【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』岩波新書、2000年

2011-06-02 00:04:11 | 評論/評伝/自伝

                       

  福島原発の毎日の現場報告を聞いていると、人間はまだ原発をしっかり管理、運営できないので(大小の事故が多すぎます)、原発推進政策を即刻やめるべきと思います。

 放射能物質は現在、垂れ流しの状況です。汚染された水は、どこにももっていきようがないほどになっています。先日の台風(幸いというか、被災地では熱帯低気圧になりかなりおさまりましたが、それでも1号機から4号機はさらに原子炉内の水位があがって深刻な状況にたっしました)。本格的な台風がきたら、放射能物質は撹拌され関東一円にばらまかれる可能性もあります。

 放射能物質は眼にみえなません。種々の放射線(α線、β線、γ線)は、長い時間をかけて自然、人間生活をむしばんでいきます。「ただちに」人間がバタバタ死んでいくのではないので、まだひとごとのように考えている人がいます。今後のエネルギー政策は原子力発電も自然発電も適度に是々非々で使えばいいのではという
考え方がありますが、原発依存のエネルギー政策はただちに変更するのが得策です。

 さて、本書は市民科学者であり、原子力問題に多くの著者のあった著者が癌との闘病のなかで、どうしてもこれだけは伝えなければならないと思って書いた遺言です。著者は2000年に亡くなりましたが、今回の原発事故をまのあたりにしたら、きっと日本はまだ凝りもせず原発を推進していたのかと、あきれたことでしょう。

 冒頭で、本書の刊行(2000年)の前年に起きた茨城県東海村のJCO社のウラン加工施設での臨界事故に触れています。この事故で二人の作業員が亡くなりました。95年12月の高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故、97年3月の動燃の東海再処理工場でのアスファルト固化処理施設での火災爆発事故に続くもので大騒ぎになった大事故です(日本人は忘れっぽいのでもう覚えていない人が多いかもしれません)。

 著者は日本で原子力文化、安全文化がその開発の初発から議論も、批判も、思想もなく、その状態が原子力産業の在り方についても同じであったことを指摘しています。

 アメリカからのつぎはぎ的導入で、国家まかせの施策として、トップダウンで進められたのが日本の原子力行政でした。議論が全くないままにいわばなし崩し的に措置されてきたのが原子力開発であり、原子力行政だというわけです。

 著者は実際に若いころに日本原子力事業、東京大学原子核研究所で仕事をしていて、上記の指摘はそのなかでの実感なので説得力があります。

 著者はさらに原子力産業の自己検証能力のなさ、本来の意味でのアカウンタビィリティの欠如、総じて「自己に甘い体質」(p.142)に言及しています。

 また、現場で「手触り感」をもたない研究者が、いとも簡単にデータの隠蔽、改竄をおこなっている現状を告発しています。

 最後に「友へ」というメッセージで高木さんは次のように書いています、「残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばなりましたが、せめて『プルトニウム最後の日』くらいは、目にしたかったです。でも、それはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです」と(pp.182-183)。

藤沢周平『半生の記』文春文庫、

2011-05-19 00:03:16 | 評論/評伝/自伝

                半生の記 (文春文庫)
 松岡正剛「千夜一夜」では、選ばれた著者の本は一冊限りということになっています。藤沢周平の本はこの「半生の記」が採択されています。それで、読んでみました。

 著者自身は自伝とか自分史を書こうとは思っていなかった、と語っています。作品に自ずから自分が出るのだし、振り返ってみる自分の過去に書き残すに値するものはないからだ、と言っています。藤沢周平はそれで「含羞の作家」とも呼ばれています。

 それでは、なぜ「半生の記」を著したのかというと、それは自身が「小説を書くようになった経緯、・・・どのような道筋があって私は小説家になったのだろうか」を確認しておきたいから、ということのようです(p.10)。

