【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

岩倉博『異評・司馬遼太郎』草の出版会、2006年

2008-08-02 00:30:15 | 評論/評伝/自伝
岩倉 博『異評・司馬遼太郎』草の出版会、2006年 
      PHOTO

 国民的人気作家・司馬遼太郎の歴史観を批判的に取りあげた本です。

 著者によれば司馬遼太郎の問題点は多数ありますが、本質的に皇室を尊重する姿勢、戦争責任を天皇に負わせない態度、侵略批判の声は大きいが偏りがあって甘いこと、暗喩で語る社会批判は支配体制のそれの域をでなかった(p.79)。また、歴史的事実の恣意的選択と天才重視の対極で、庶民の生活を無視したことです。

  厳し言い方をすれば、歴史の捏造、歪曲が恣意的に、軽々となされたというのです。

 ということですから、司馬から歴史を学ぼうとするのは間違いとのこと。所詮は小説と思って接すればよいということになりますが、司馬人気は司馬史観に毒された誤った歴史認識を醸成しているのだから、コトは単純でないと述べています。

 また司馬の言っていることは小説のなかのことだからと、これをほうっておいた歴史家にも責任があったと言っています。

 「坂の上の雲」における日清戦争の発端と経緯の描き方の恣意性、「竜馬がいく」と「燃えよ剣」で対立する竜馬と土方歳三とをどちらも優れた爽やかな人物と描く矛盾を意にかいしないこと、「天皇の国家上の大権を国務大臣が輔弼することと統帥権を陸軍大臣等が輔弼することとは性格が異なるのに、後者は『無答責』を含む輔弼でないことの理解が欠けていたこと」、など手厳しい指摘が続きます。

 司馬史観は新自由主義を励まし、助長する危険性があるからとの言でしょう。司馬人気はその思想が、語り口が、日本人の心根をとらえたことに危険性をみています。

 実際に司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読書中ですが、この本の主張にはあたっているところもあれば、ややエキセントリックでそこまでいわなくともというところもあります。

 この本の主張は傾聴に値しますが、この読んで司馬遼太郎がわかったつもりになり、司馬の本を敬遠してしまうことはやめたいものです。司馬の本は読まないよりは読んだほうが断然よく、しかしその場合でも自身の視点をしっかりもって読むことが大事です。

昭和の怪物伝

2008-06-20 00:20:52 | 評論/評伝/自伝
大宅壮一『昭和怪物伝(新書)』角川書店、1973年

           昭和怪物伝 (1957年)

 著者は「怪物」を次のように定義しています、「・・・怪物は一定の外的状況に対して、その反応を予期することのできない人間のことである。怪物は単なる悪党ではない。むしろ善人ではない。両方の面を具えているというよりも、見る人によって、どちらともとれるようでなければならない。・・・もっとわかりやすくいえば、要するに怪物とは”一筋縄ではない”人間のことである」(pp.7-8)、「・・・”怪物”とは、一口にいうと、平凡人の頭では簡単に因数分解できそうもないようなメンタリティをもった人物のことである。したがって、善人とか悪人とかいう道徳的な基準によったものではない」(p.297)と。

 登場する人物は・・・
・ 久原房之助(実業界[久原商事、久原鉱業]から政界へ進出した怪獣)
・ 三木武吉(河野一郎(政界の要職を歴任し、日ソ魚業交渉、日ソ国交回復交渉で辣腕をふるった大人物)
・ 平塚常次郎(北洋漁業を一手におさめた日本水産界の大立物)
・  馬島(産児制限、日ソ交渉の脚色演出家、明るく解放的な黒幕)
・ 藤山愛一郎(肩書きがゴマン、金と力の人間)
・ 佐藤和三郎(バルブ株で大当たりの相場師で兜町の名物男)
・ 水野成夫(獄中転向→仏文に造詣深く→フジテレビ社長)
・ 阿部真之介(善良な毒舌家で恐妻家)
・ 下中弥三郎(「平凡社」を創設したアジア主義のアナキースト)
・ 谷口雅春(宗教株式会社「生長の家」の教祖)
・ 東郷青児(「二科の総統」で宣伝のためには手段を選ばぬワンマン画家)
・ 勅使河原蒼風(マス・コミを最大限に利用した草月流の稀代の演出家)
・ 岡本太郎(画壇の異常児)
・ 森繁久弥(育ちよく、サービス精神おおせいなセミ・プロ的芸人)
・ 石橋湛山(ジャーナリスト出身で強情、非妥協的な反骨の政治家)。

