らの地歩を築いていったこと、しかし普通の女性と同じように生活、家庭のなかに悩みをもち、子育て恋愛関係でも苦労が絶えなかったことが脚色なく語られています。
 叙述の多くは、生前に交換した手紙に依拠しています。ソーニャの生き方がテーマですが、当時のロシアの地主、貴族、思想状況、女性の地位、また今では大作家として知られるドストエフスキーの人柄などもかなり細かく書き込まれていて、興味尽きません。

 訳者の野上弥生子は、『秀吉と利休』などを書いた作家です。夫君が本屋で見つけたもの(英語版)を読み進むうちに「それがいかに私を打ち、どんな豪華本にも劣らぬ大切なもの」となり、遂に翻訳を思い立ったとのことです(p.9)。

 なお、この『ソーニャ・コヴァレフスカヤ』は野上弥生子が青鞜社にかかわっていたこともあって、その最初の発表は、一部ですが、『青鞜』に掲載されました。

加藤周一の日本人論、知識人論

2009-04-21 14:56:30 | 評論/評伝/自伝
加藤周一『日本人とは何か』講談社、1976年              
             

 知の巨人、加藤周一(1919-2008)の日本人論、知識人論です。

 8編の論稿が収められていますが、いずれも1960年前後に書かれたものです。

 著者は日本ではもとより西欧で長く生活し、複眼的な目で日本、日本人、知識人のありかたを見据えています。

 たとえば、しばしば日本的なものと国学の流れが強調する「わび、さび、枯淡」は日本の文学、芸術の一面にすぎないことを指摘し、日本文化の雑種性、外来文化混入を前提とした文化の普遍的基準の確立を唱えます。

 また、日本は経済的な面での長い間の孤立は脱却しつつありますが、政治的な面では孤立の事情は変わっていない、日本のアジアでの伝統的孤立は変化がないと述べています。

 天皇制の洞察は鋭く、日本の近代化には歪みがあり、その集中的表現が天皇制と説いています。1956年9月に天皇制と宗教意識に関する世論調査(調査票約6000)を全国規模で行った結果が紹介されていて、まことに興味深いです。

 最後に知識人について、また知識人が大東亜戦争とどのように関わったかについての考察がなされています。内容の要約は難しいですが、日本の知識人は(イギリス、フランスなどと比べると)政治にも、大衆文化にも影響力をもたない抽象的存在で、そのような孤立的状況も手伝って、大多数が太平洋戦争を聖戦と礼賛し、皇軍のたたかいを熱狂的に支援したと分析しています。

 知識人の思想は、結局、西洋思想の受け売りであり、生活意識と日本の伝統を媒介としていませんでした。著者は、このことが知識人の思想が真の意味での科学的精神を欠く脆弱な内容のものとならざるをえなかった理由である、と述べています。
 この内容は著者の叙述に即して言えば、論旨は概ね、次のとおりです。戦争中、知識人にとっての思想の価値は、実生活上の便宜、習慣、感情、「小集団を支配する家族的意識」を超越するものではありませんでした。倫理的価値、美的価値、科学的真理は、生活の論理に屈服したのです。日本は超越的価値概念、真理概念を生むことができず、外来思想を頭で理解していました。それこそが知識人の戦争協力という事実の背景でした。批判の矛先はとくに日本浪漫派、京都哲学に向けられています。

 「思想」が国家をも超越する価値として捉えていたわずかな知識人のみが、その脆弱性を回避でき、戦争協力や戦争賛美と無縁な場所にいたとも書きくわえています。
    
    
                
               
             
 

有馬稲子さんの自伝

2009-04-18 00:20:25 | 評論/評伝/自伝
有馬稲子『バラと痛恨の日々』中央公論社、1998年        
        

 有馬さんは、この本によると、複雑な家庭と環境のなかで育ったようです。「ママ」と思っていたのは実父の姉でした。4歳で韓国の釜山のこの伯母夫婦にもらわれ,一度小学3年のときに一端大阪に帰りますが、実父母となじめず,韓国に戻りまる。

 戦後,21年11月ごろ密航同然で日本に帰国しました。再び実父母のもとに身をよせましたが,スパルタ教育に苦しみました。その後、友達の勧誘で宝塚に合格しました。女優人生が始まりました。