 東北の田舎の農家に生まれ(1927年12月26日)、いろりのまわりで父母のむかし話を聞き育ち、学校は嫌いでした。本を読むことは好きでした。

 5年生のときにの担任の先生の教育(授業をつぶして本を読んでくれた)が著者のとりとめもない活字好き明確に小説好きに変える鍵となったとあります(p.40)。小説好きの友人も多かったとのこと。

 その後、昼間は印刷会社で働きながら鶴岡中学校夜間部に通います。さらに、湯田川中学校の教員をつとめながら(結核の療養生活を経験)、同人誌に参加し、小説家の道に近づいていったのです。この湯田川中学校の校長が、著者に東京で小説家になるのがよいのではないかと示唆したようで、このアドバイスが大きな影響を与えたようです(pp.100-103)。

 そして結婚。業界新聞者を転々とし、生活は不安定でした。最初の妻は若くして亡くなりました。小説を書き始め、「冥い海」がオール読物新人賞に選ばれましたが、それでも「このとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。そのあとのことは成行きとしてしか言えない」と書いています(p.110)。昭和46年(1971年)、44歳の時でした。

 半生の記はここで終わっています。本書にはもう一遍「わが山形の思い出」が入っています。青春記です。「半生の記」「わが山形の思い出」ともども、読みやすく人柄が滲みでています。藤沢文学という人肌温泉の源泉かけながしです。


武田徹『「核」論-鉄腕アトムと原発事故のあいだ-』勁草書房、2002年

2011-05-11 00:03:19 | 評論/評伝/自伝

           「核」論

 「はじめに」と「おわりに」を除くと、目次は以下のようになっていて、それだけでかなりユニークと感じられます。「核」の時代論です。

・1954年論:水爆映画としてのゴジラ-中曽根康弘と原子力の黎明期-
・1957年論:ウラン爺の伝説-科学と反科学の間で揺らぐ「信頼」-
・1965年論:鉄腕アトムとオッペンハイマー-自分と自分でないものが出会う-
・1970年論:大阪万博-未来が輝かしかった頃-
・1974年論:電源三法交付金-過疎と過密と原発と-
・1980年論:清水幾太郎の「転向」-調和、安保、核武装-
・1986年論:高木仁三郎-科学の論理と運動の論理-
・1999年論:JCO臨界事故-原始力的日光の及ばぬ先の孤独な死-
・2002年論:ノイマンから遠く離れて

 この構成を著者は次のように説明しています、「この本において試みた諸問題群の再編集法は、そんな重層性を少しでも解きほぐすための挑戦だった。視線を少しでも深く核の問題が孕む本質に向かって届かせるために、かえって幾つもの迂回路を通る作業をした。メインカルチャーだ、大衆的意識がより表出しやすいサブカルチャーも横断的に各論を総合することで「核」観の輪郭が描きだせれば良いと思った」と(pp.255-256)。

 要は核がどのように扱われてきたか、その来歴を王道で、また回り道をしながら論じたのが、この本の内容です。したがっていろいろなことが、一方で俯瞰的、歴史的に、他方で微視的、具体的によくわかります。

 1950年代半ば、原子力委員会を、科学者の懸念を無視してたちあげたのが正力松太郎。そして原子炉構造予算2億3500万を国会で通過させた中曽根康弘、それは第五福竜丸の被爆ニュースが公にされた直前のことでした。ここは重要です。 日本の原子炉政策のスタートはこのように危険で、強引なものだった、ということです。

 そして、原子炉をどのように設置するのか、この難問を後押ししたのが電源三法交付金。過疎・過密の解消するかのような幻想をふりまくこの法律は実は過疎・過密を前提し、固定化する内容のものであり、また原子炉反対派がよく言う「原子炉を推奨するならそれを東京につくればいいのではないか」という物言いに対して、すでに「東京(基本的には都市)には作れない、作らない」ことを巧妙に盛り込んだものでした。

 著者は原子炉がなければたちゆかなくなっているこの社会を「原子力的日光の中でのひなたぼっこ」と捉え、この原子力的日光の認識こそが核の影が落ちている現代社会を理解するカギと考え、この本を執筆したようです。核が偏在する世界の状況を描き出し、そうした状況を生きる覚悟や技術を書こうというわけです。