 昭和30年に『文藝春秋』に連載されたものを中心にまとめられた人物評論です。

 著者自身も、怪物的ジャーナリストです。

近藤富枝『田端文士村』中公文庫、1983年

2008-05-23 00:57:38 | 評論/評伝/自伝
近藤富枝『田端文士村』中公文庫、1983年

          田端文士村 (中公文庫)

 山手線沿線の田端。この界隈はかつて芸術家たちが住む村でした。明治の末には一面の畑でしたが、大正の初めにかけて陶芸家として有名になった板谷波山がここに住み、大正3年に芥川龍之介が引っ越してきて以後(彼の人間的魅力もあったのかもしれませんが)、続々と若い文士が集うようになりました。

 室生犀星、萩原朔太郎、瀧井孝作、久保田万太郎、堀辰雄、中野重治、佐多稲子、菊池寛、、等々。数えあげればきりがありません。

 「この田端の風土と人脈は、近代文学史に一線を画す芥川文学の背景であり、かつ大正から昭和への文学的胎動も、この地に一典型を認められることに気づくのである」(pp.8-9)と著者は書いています。

 本書は芥川龍之介を中心におきながら、文学者、芸術家の集団を丹念な調査と聞き取りでまとめたものです。

 その芥川について著者は次のように書いています、「芥川は田端の王様であった。眩い存在であった。誰もが彼を愛さずにはいられないほど彼は才学に秀で、誰にも優しく、下町人特有の世話好きの面もあり、懐かしい人だった。その代わり、彼の前にでると、何時の間にか自分は吸いとられ、新しい人間に生きかえされている。しかしそうした結末を当人は喜び、新しい衣服を喜ぶ心理で、いっそう芥川を愛したというのが、芥川家に集った大方の文学志望者や芸術家たちではあるまいか。となれば、そうした人たちは互いに自分と芥川の距離をいつも他人と比較し、親疎をひそかに競っていたにちがいない」(p.172)と。

 幼い頃からここに住んでいた著者の経験が何とも強みで、本書の全体からは田端の文学的香り、匂いがたちのぼってくるかのようです。

 巻末の地図(文人・芸術家の住居がプロットしてある)は、貴重(pp.280-281)です。

 数年前に、ここを歩きました。芥川の家も見ました。この地図をもって再訪したいものです。

入江曜子『溥儀ー清朝最後の皇帝ー』岩波新書、2006年

2008-05-07 00:43:13 | 評論/評伝/自伝
入江曜子『溥儀ー清朝最後の皇帝ー』岩波新書、2006年
          溥儀―清朝最後の皇帝
 2006年は愛新覚羅溥儀(ラストエンペラー)の生誕100年、この年に刊行された本格的な「溥儀(1906-1967)」論です。

 かつて、溥儀の皇后であった婉容の視点から書いた『我が名はエリザベス』を、溥儀の側女であった李玉琴の生涯を綴った『李玉琴伝奇』を、また溥儀と関東軍参謀吉岡安直との関係を描いた『貴妃は毒殺されたか』を執筆した著者ならではの、「溥儀」に関する重厚な書物です。

 わずか3歳で宣統帝として即位(1908年)、7歳で清朝崩壊とともに廃帝(1912年)。亡命者として清朝の復辟を担わされた溥儀。辛亥革命後の張勲の復辟によって二度目の即位(1912年)、英国人の英語教師ジョンストンを通じ西欧への憧れをもちつつその夢を断念、その後満州国の傀儡の皇帝となり(1932年)、日本皇室との同化の証に天照大神を祖神として祀る。東京裁判での奇妙な言動(1946年)。数度の結婚の失敗。戦後、ソ連に抑留され戦犯管理所で「人間改造を迫られ」た後、特赦(1959年)。一公民として『我が前半生』出版(1964年)、北京植物園で軽労働。文化大革命のなかでの闘病生活、1967年、腎臓癌、尿毒症、貧血性心臓病で死去。享年62。