 思い出の映画は「彼岸花」「夜の鼓」「わが愛」など、とか。新劇では宇野重吉に鍛えられ,木村光一さんと出会って「はなれ瞽女おりん」の主役を得ました。ロンドン公演(ジャパン・フェスティバル91)で大成功,激賞されました。

 中村錦之助,実業家Sとの2度の結婚に失敗。そんな彼女は書いています,「『家族』,それはわたしにとって永遠のテーマ・・・・もとめ続けてついに得られなかったもの」(pp.213-214),「意識の薄れる瞬間,生きていてよかったと,愛する人の腕の中で呟きたいという夢。そんな夢が,まだ捨てきれないで残っているのだ」(p.216)と。

 川端康成,岸恵子,太地喜和子,宇佐美宜一,大河内豪との交流の記,運転免許取得の記。いずれも面白いです。

 有馬さんには数年前の12月、「地人会」のパーティーでお会いしました。

網野史学への橋渡し

2009-02-28 00:28:54 | 評論/評伝/自伝

中沢新一『僕の叔父さん 網野義彦』集英社新書、2004年

         僕の叔父さん網野善彦  /中沢新一/著 [本]
 友人に紹介されました。伝統的歴史学,唯物史観,民衆史観とも異なる「網野史学(中世史)」の立役者網野善彦の歴史の方法と思想の枠組みを,従弟にあたる著者が解き明かした異色の読み物です。

 故網野善彦氏への追悼文として書かれたものです。

 著者は5歳になる直前に善彦氏と出会い,以来,ふたりの間には濃密な時間が共有され,歴史学をめぐる熱い議論が繰り返されました。

 本書のような細部にわたる,しかし簡明な「網野史学」の本質とその形成過程の記述は,著者でなければできなかったものでしょう。

 「網野史学」は,「悪党」「飛礫」「博打」「道祖神」概念の着目から出発し,アジール(避難地)の側にたつ歴史学を構想し,「天皇制」の基盤として「非農業民」概念を探りあてました。このうち,社会的な規則の体系と人間の本質である根源的な自由への欲望との相克,後者の現実世界での表現が他ならぬアジールで,網野は中世の日本に存在した公界,楽をその諸形態と見たといいます。


ミステリイの魅力を読み解く

2009-02-13 21:59:20 | 評論/評伝/自伝

春日直樹『ミステリイは誘う』講談社新書、2003年
                          

                    



 「死体」「探偵」「美女」「手がかり」「推理」の5つのタームから、ミステリーの魅力を読みと解いた本です。

 アメリカにヴァン・ダインという本格的ミステリイの創始者がいたらしく、その人の『探偵小説作法二十則』という本が援用されています。このテキストによれば、ミステリーには「死体を登場させるべし」[死体](p.18)、「事件には、ちゃんとした探偵が登場して問題の解決にあたるべし」[探偵](p.50)、「恋愛を持ち込むなかれ」[美女](p.78)、「手がかりはすべて明確に提示せよ」[手がかり](p.110)、「殺人方法と推理方法は合理的で科学的たるべし」[推理](p.136)という鉄則があるらしいです。

 確かにミステリイは読者の心を摑むために「死体」を登場させることが多いですね。「死体」を抜きにはミステリイは成り立たないと著者は書き出します(p.18)。

 「死体」が登場すれば、次は「探偵」」です(p.50)。ミステリイには、いろいろなタイプの探偵がでてきますが、彼らの仕事は「あたり一面の<外観>の奥底から、大切な<存在>を取り出す」ことです(p.58)。

 ミステリイの魅力を際立たせるのは死体や探偵の傍にいる「美女」です。しかし、彼女のミズテリイの中での居場所は難しいらしいです。主役になっては困るし、しかし読者は美女の存在に気がきでないのです。「彼女に引かれるほど、彼女がわからなくなる」くらいがよいのでしょうか?