 その核問題に対しては原子力エネルギー利用への取り組みに対しても、そのハンタイ派の運動と思考パターンにも「非共感的」姿勢を貫き、「つまりどちらを向いても共感できない状態において原子力に対峙し、なんとか活路を見出そうそした」と「あとがき」で、執筆にさいしてのコンセプトを開陳しています(p.254)


『美の心・角圭子作品集』本の泉社、2010年

2011-05-03 00:05:18 | 評論/評伝/自伝

              
 標題は本書のなかの「障壁画に見る美の心」からとったそうです。そして、その「障壁画に見る美の心」は京都博物館で開催された特別展「障壁画の宝庫/京・近江の名作をみる」のあとに訪れた大覚寺、智積院での「牡丹図」(伝・狩野山楽)、「楓図」(長谷川等伯)の鑑賞体験を綴ったエッセイです。

 本書は、かなり年齢を重ねた(と思われる)著者の思いが詰まった宝箱のような本です。

 一番、印象に残ったのが、二番目の夫であった朝鮮人との離婚にまつわることどもと哀しみについて書いた「離婚」です。朝鮮での生活、在日朝鮮人問題、日本の差別的朝鮮政策と弾圧の歴史、朝鮮をの方と結婚することで背負わなければならなかったいろいろな問題が切々と書かれています。

 著者はロシア文学の研究者(翻訳家)でもあり、冒頭に「ロシア近代文学の形成過程」「ベリンスキー初期の文学館とゴーゴリ」「チェーホフ初期文学とその時代」「十二月党員と民族詩人」の論稿が並んでいます。

 なぜ著者はロシア文学に興味をもち、興味をもっただけでなく、その研究にとりくんだのだろう、と思って読んでいると、そのヒントになるような一行がありました(「社会の半封建的性格になやまされてきたわたしたちは、帝政のロシア古典文学にきわめて身近なものを感じている[p.61])。

 この一行を手掛かりに解釈すると、次のようになるのであろう。ロシア文学は最初、西欧文学のモノマネからはじまったのですが、近代に入ってロシア民族のアイデンティティを問い、そこに誇りをもつ文学が育っていきました。ロシアにおける近代文学の成立とロシア文学の確立とは同じことでした。

 この頃のロシアはツァーリの圧政のもとにあり、封建的農奴制がしかれ、人民の苦しみは想像を絶するものでした。著者自身が戦前の社会の封建的遺制に苦しんでいて、それゆえに圧制からの人民の解放をテーマにしたロシアの近代文学にのめりこんでいったらしいです。

 文学にあらわれた女性の魅力について執筆された部分は、古今東西の代表的小説を読んで、しっかり書き込まれています。画家であった父と母、夭折した兄のことも含め、己自身を見極めていこうとする探究心に誠実さが読み取れます。

 『山林』に連載した随筆、「ペンの花鳥図」もその延長で好ましいです。

 


大竹しのぶ『私一人』幻冬社、2006年

2011-04-01 00:05:50 | 評論/評伝/自伝

                      

 今や日本を代表する女優である大竹しのぶさんの自伝です。

 高校生のときに浦山桐郎監督の「青春の門・筑豊篇」でデビュー。その後、NHKの朝ドラ「水色の時」で主演に抜擢されました。素晴らしい演出家、監督との出会いが、彼女の女優歴で異彩を放っています。宇野重吉、山田洋次、山本薩夫、新藤兼人、野田秀樹、蜷川幸雄、井上ひさし。

 結婚生活では、最初の夫がTBSディレクターの服部晴治さん、男の子ひとりに恵まれましたが彼を癌でなくしました。その後、明石家さんまさんと結婚。女の子を授かりますが、価値観があわず離婚。そして、野田秀樹さんとの同居生活と破綻。

 俳優として、女性として、また母親として生きてきた半生が赤裸々に綴られています。

 幼少の頃は貧しい生活をしいられ、生活保護を受けていたほどであったらしいです。しかし、ご両親は誠実な方でした。そのあたりの叙述は細かく、彼女がいかにご両親を尊敬しているかが窺えます。