 著者は「あとがき」で書いています、「彼の生涯は、清朝最後の皇帝として、祖業を復活する『復辟』を担わされた一人と、その宿命から逃れて此処ではないどこかへ、自分ではない誰かになりたいというもう一人が見え隠れする。・・・溥儀が生涯にわたって求めた父なるものにたいする評価や言動が、その時々に彼の置かれた政治的立場によって極端から極端へ躊躇なく変貌するのも、おそらく少年の日に、二つの人格をそのまま内に抱えこんでしまうことで楽に生きることを知った永遠の少年である溥儀の溥儀たるゆえんと思う」と(p.238)。 

百花繚乱のロシア・アヴァンギャルド

2008-04-16 00:20:00 | 評論/評伝/自伝
亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』岩波新書、1996年

              ロシア・アヴァンギャルド (岩波新書)
 マヤコフスキー、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、メイエルホリド、カンディンスキー、ショスタコーヴィッチなど知っている名前がたくさん出てきました。

 それにしても、ロシア・アヴァンギャルドがロシア10月革命をはさむ約30年間にこれほどまでに詩、絵画、演劇、音楽、映画などの芸術ジャンルで百花繚乱であったとは・・・。「目から鱗が落ちる」とはこのことか。

 著者は「あとがき」で「本書での私の試みは、ロシア・アヴァンギャルド運動の軌跡をできるだけ幅広く概観することにあった。運動そのものの歴史は充分に書きこめたという自信がある」[p.245]と言っていますが、相当のボリュームと緻密さでロシア・アヴァンギャルドが解説されています。

 象徴主義、未来主義、スプレマティズム、構成主義など認識の乏しかった情報をたくさん得ました。

 フレーブニコフ([1885-1922]、詩人で未来派の創始者で生涯にわたり「時間の法則」を探求したとのこと)、マレーヴィチ([1878-1935]スプレマティズムの創始者。キュビスムと原始主義を脱した後、無対象画の道を歩み、革命後は空想建築にかかわったとのこと)は、おさえておくべき重要人物であるようです。 「ザーウミ(言語解体の実験)」の運動もユニークです。

 ロシア革命前夜、革命、戦時共産主義、ネップ、スターリン下の激動のロシア・ソ連のプロセスといった、
踏まえなければならない政治的背景へ目配りしながら、芸術家たちの夢と挫折、確執と対立とがしっかり描かれています。

 終章の末尾、「ソビエトの崩壊、冷戦の終結によってもたらされた事態とは、決して『歴史の終わり』ではなかった。共産主義の実験は、資本主義という『堕罪』の文化が必然的に背負わなければならなかった試練であり、資本主義文化の『もうひとつの自己』であった。その意味で、ロシア・アヴァンギャルドの運命を考えることは、まさに人類が失った鏡をもう一度取りもどし、もう一つの自己を見つめ直すことに他ならないのだ」(p.227)という著者のメッセージは、重く受けとめました。

高木凛『沖縄独立を夢見た伝説の女傑・照屋敏子』小学館、2007年

2008-04-12 10:46:05 | 評論/評伝/自伝
高木凛『沖縄独立を夢見た伝説の女傑・照屋敏子』小学館、2007年
          沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子
 照屋敏子(1915-1984)の評伝です。糸満で生まれ17年、幼少時代の魚売りで鍛えられ、19歳で糸満尋常小学校の恩師、照屋林蔚と結婚。それ以前から南洋にくりだし貿易に関与していていましたが、その後、那覇(照屋家)、鹿児島(疎開)、福岡(沖ノ島漁業団)、シンガポール(春光水産公司)、そして那覇に(クロコデールストア)、糸満(農水産研究所)と縦横無尽の活動でその人生を駆け抜けました。

 商才と喧嘩にたけ、糸満を本拠地とし、沖縄独立を夢見て獅子奮迅の活躍をした女傑の物語です。

 上記に紹介したもの以外にも、マッシュルーム栽培、鯉の養殖、メロン栽培、車エビ養殖、アオウミガメ増殖研究、スピルリナ試験栽培など多角的な経営を行いました。収益は大きかったものの、飽くなき事業拡大で借金も大きかったのです。

