【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

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武田徹『「核」論-鉄腕アトムと原発事故のあいだ-』勁草書房、2002年

2011-05-11 00:03:19 | 評論/評伝/自伝

           「核」論

 「はじめに」と「おわりに」を除くと、目次は以下のようになっていて、それだけでかなりユニークと感じられます。「核」の時代論です。

・1954年論:水爆映画としてのゴジラ-中曽根康弘と原子力の黎明期-
・1957年論:ウラン爺の伝説-科学と反科学の間で揺らぐ「信頼」-
・1965年論:鉄腕アトムとオッペンハイマー-自分と自分でないものが出会う-
・1970年論:大阪万博-未来が輝かしかった頃-
・1974年論:電源三法交付金-過疎と過密と原発と-
・1980年論:清水幾太郎の「転向」-調和、安保、核武装-
・1986年論:高木仁三郎-科学の論理と運動の論理-
・1999年論:JCO臨界事故-原始力的日光の及ばぬ先の孤独な死-
・2002年論:ノイマンから遠く離れて

 この構成を著者は次のように説明しています、「この本において試みた諸問題群の再編集法は、そんな重層性を少しでも解きほぐすための挑戦だった。視線を少しでも深く核の問題が孕む本質に向かって届かせるために、かえって幾つもの迂回路を通る作業をした。メインカルチャーだ、大衆的意識がより表出しやすいサブカルチャーも横断的に各論を総合することで「核」観の輪郭が描きだせれば良いと思った」と(pp.255-256)。

 要は核がどのように扱われてきたか、その来歴を王道で、また回り道をしながら論じたのが、この本の内容です。したがっていろいろなことが、一方で俯瞰的、歴史的に、他方で微視的、具体的によくわかります。

 1950年代半ば、原子力委員会を、科学者の懸念を無視してたちあげたのが正力松太郎。そして原子炉構造予算2億3500万を国会で通過させた中曽根康弘、それは第五福竜丸の被爆ニュースが公にされた直前のことでした。ここは重要です。 日本の原子炉政策のスタートはこのように危険で、強引なものだった、ということです。

 そして、原子炉をどのように設置するのか、この難問を後押ししたのが電源三法交付金。過疎・過密の解消するかのような幻想をふりまくこの法律は実は過疎・過密を前提し、固定化する内容のものであり、また原子炉反対派がよく言う「原子炉を推奨するならそれを東京につくればいいのではないか」という物言いに対して、すでに「東京(基本的には都市)には作れない、作らない」ことを巧妙に盛り込んだものでした。

 著者は原子炉がなければたちゆかなくなっているこの社会を「原子力的日光の中でのひなたぼっこ」と捉え、この原子力的日光の認識こそが核の影が落ちている現代社会を理解するカギと考え、この本を執筆したようです。核が偏在する世界の状況を描き出し、そうした状況を生きる覚悟や技術を書こうというわけです。

 その核問題に対しては原子力エネルギー利用への取り組みに対しても、そのハンタイ派の運動と思考パターンにも「非共感的」姿勢を貫き、「つまりどちらを向いても共感できない状態において原子力に対峙し、なんとか活路を見出そうそした」と「あとがき」で、執筆にさいしてのコンセプトを開陳しています(p.254)


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