 振り返って、浦山監督の「大竹しのぶさんは、女優として充分やっていけます。普通の人間としても、社会の中できちんと生きていけます」という言葉がその後ずっと彼女の心のなかにあり、彼女の人生を左右したと自ら告白しています。

 わたし個人としては、明石家さんまさん、野田秀樹さんとの関係に興味をもちましたが、著者はまじめに人生を考え、人生を選択したようです。憎しみ合って分れたのではないので、いまでも家族ぐるみで時々あって、なごやかに話をしているようです。

 彼女は子ども離れができないようで、それが現在の悩みと言えば悩みのようです。しかし、こと女優業にかんしては、蜷川「マクベス」をこなし、ニューヨークのBAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)でも上演し、好評をえ、冒頭に述べたように今では押しも押されぬ大女優で、女優になるために生まれてきた人です。そのことが、本書を読んでよくわかりました。

 カバー写真は、シアターコクンでの「エレクトラ」。

江成常夫『レンズに映った昭和』(集英社文庫)、2005年

2011-03-09 00:02:45 | 評論/評伝/自伝

          レンズに映った昭和 (集英社新書)

 写真家である著者は、そのルーツが今井正監督、黒澤明監督などの映画にあると書いています。

 若くして写真と関わる仕事につくことを志向し、念願かなって毎日新聞社に入社。写真関係の仕事につくことはできたにもかかわらず、組織のなかでの仕事は、著者の意図することと異なるという意識が芽生え、12年間、勤めたあげくに退社し、フリーとなりました。

 以後、一貫して、アメリカ在住の戦争花嫁、中国に取り残された残留孤児、ヒロシマの被爆者(被爆当時広島に居て、現在韓国にすむ朝鮮の人)を訪問し、撮り続けます。

 著者の方法論は、テクニックで撮る写真ではなく、対象を見据えたところから浮かび上がってくる真実を撮ることであり、この方法論は方法論そのものとして完結するのではなく、撮影の対象を規定するそれでした。

 著者は、戦後の経済成長の繁栄のなかで、日本人は過去を忘却、とりわけ大戦と戦前の15年戦争にまきこまれた人々の不幸を忘れてしまっている、と述べています。驚くべき鈍感さで・・・。

 著者は「昭和の負の遺産」を後世に伝えることに生涯と生活をかけ、撮影活動を続けてきました。

 本書には、著者自身による写真が多くの写真が挿入されているが、どれもこれもそれらを見る人に訴えかけてくるものがあり、真実そのものです。


小林登美枝『陽のかがやき-平塚らいてふ・その戦後』新日本出版社、2004年

2011-01-18 23:18:42 | 評論/評伝/自伝
 20年間、「らいてふ」と交流があっただけでなく、最後の病床でも看護にあたった著者による「らいてふ」研究です。

 「らいてふ」は1886年、東京生まれ。本名は「平塚明(はる)」。「青踏社」をたちあげ(1911年)、「原始女性は太陽であった」と宣言し新しい女、と当時の世間を騒がせました。

 この本は、わたしの旧来の単純な「らいてふ」像を改めさせてくれました。「らいてふ」は、女性の能力の発露を願い、「青踏」を女性の作品の発表の場として提供。

 早くから禅の研究に入り、またある種の皇国史観ももっていたとのこと。奥村博史と長く同棲。子が二人。1941年に入籍。

 戦前には消費組合運動の先頭にたち、戦中には疎開先(茨城県北相馬郡戸田井)で農耕生活、そして戦後には非武装・再軍備反対、安保条約阻止などの運動に積極的にかかわりました。