 「海の雌豹」「女山田長政」「女次郎長」の異名をとり、ヤクザともわたりあった敏子はその男勝りの気質のゆえに、娘と婿、息子たちとはそりがあわず生涯孤独でした。

 著者は敏子の破天荒な行動力、向こう見ずな実行力を「幻想力」となずけています。「敏子は自分の描いた幻想に持てるエネルギーと財力を惜しげもなく注ぎ込んで、敏子にとっての夢の沖縄、沖縄幻想を描いた」(p.209)と著者は書いています。

 敏子の沖縄独立論は、評論家の大宅壮一の主張に共鳴したからです(p.227)。

 著者が本書の執筆を思い立ったのは、敏子の親友であった石井好子に「照屋敏子を書いてごらんなさい」という手紙が発端だそうです。

 著者は脚本家であり、沖縄懐石「赤坂潭亭」主人でもあります。

黒田龍彦『田中耕一という生き方』大和書房、2003年

2008-03-30 00:46:00 | 評論/評伝/自伝

黒田龍彦『田中耕一という生き方』大和書房、2003年
                   田中耕一という生き方
 2002年、島津製作所(開発製造メーカー)のエンジニアである田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞しました。それまで、候補者としての話題にもならず、またいわゆる学者でもなかったことから、無節操なマスコミをも巻き込む大騒ぎになったことは周知のとおりです。

 本書はその田中さんの研究経歴、研究内容をわかりやすく解説しながら、彼の偉業を冷静に伝えようとした本です。

 田中さんの受賞理由は、「マトリックス支援レーザー脱離イオン化法」というレーザー光線をあててタンパク質を分析する技術に対する貢献です。たんぱく質は、レーザー光線をあてると壊れやすく、その方法自体が無理なことというのがこの世界の「常識」でした。田中さんは地道な実験を繰り返し、1985年に補助剤の試験でコバルト微粉末を混ぜるために使うべきアセトリンの替わりに、間違ってグリセリンを混ぜてしまいましたが、これがたんぱく質に関する
驚くべき分析結果を生み出し、新たな研究成果につながりました。

 たんぱく質・質量計という分野でのこの成果は、現在広く普及しているMALD1の質量分析計として製品化され(レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法及び試料ホルダ)、遺伝子研究、癌の治療などにその応用可能性が期待されています。

 田中さんの生い立ち(1959年富山県富山市出身)、研究経歴(東北大学工学部で卒論は「損失性媒質とダイポールアレイの組み合わせによる平面波の吸収」[テレビの電波障害を低減する研究])、島津研究所でのグループ研究の様子、研究の国際的な位置、ノーベル賞受賞式の風景、結婚と家庭生活、受賞時のメディアの喧騒など、多くのことが要領よく纏められています。 


無類の読書家だった米原万里さんの読書日記と書評

2008-03-18 00:28:04 | 評論/評伝/自伝

米原万里『打ちのめされるようなすごい本』文藝春秋、2006年
                      打ちのめされるようなすごい本 / 米原万里/著
 読書日記と書評の本です。無類の読書家だった著者の足跡でもあります。

 書籍と批評との巧まざる葛藤がそこにあります。井上ひさしさんが「解説」として「思索の火花を散らして」を書いていますが、まさにその「解説」の表題のとおりの内容です。通読すると著者の関心の所在がわかります。その軸は全くぶれていません。アメリカのイラク攻撃の暴挙に鉄槌を加え、それに追随する日本の現状に憂え、失望、落胆し、旧ソ連の全体主義、その延長にある現ロシアのチェチェン介入を糾弾し、NATOのコソボ爆撃に怒っています。

