20年間、「らいてふ」と交流があっただけでなく、最後の病床でも看護にあたった著者による「らいてふ」研究です。
「らいてふ」は1886年、東京生まれ。本名は「平塚明(はる)」。「青踏社」をたちあげ(1911年)、「原始女性は太陽であった」と宣言し新しい女、と当時の世間を騒がせました。
この本は、わたしの旧来の単純な「らいてふ」像を改めさせてくれました。「らいてふ」は、女性の能力の発露を願い、「青踏」を女性の作品の発表の場として提供。
早くから禅の研究に入り、またある種の皇国史観ももっていたとのこと。奥村博史と長く同棲。子が二人。1941年に入籍。
戦前には消費組合運動の先頭にたち、戦中には疎開先(茨城県北相馬郡戸田井)で農耕生活、そして戦後には非武装・再軍備反対、安保条約阻止などの運動に積極的にかかわりました。
著者は、『平塚らうてふ著作集』(全8巻)の編集にたずさわり、病床での自伝の口述を筆記するという大きな仕事を成し遂げました。
「らいてふ」病床の日々の様子が詳しく書かれています。
「らいてふ」は1886年、東京生まれ。本名は「平塚明(はる)」。「青踏社」をたちあげ(1911年)、「原始女性は太陽であった」と宣言し新しい女、と当時の世間を騒がせました。
この本は、わたしの旧来の単純な「らいてふ」像を改めさせてくれました。「らいてふ」は、女性の能力の発露を願い、「青踏」を女性の作品の発表の場として提供。
早くから禅の研究に入り、またある種の皇国史観ももっていたとのこと。奥村博史と長く同棲。子が二人。1941年に入籍。
戦前には消費組合運動の先頭にたち、戦中には疎開先(茨城県北相馬郡戸田井)で農耕生活、そして戦後には非武装・再軍備反対、安保条約阻止などの運動に積極的にかかわりました。
著者は、『平塚らうてふ著作集』(全8巻)の編集にたずさわり、病床での自伝の口述を筆記するという大きな仕事を成し遂げました。
「らいてふ」病床の日々の様子が詳しく書かれています。
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