 著者は、『平塚らうてふ著作集』(全8巻)の編集にたずさわり、病床での自伝の口述を筆記するという大きな仕事を成し遂げました。

 「らいてふ」病床の日々の様子が詳しく書かれています。

阿刀田高『私のギリシャ神話』NHK出版、2000年

2010-11-12 00:05:26 | 評論/評伝/自伝
阿刀田高『私のギリシャ神話』NHK出版、2000年
              私のギリシャ神話 

 多くの神々が出てきて名前を覚えられませんが、子どもの頃に読んだ易しい「ギリシャ神話」で記憶のある名前は身近に感じます。

 「12神」は頭に叩き込まなければなりません。ゼウス、ヘラ、ポセイドン、アプロディテ、アテナ、アレス、アルテミス、ヘルメス、ヘスティア、ヘパイストス、アポロン、デメテル。これにハデス、エロス、ディオニッソス。

 ギリシャ神話にテキストはないそうです。エーゲ海あたりのいろいろな伝説を集大成したものです。矛盾もたくさんあるとか。

 ホメロスの叙事詩、ヘシオドスの歴史書に伝承されたものをアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスが芸術作品に仕立てました。

 もともと神々は信仰の対象ではなかったのです。畏敬、畏怖、敬愛の拠り所なのです。そして、何より想像力の賜物です。

 ゼウスは絶対的な力をもち女神を犯し子どもをつくりますが、この行為は許されたのです。子孫が英雄となってその地の守り手(加護)となるからです。

 たくさんの絵画が挿入されています、ルーベンス、ティツィアーノ、カラバッチョ、モロー、ドラクロア、ボッティチェリ、ベラスケス。ギリシャ神話は西洋絵画の格好の素材だったのです。

 「NHK人間講座」の内容に加筆された本です。

加山雄三『若大将の履歴書』日本経済新聞社、2008年

2010-09-09 00:13:24 | 評論/評伝/自伝
                                
                           
 日本経済新聞では「わたしも履歴書」という欄が一番最後の頁にあり、そこで連載されたものです。ただし、かなり加筆され、もとの2倍くらいになったとのこと。

 本文の後に自筆「年譜」と作品番号で整理した自作曲の作品が一覧され(「弾厚作作曲リスト」)、これらも本にするにあたって付け加えられたものです。
 全体で自らの半生の記となっています。

 加山雄三さんの歌は、わたしが高校生の頃からヒットしていました。また、だいぶ後にあって黒沢監督の映画にでているのを知って、その演技に感心した記憶があります。ただし、映画の若大将シリーズというのは観たことがありません。父親の上原謙の出ている映画はかなり観ましたが。

 それはともあれ、本書を読むと、加山さんのマルチタレントぶりに改めて驚かされます。作詞、作曲、絵画、焼き物、料理そしてスポーツ万能(とくにスキーで国体に出ている)、船を造るし、また乗っている(光進丸)。

 音楽は趣味だそうです。本職にしてしまうと、腐ってくるので、趣味にしているのだそうです。

 しかし、この人気俳優もかつてはリゾートマンションの経営に失敗して、物凄い額の負債を負いました。それまで、まわりにいた友達も、そのことが原因でかなり去っていったと言います。

 彼を再起させたのは、現在の奥さん、そして子どもたちであるようです。だから、家族は大切にしている、としっかり語っています。

 少し前にNHKラジオの深夜番組である「ラジオ深夜便」にでて、この本に書かれている内容のことを話していました。そして、加山さん自身も、この番組をよく聞いているらしいです。流される音楽が懐かしく、それがいいいのだそうです。

ノーマ・フィールド『へんな子じゃないもん』みすず書房、2006年

2010-08-30 00:55:44 | 評論/評伝/自伝
                へんな子じゃないもん

  奇妙な表題の由来は、本書のなかの逸話にあります。病床にあった祖母に、彼女が半世紀以上もむかしに読んだ随筆家の文章を音読してあげたさいに、ふと著者が「おばあちゃま、へんな子をお医者さんのところに連れていくのは、いやじゃなかった?」と質問(著者は子どもの頃、祖母に連れられてしばしば医者に通ったのだった)。
 ふだんもう何もしゃべられない状態にあった祖母が突然こう言ったというのである、「へんな子じゃないもん。自慢の子だもん」(p.183)。表題はここから取ったようです。