 アネクドート、ジョーク、笑いに共鳴し、
犬と猫を愛しみ長く同居していました。そして癌との闘い。

 ロシア語同時通訳では彼女の右に出る人はいませんでしたが、単なる通訳者ではない思想家、文学者としての彼女の素顔が生き生きと伝わってきます。

 強靭な思索力、読書力に驚嘆し、怪女のように思いましたが、反面怖がりで、優しい彼女の一面もうかがえました。人柄もよくわかるのです。

 本書の表題は彼女がつけたのでしょうか。それとも編集者でしょうか。彼女は生前から本書の出版を予定していたのでしょうか? それとも出版社が急遽、編集したのでしょうか。それというのも本書の刊行は彼女の死の直後だったからです。わたしは後者のような気がしますが、いずれにしても、85ページに「打ちのめされるようなすごい小説」という文章があり(トマス・H・クックの『夜の記憶』、丸谷才一の『笹まくら』が紹介、批評されている)、本書の表題はこれに由来しているように思われます。

 535ページの大部の本。しかも後半は上下二段組。読破に時間を要しました。索引に本書で取り上げられ、触れられた本、都合390冊の一覧があります。読みたいと思った本がたくさんありました。


北林谷栄『九十三齢春秋』岩波書店、2005年

2008-03-12 00:40:41 | 評論/評伝/自伝
北林谷榮『九十三齢春秋』岩波書店、2004年
                      九十三齢春秋
 たくさんの映画でこの女優さんの姿、演技は見ました。「キクとイサム」とか「阿弥陀堂便り」とか。舞台では、機会がなく、観ることができなかったのは残念です。

 自らの93年の人生を振り返って編んだ本がこの『九十三齢春秋』です。

 銀座・大野屋の娘で,本を読み漁った少女時代,宇野重吉によって開花したおばあさん役,自ら子供から大人になる契機だったと語る関東大震災。そこで見た虐殺された朝鮮人の姿。

 祖母との触れ合い,演劇人との出会い,それらが強い批判精神で,しかし茶目化も交えて綴られています。おばあさん役では彼女の右に出るものはいないといわれますが,本当のおばあさんの中に入ると「自分をニセ金だと思う」と述懐するあたり,素直な心に胸が熱くなります。

 いろいろな所に書かれたものがまとめられた本ですが,編集者も長けた人だと思いました。

 この本のつくりは「エッセイ」ですが、北林さんのそれですから「演劇」のカテゴリーに入れました。

要するに奇人・変人列伝です

2008-03-08 00:07:37 | 評論/評伝/自伝

中野翠『会いたかった人』徳間書店、1996年
                  会いたかった人
 大学入学時にはロシア文学のほうに進もうと思っていました。その時、ゲルツェン、チェルヌイシェフスキーなどを研究したいと漠然と考えていました(その後、文学畑にいく能力がないと悟り、諦め、方向転換しました)。そのチェルヌイシェフスキーのことが書かれている本と言うことを知って、市の図書館でこの本を借りました。

 チェルヌイシェフスキーも面白かったのですが、この本は端的に言えば「奇人・変人・怪人」列伝です。事柄の性質上、登場人物に男性が多いのはいたしかたないところ。

 ジョージ・オーウェル、左卜全、田中清玄、古今亭志ん生、ロバート・フィッシュ、プレストン・スタージェス、ピーター・ローレ、淡島寒月、熊谷守一、今和次郎、佐分利信、P・G・ウッドハウス、福地桜痴、三田平凡寺、福田恆存、松廼家露八、内田魯庵、依田学海、徳川夢聲、ジェイムス・サーバー、中里介山。女性ではココ・シャネル、エルザ・スキャッパレリ、ダイアン・アーバスなど(そうそう樋口一葉も入っていますが、彼女は奇人・変人ではないと思います)。

 表題が「会いたかった人」なので、著者はこれらの面々との肌合いを確かめています。例えば、チェルヌイシェフスキーとは「ロシア紅茶でも飲みながら、夜を徹しておしゃべりしたくてたまらなくなる」(p.22)、左卜全とは「もし、私がいきなり左卜全に会ったら、どう見られるだろうか・・・。こわいけれど、会ってみたかった」(p.48)、と言った具合です。

 手に負えないと思ったのだけれど、「仕返し、再挑戦をしたい」のは中里介山だそうです(p.270)。

 ところが読み進むうちに感じたのは著者も結構「奇人・変人」で、結局自分を語っているようなところがあります。彼女がどんな人かは、この本を読めばだいたい分かります。明け透けなので・・・。