 引っ張ると謎がほどける一本の糸、それが手がかりです(p.110)。その手がかりがミステリイのなかでどういうふに重要なのかが、本書では哲学的に考察されています。

 最後に「推理」。ヴァン・ダインは上記のように言っていましたが、「探偵の推理は呪術とも科学ともいいきれない。逆にいうと、呪術にも科学にも似ている」(p.157)というのが著者の結論です。

 引用例がたくさんでてくるので、ミステリイをたくさん読んでいれば面白い本なのでしょうが、わたしのこの分野の読書は貧しいので、残念でした。

 でも、そのうちこの未開拓の分野にも分け入っていきたいとと思います。

 著者は人類学者で、大阪大学の先生です。


小森陽一『村上春樹論-「海辺のカフカ」を精読する-』平凡社新書、2005年

2008-10-05 22:57:44 | 評論/評伝/自伝
小森陽一『村上春樹論-「海辺のカフカ」を精読する-』平凡社新書、2005年

          村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する  /小森陽一/著 [本]

 現代文学の旗手として神格化されている村上春樹氏。その村上氏によって書かれたベストセラー『海辺のカフカ』を精読し、その危うい内容、危険な役割を綿密なテキスト・クレティークで論証した本です。

 著者は『海辺のカフカ』を「処刑小説」と断罪しています。

 『海辺のカフカ』の危険な内容と言うのは、要約すれば①人間がしてはいけないこと、すなわち「人殺し」と「近親相姦」の肯定、②個人的動機による殺人と「戦争」や「ホロコースト」とが等価とみなされ、それらを<いたしかたないこと>としてしまう文学的背信、③一貫した女性嫌悪(ミソジニー)と「女性であることが罪」とする視点(「精神のある人間として呼吸している」「女」の存在の抹殺)、④歴史の否認、否定(史実を読者に一度想起させたうえでその一連の記憶を物語り内部で消去していく巧妙な手口)、などです。

 著者自身の言葉を借りれば、『海辺のカフカ』は「分身の二重化をほどこされた偽オイディプス物語の枠組みを持ち、(バートン版)『千夜一夜物語』から、女性の性的欲望に対する不信を基にした男性側の女性嫌悪(ミソジニー)を引き継ぎ、フランス・カフカの『流刑地にて』の処刑小説という主題を流用した『海辺のカフカ』という小説は、これら複数の先行する文学テクストを、夏目漱石の『義美人草』を媒介に結合し、『坑夫』を通じて、記憶とその想起をめぐる自我心理学的小説の方向性を持つかのように装いながら、小説という表現手段を処刑する」構造になっている(p.178)、ということになります。

 さらに「昭和天皇ヒロヒトの戦争責任が密かに小説のなかで免責され」(p..224)たばかりか、「侵略戦争の中心的な責任を担うはずの、昭和天皇ヒロヒトを自力で裁かないで放置した」(pp.241-242)団塊の世代の限界も指摘しています。

 わたしは『海辺のカフカ』そのものを読んでいないので文脈が分かりにくいところはありますが、著者の大方の指摘は正鵠を射ているのではないでしょうか。そう読みました。

<目次>
第1章 『海辺のカフカ』とオイディプス神話
第2章 甲村図書館と書物の迷宮
第3章 カフカ少年はなぜ夏目漱石を読むのか-甲村図書館と書物の迷宮2
第4章 ナカタさんと戦争の記憶
第5章 『海辺のカフカ』と戦後日本社会

中島信吾『沢村貞子 波瀾の人生』岩波書店、1997年

2008-08-15 00:24:35 | 評論/評伝/自伝
中島信吾『沢村貞子 波瀾の人生』岩波書店、1997年

           

 図書館の書庫で見つけました。

  著者は朝日新聞の記者として「ひと」の欄の原稿の
取材で沢村貞子さんに逢い、夫の大橋恭彦さんともどもごくごく数年お付き合いし、その縁でこの本をまとめたようです。

  ご夫妻とのやさしい、おもいやりのある交流が全体
のトーンになっています。小見出しの入れ方、文字の大きさ、余白のとりかた、沢村さんの文章の引用の仕方にまで、筆者の気持ちが行き届いています。

 「Ⅰ 蝉しぐれ」「Ⅱ 葉山のふたり」「Ⅲ 夫を語る」「Ⅳ 女優 沢村貞子」「Ⅴ 晩秋の海」。

  教師をめざし、日本女子大師範家政学部に入学するも、尊敬する先生のたったひとつの言動に失望し、大学をやめ俳優の道に。

 しばしばアカの俳優との嫌疑で、留置場に。しかし、その後は押しも押されぬ大女優。大橋さんと出逢い、彼に尽くして、最後は相模湾を毎日みて過ごして亡くなりました。

 夫の遺骨とともに散骨を希望し、そうしたそうです。