 本書は、米兵と日本人の母親との間に生まれ、2つの文化の間を往還しつつ人生を重ねてきた著者が、発作で倒れた祖母の病床につきそいながら、祖母の思い出、祖母と母との関わり、戦争とは何か、平和とは何かを断片的にスケッチした内容のものです。筋があるわけではなく、今風にいえば「ブログ」のように思いついたことを縷々語っていくという手法です。

 小さな見出しはついています。「宝の夢」「カリフォルニア・ワイン」「エスカレーターで」「『ただいま』」「扇風機」「時間」「近所Ⅰ」「花の話」「寝具」・・・。

 たどられる記憶の手触り、祖母の意識下にあった忘れられた記憶。著者は本書に込めたかったことを次のように述べています、「これで過ぎ去る世界への愛着説明しえたとは毛頭思っていない。譲るべくして消えていく制度や慣習はいくらもあるし、愛着自体、一義的に理解できるものではない。とりあえず、というより、まずは愛着の記録を残したかった。それは説明しなくてもよいことなのかもしれない。さらに、その記録をとおし、私が育った一庶民の家庭の戦後史を垣間見ることができると思う。それが他人にとっても関心事でありうると考えるのが奢りだけでないことを切に願う。個々人の生涯を織りなす愛着とそれが生み出す葛藤と、社会と歴史の大きな流れとの関係を追ってみたかった。平行線をたどるように見えながら、後者が前者の振幅のみならずその内実までにも入り込んでいる様子をとらえたかったが、それはかなり難しいことである」と(pp.251-252)。

 文中、写真家・土門拳のことにかなりページを割いて書きこんでいることが印象に残りました(pp.73-88)。筆者はここで土門の作品に強い共感、魅力を感じながらも、作品を「日本民族」のエートスと結び付けようとしていることに違和感をもち、抵抗しています。

岡田茉莉子さんの映画人生

2010-03-10 01:29:49 | 評論/評伝/自伝
岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』文藝春秋社、2009年

          女優岡田茉莉子   [本]


 夫である吉田喜重監督の勧めで2年半ほどかけて執筆した自伝です。

 ポイントをいくつか。一つは日本の映画史は女優としての著者の人生と重なっていること。映画の全盛期、そして衰退(撮影所の閉鎖)。そうした中で著者は映画俳優から舞台、TV出演に重点が移っていくさまがしっかり書かれています。

 また、岡田茉莉子が岡田茉莉子を演じることの自己意識にも克明に筆が及んでいること。両者が重なる部分と違和感がある部分とが意識のなかで交錯しています。

 3つめは父であった岡田時彦に対する感情の変遷。もの心がついた頃には、父はもういず、ほとんど母の手ひとつで育てられたとのことです。その父が俳優であったことを、映画のなかで知ったときの衝撃。

 さらに、吉田喜重監督とはおしどり夫婦というか、お互いがお互いをよく理解しあっていることが伝わってきました。監督の映画は難解であるといわれることもありますが、著者の解説で監督の映画作りに対する姿勢がよくわかりました。

 写真が豊富で楽しいです(85枚ほど)。

 大部な書物(586ページ)なので、いろいろいなことが書き込まれています。岡田茉莉子の芸名は文豪の谷崎潤一郎が命名した(pp.66-67)。巨匠小津安二郎監督との出会いは「秋日和」の本読みのときから(p.181)。

 さらに名作「秋津温泉」では当初芥川比呂志との共演が予定され、部分的に撮影もしていましたが、芥川が病に倒れ長門裕之さんに交替したこと(p.219)、吉田喜重監督『戒厳令』で普段台詞覚えがよくない三國連太郎さんがいつになく快調だったので台詞を「よく覚えられたわね」と言うと、「この役に乗っているからね」と返答があったこと(p.401)など、描写が細かいです。

 本書を知ったのはNHKラジオの番組「ラジオ深夜便」で著者ご本人がこの著作のことを語っていたのを聴いたことによります。

片山潜の半生

2010-03-07 01:05:55 | 評論/評伝/自伝
片山潜『片山潜-歩いてきた道-』日本図書センター、2000年
                     
                    