 冒頭のジョージ・オーウェルの箇所で、筆者は
自身の職業が文筆業ですが、確固とした思想はなく、ファシズム的なもの(集団的熱狂、陶酔)が大嫌いで、個人主義の自前の旗をたてていく、頭より体のほうを頼りにして、と言っています(pp.9-10)。


シュテファン・ツバイク『人類の星の時間』みすず書房、1996年

2008-03-03 00:25:49 | 評論/評伝/自伝

シュテファン・ツバイク/片山敏彦訳『人類の星の時間』みすず書房、1996年
                        人類の星の時間 (みすずライブラリー) (みすずライブラリー)
 「時間を超えてつづく決定が、或る一定の日付の中に、或るひとときの中に、しばしばただ一分間の中に圧縮されるそんな劇的な緊密の時間、運命を孕むそんな時間は、個人の一生の中でも歴史の経路の中でも稀にしかない」(p.2)。それが「星の時間(Sternstunde)」です。

 「不滅の中への逃亡ー太平洋の発見ー(1913年9月25日)」
 「ビザンチンの都を奪い取る(1453年9月29日)」
 「ゲオルグ・フリードッリヒ・ヘンデルの復活(1741年8月21日)」
 「一晩だけの天才ーラ・マルセイエーズの作曲ー(1792年4月25日)」 
 「ウォターローの世界的瞬間ー1815年6月18日のナポレオンー」
 「マリーエンバートの悲歌ーカルルスバートからヴァイマルへの途中のゲーテ(1823年9月5日)」
 「エルドラード(黄金郷)の発見ーJ・A・ズーター、カリフォルニアー(1848年1月)」   
 「壮烈な瞬間ードストエフスキー、ペテルスブルグ、セメノフ広場ー(1849年12月22日)」
 「太陽をわたった最初のことばーサイラス・W・フィールドー(1858年7月28日)」 
 「神への逃走ー1910年十月の末 レオ・トルストイの未完成の戯曲『光闇を照らす』への一つのエピローグ(終曲)」
 「南極探検の闘いースコット大佐、90緯度ー(1912年1月16日)」
 「封印列車ーレーニンー(1917年4月9日)」。

  作品ごとに、「そうだったのか・・・」という感嘆と、人間の生き方の綾が感じられます。 世界史に精通している人ならば、ものすごく深く楽しめます。

 格調高い、片山敏彦訳です。高邁な叙事詩、思想詩です。


植物学者・牧野富太郎の生涯

2008-02-13 00:32:55 | 評論/評伝/自伝
大原富枝『草を褥に』小学館、2001年
          草を褥に―小説牧野富太郎 (サライBOOKS)
 わたしが小学校低学年の頃だったと思いますが、夏休みの「自由研究」で押し葉をし、草の名を調べるために牧野富太郎の『野草図鑑』を買ってもらいました。以来、牧野富太郎の名は頭から消えず、偉大な植物学者だということは分かっていましたが、それだけのことでした。この本を読んで、この学者がどういう人だったのかが良く理解できました。

 土佐の富裕な造り酒屋の息子で(1862年生まれ[文久2年])、子どものころから聡明。佐川郷校名教(メイコウ)館(今の小学校)で学びますが、公教育はそこで打ち止め、学歴に全くこだわらず、一途に自然との対話のなかで植物の研究に打ち込み、日本を代表する植物学者となり、画期的な研究業績を残しました。植物の画も沢山書いていますが、どれも生き生きと素晴らしいものです。

 彼は植物学者の申し子のような人でしたが、経済観念は全くありませんでした。実家を破産させただけでなく、多額の借金をつくっても、そのことに頓着がなく、家族は貧窮の連続でした。富太郎は優れた研究者でありながら、破天荒な生活を続けていたのです。

 しかし、膨大な借金で絶体絶命の窮地に陥っても、不思議とその支払いに名乗りをあげてくれる人が出てきました。さらに、妻となり、6人の子を育てた(13人妊娠したが)寿衛子が献身的に家計をきりもりし、かつ大正の初期から待合(渋谷)の経営にたずさわることで富太郎を経済的に支え、さらにそのことによってつくった資金で700坪の土地を購入。富太郎の研究の場を確保しました(現在、東大泉にある「牧野記念公園」)。

 妻・寿衛子が書いた手紙が残っていて、著者は「一連の寿衛子の幼いが思いのこもった手紙が存在したために、わたしはこの作品を書くことが出来た」と書いています(p.101)。そして「もう足かけ数年もこの素材に打ち込んで来たわたしには、彼女はもう他人のようには思えないのであった」とその心境を語っています(p.208)。効果的に引用されている寿衛子の手紙は、地味で虚飾のないものですが、それゆえに却って胸に響きます。

 富太郎享年94、寿衛子享年55。表題は富太郎が晩年に好んで使った「草を褥に木の根を枕 花と恋して90年」という言葉からです。

おしまい。

大下英治『太地喜和子伝説』河出書房新社、2000年

2008-01-02 01:32:06 | 評論/評伝/自伝
大下英治『太地喜和子伝説』河出書房新社、2000年
        
太地喜和子伝説
 1992年10月13日午前2時ころ、太地喜和子はi伊東での「唐人お吉ものがたり」公演後、居酒屋で飲んだ後、彼女を含め4人が乗り合わせた車ごと堤防から海に転落、溺死しました(彼女のみ)。48歳の人生でした。

 本書の内容は、今や伝説の女優となった喜和子の生涯です。通読して、今更ながら、その死は残念の一言です。間違いなく、杉村春子を継いで文学座の中心になる女優でした。

 天性の舞台人、くわえて勉強家でした。新劇俳優ながら歌舞伎の型を目指していました。著者は彼女の周囲の人たちの交流をとおして、彼女の人となりを浮き彫りにしています。

 登場する人物は、三国連太郎、中村勘九郎(当時)、尾上菊五郎、山城新伍、勝新太郎、波野久里子、藤田弓子、佐藤陽子(ヴァイオリニスト)、北大路欣也、新藤兼人(映画監督)、柳町光男(映画監督)、木村光一(演出家)、蜷川幸雄(演出家)、秋元松代(脚本家)、西舘好子、等々。とくに藤田さん、佐藤さんとは喧嘩もしたが、親しかったようです。

 舞台での「近松心中物語」「仮名手本忠臣蔵」「心中宵庚申」「ハムレット」「ジェルソミーナ」は絶品だったと言います。

 映画では「火まつり」「花を喰う蟲」「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」「藪の中の黒猫」などに出演しています。観てみたいものです。

 とにかく大酒のみで、男性遍歴は絶えることがなかったことでした。酒を飲むと男が欲しくなるタイプ、男を食って生きていきていたと、この本にあります。恋多き女性でしたが、その心根は闇のように深く、寂しがりやでした。自身の本当の親は知らなかったそうです。

 その死は謎に包まれています。車に同情していた2人の男性は自力で助かり(彼女は助手席にいた)、運転していた女性も助かりました。現場はそれほど深くなく、泳げなかったが木原美知子のスイミングの指導を受けていた彼女だけがどうして水死してしまったのでしょうか? 「不可解」との説もあります。

 ただ、この本を読むと、事故死の前から、あまり体調はよくなく、できれば「唐人お吉ものがたり」の全国公演もキャンセルしたかったらしく、直前に知人の医者に「診断書」を依頼していたそうです。また眼も悪くなっていたとの記述もあります(緑内障)。

 素晴らしい女優で、いい女でした。惜しい人を亡くしました。

 この本には目次がありません。ずーっと一本調子で書かれています。話があちこち結構飛びます。著者の作為があるのでしょうか。

おしまい。

アラン・ビーズ,バーバラ・ビーズ/藤井由美訳『話を聞かない男、地図を読めない女』主婦の友社

2007-12-09 10:50:58 | 評論/評伝/自伝
アラン・ピーズ,バーバラ・ピーズ/藤井留美訳『話を聞かない男、地図を読めない女』主婦の友社、2000年
          
 男と女は決定的に異なった生き物なので、それを承知でつきあえば関係は円滑になるということを説いた本です。差別ではなく、違い、区別の強調です。

 その根拠は、人類の何十万年もの長い歴史のなかで、基本的に男は狩猟に、女は家族の保全と育児に携わり、そのことが生物体としての男女の脳の機能、ホルモンの作用の形成に影響を及ぼし、男女の性格の区別をつかさどったというのです。それは近現代になっても変わらないことで、性の区別は遺伝子としてインストールされています。