 社会主義者、片山潜(1859-1933)の自伝です。といっても1897年の38歳ぐらいまでです。

 もとの原稿は著者が東京市電労働者・職員ストライキで、その首謀者として、市ヶ谷監獄に投獄されたおり、「退屈をまぎらわせ、獄房の寒さを忘れようとして」(p.167)書いたものです。「きわめて平凡で、なにひとつおもしろくもない私の生活を、飾らず、いわば赤裸々に・・・」書いたとのこと。

 後年、加筆されて公にされた[年表によれば、本書は「オクチャーブリ」誌に1930-31年に連載(日本語原稿からイエ・テルノフスカヤ訳)]されたもののようです。

 江戸時代に生まれ、8歳で維新を経験しました。明治政府のもとで資本主義の発展の道に入り、帝国主義へ突っ走っていった日本。極めて劇的な時代に生きたわけで、その中で著者は淡々と自身の生活を語っています。

 しかし、その半生は波乱万丈。美作国(岡山県)の庄屋の二男として生まれ、自らが語るところによりますとあまり出来る子ではなかったようですが、次第に学問に目覚め、小学校の助教を経験し、岡山」師範に入学するも、すぐに退学して東京へ。

 その後、渡米して大変な苦労をしながら大学に通い、勉学。32歳のときにラサール伝を読み、社会主義者になりました。12年のアメリカの生活の後、帰国。社会改良事業を仲間とともに計画、労働運動に身を捧げるようになりました。

 この本の話はここまでです。この後、1901年に日本最初の社会主義政党を結成、ロシア革命後のソ連にわたり、共産主義者に。コミンテルンで活躍しました。

 この後半生に興味もありますが、本書では年表で満足するしかありません。

林家木久蔵さんの自伝

2010-02-26 00:05:13 | 評論/評伝/自伝

林家木久蔵『昭和下町・人情ばなし』日本放送出版協会、2001年

                           昭和下町人情ばなし
 
  完全な自分史です(サイン入り)。

 数年前,埼玉県の「リリアで」の落語会(「年忘れ,爆笑三人会」)のおり,ロビーでもとめました。木久蔵さんご本人が販売していました。握手もしてきました。

 昭和初期から,戦争,戦後,苦労して無意識のうちに自分を磨きあげたとのこと。その木久蔵さんが東京の生活、自身の人生を見つめ,下町の情緒を体感したのだそうです。

 雑貨問屋、紙芝居,映画館,銭湯 。漫画家の清水昆の勧めで、落語界入り。桂三木助師匠、次いで林家正蔵の弟子になりました。エノケン、横山やすし、小円遊、好楽との出会いが楽しげに書かれています。

 この方は大変に絵がうまいですね。子供の頃、明治座の芝居絵を見て、みようみまねで描いて、それ以来といいます。

 おかみさんとの結婚話、「あとがき」で林家きく姫の真打昇進が嬉しそうです。

 落語家の私生活はあまりわからないだけに,興味がわき,一気に読了しました。


「悪女」というのは男性の視点からつくられた(或る意味での)差別用語

2010-01-29 16:53:48 | 評論/評伝/自伝

田中貴子『悪女論』紀伊国屋書店、1992年

                             〈悪女〉論の画像

  「悪女(性的魔力で男を破滅させる女)」は男性の視点から作られた言葉だということの洞察が本書の主眼です。その事実関係を説話を含む中世,近世の過去の文献のなかで追跡していくという方法がとられています。

 全体の構成は・・・
 「Ⅰ帝という名の<悪女> 称徳天皇と道鏡」
 「Ⅱ鬼にとりつかれた<悪女> 染殿后と位争い」
 「Ⅲ竜蛇となった<悪女> 『道成寺縁起絵巻』から『華厳縁起絵巻』へ」です。

 <悪女>の呼称の本質は性差別であり,女帝忌避観,天皇の血の系譜,権力からの女性の排除の思想が背景にありますが,女性に固有とされた不浄観,罪状観の要素と結び付けて語られてきました。