 男女平等は人間の文化、政治社会の産物です。それは人間の進化の象徴ですが、生物体としての男女の機能が消失したわけではありません。このことの相互の理解が男女のよりよい関係の構築に不可欠である、というわけです。

 もう少し具体的言うと、女性は複数の行動を同時にこなせます。コミュニケーション能力、言語能力に優れています。女は家族の保全と育児に歴史的に携わってきたからです。これに対し、男性は決断力、空間的判断、目的達成能力に優れています。男は狩猟を主としてきたからです。

 この本の表題はこのことの表現です。空間的判断に弱い女性は「地図が読め」ず、「縦列駐車が苦手」で、ふたつの脳の連絡が悪い男性は「何かの行動をしながら人の話を聞くことができない」のです。セックスにもとめるものも異なります。

 その根拠は、左脳と右脳の働き方の相違にあると言います。とりわけ、女性はふたつの脳の連絡が強固で、太いことが、男性のそれはは弱く、細いことが、そうした行動の弱点に繋がっているそうです。原因を突き詰めていくと、男性の男性たる性格と行動原理とはテストステロンというホルモンの分泌によって、女性の女性たるそれはエストロゲンというホルモンの分泌によってもたらされるのです。

 なるほど、この本が主張するような事実と根拠は、あるかも知れません。豊富な事例が出ていますが思い当たる節は、あります。

 上記のような説明はとかく、男女の性役割分業を固定し、女性の地位を貶めるかのような理解につながりかねませんが、この本はそのような主張をしているわけではありません。念のため・・・

 出版当時、爆破的に売れていた記憶がありますが、ベストセラーという宣伝文句がキライだったので当時は読まず、今頃になってようやく手にしました。

 おしまい。

波瀾万丈の人生-李方子

2007-12-06 01:11:56 | 評論/評伝/自伝
小田島雄次『李方子ー一韓国人として悔いなく』ミネルヴァ書房、2007年

 李王家皇太子妃である李方子(り・まさこ/イバンジャ、[1901-89])の評伝です。

        
李方子―一韓国人として悔いなく (ミネルヴァ日本評伝選)

 梨本宮守正と(鍋島)伊都子の子として生まれ、20歳で李王家最後の皇太子であった李大王の子・李垠(リ・ウン)と結婚した方子(1920)。彼らの結婚は戦前の日本が韓国を支配する政策の一環としての国策でした。このことによって「日韓融和」が喧伝されましたが、実際には朝鮮人の同化、日本人化の推進に利用されたのでした。

 方子の結婚は、本人がそのことを知る前に新聞紙上の記事から知ったというものでした(李垠は1907年に満11歳で伊藤博文が教育目的に日本に連れて来ました)。

 彼らの結婚には、悲劇が付きまとっていました。予定されていた結婚が李大王の急死で延期されましたし(毒殺説があります)、最初の子・晋は朝鮮での覲見式、宗廟への奉審の儀にともなって行われた晩餐会の後に急死しました(これも毒殺説があります)。

 関東大震災、戦中の苦労。敗戦後、日本国憲法施行の前日に公布された皇室令第12号によって王皇族としての地位と身分の喪失、さらに戦後は李承晩から疎まれ、1963年まで韓国への帰国が許されませんでした。

 帰国後、李垠と方子とは大韓民国国民となります。方子が輝くのは、夫の死後(1970年)、韓国で始めた、慈善・福祉活動によってでした(身体障害者のための明園の設立など)。

 母であった伊都子の「日記」と方子の著作『流れるままに』を下敷きに、方子の波乱万丈の人生を、大正、昭和の出来事、歴史的事件をふんだんにもりこみながら、たどった異色の評伝です。

「第1章・梨本宮方子の日々」「第2章・李王族の一員に」「第3章・動乱の時代」「第4章・流転」。巻末の「李方子年譜」は重要です。

 わたし自身は、皇族の私生活などに全く関心がありませんが、このような評伝のあり方も歴史の一こまを知る手がかりとして貴重であると思ったことでした。

おしまい。おやすみなさい。