 「平安,鎌倉,室町と時代を経るにつれ,女性の悪行と蛇が強固につなぎ合わされていった」「蛇を身に養う女性は,普段の生活をしている限りにおいて何ら問題はない。だが,いったん嫉妬を起こすが最後,腹の底に眠っていた邪悪な蛇がゆっくりと鎌首をもたげ始めるのだ」(p.182)。こうした偏見は男性中心の権力構造,社会制度のなかで流布されました。

 <悪女>たちの物語を取り上げるに際し,著者が真っ先に思い出したのは,中上健次の小説「浮島」の次の一節だったと「あとがき」で書いています。

 「よしんば女が,蛇の化身で,淫乱で,さかしらずで,邪悪であっても,女とともに果ての果てまで行ってこそ・・・・男というものである。道成寺の安珍も,蛇性の婬の豊雄もふがいない。逃げ出すことは要らない」(p.219)。


映画女優・若尾文子さんを論じた本

2010-01-29 00:38:46 | 評論/評伝/自伝
四方田犬彦・斎藤綾子『映画女優 若尾文子』みすず書房、2003年
      
           

 本書を作る切っ掛けを四方田さんは「はじめに」で書いています、1994年にイタリアに留学していたおりに増村保造監督の日本映画史に関する書物をみつけ、それが契機となってイタリアで増村監督の回顧上映を企画し、成功、その延長で映画会社の大映をめぐるシンポジウムを明治学院で開催、さらにその大映で増村監督と組んだ代表的女優である若尾文子に関する書物を思い立った、と。

 本書は3部からなっています。第一部は四方田の論文「欲望と民主主義」、第二部は斉藤の論文「女優は抵抗する」、そして第三部は若尾文子へとふたりの著者とのインタヴュー「自分以外の人間になりたい」(2002年9月26日、於:プリンスホテル)です。

 四方田論文は、若尾文子が増村保造監督と組んでつくった20本の映画を前半と後半と分け、さらに後半を3系列に整理して論じています。すなわち、前半の映画は「青空娘(1957)」「妻は告発する(1961)」「燗(1962)」などであり、後半は「夫が見た(1964)」から「千羽鶴(1969)」です。

 この後半は、「卍(1963)」「刺青(1966)」などの谷崎もの、「清作の妻(1965)」「赤い天使(1966)」などの戦争もの、「妻二人(1967)」「華岡青洲の妻(1967)」などの家族メロドラマものなどの系譜があります。

 もちろんこの他にも水上勉の小説の映画化「雁の寺(1962)」「越後竹人形(1963)」があります。

 若尾文子を専ら増村監督、三島由紀夫などの肩越しに捉えているのが四方田論文の特徴です。他の共演した女優、岸田今日子、岡田茉莉子、高峰秀子らと、あるいは共演はしていないが吉永小百合、京マチ子、山口百恵などと比べながら論じているのが興味深いです。

 斉藤論文は女性が女優若尾文子をどのように観るのか、男性の側から描かれた増村監督の映像のなかで彼女はどのような演じ方をしたのかという問題意識(斉藤さんはこれを<若尾文子問題>と呼んでいる)のもとに論旨を構築しています。ここでは「ホモエロチックな欲望」「両性的オマージュ」「家父長制における女性の抵抗」「ジェンダーコード」「共同体と個人」「折衝」「重力」などのタームを駆使して哲学的な考察がなされています。

 そして対談。普段着の若尾文子さんがそこに居ます。

 末尾に若尾文子が演じた160本に近い映画の詳細なフィルモグラフィー(志村三代子作成)。

 本書を読む限りでは、若尾さんにとって「妻は告発する」「夫は見た」「清作の妻」が若尾文子の作品の節目を成しているようです。アイドルから女優へ、そして複雑な陰影をもった女性の生活と人生を、あるときは折り目正しく、あるときは激情的に演じた若尾さんは日本映画史のなかでも稀有な存在です。