日韓の歴史をたどる⑪ 朝鮮蔑視感の形成 「文明と野蛮」日清戦争で決定的に
趙 景達
チョ・キョンダル 1954年生まれ。千葉大学教授(朝鮮近代史・近代日朝比較思想史)。『植民地朝鮮と日本』『近代朝鮮と日本』ほか
一般に隣国同士というのは、仲が良くない。日本の朝鮮蔑視観というのも古くからある。「神功皇后の三韓征伐」(注)の神話はそのことをよく物語っている。豊臣秀吉の朝鮮侵略は日本神国観を育み、それを加速した。
江戸時代には通信使による善隣外交があったことは有名だが、その裏面では、朝鮮には日本の侵略に対する疑心暗鬼があったし、日本は国内向けには朝鮮を朝貢国のように見なそうとした。対馬藩士による通信使随行員の殺害事件も起きている。幕末に吉田松陰に代表されるような征韓論が出てくるのもよく知られている。
しかし江戸時代には、やはり全体的には善隣が維持されていたと言えるであろう。通信使を一目見ようとする人びとは、来日のたびに後を絶たなかったし、彼らが帰った後には「朝鮮ブーム」が巻き起こり、人々は勝手に朝鮮服を作って「唐人踊り」に明け暮れた。日本各地には朝鮮通信使にまつわる祭りも誕生した。
神功皇后札(1円、1881年発行)。日本の紙幣で初めて人物の顔が入った(日本銀行貨幣博物館蔵)
神功皇后の三韓征伐
『古事記』『日本書紀』に登場する、新羅、百済、高句麗を服属したとする神話。戦前、学校教育や紙幣の顔写真などを通じ史実として教え込まれた
善隣の外交が明治期に急転
こうした事態が急転するのは、明治時代に入ってからである。1876(明治9)年、明治政府の発足以来途絶えていた外交関係の修復のために、およそ100年ぶりに朝鮮からやって来た修信使に対して、東京の民衆は、維新政府が進める文明開化政策の論理を内面化し、そのまなざしから侮蔑的に嘲笑したことが分かっている。明治初期にあった日本人の西洋人への劣等意識が、朝鮮を他者化し劣位に置くことで解消されていく。
各地にあった通信使にまつわる祭りも消滅していった。現在では、津祭(三重県)や川越祭(埼玉県)など、わずかに残されている程度である。
こうしたなか、日本の中の朝鮮として特異な位置を占めていた鹿児島の苗代川(なえしろがわ)の人々は、大変苦しんだ。彼らは薩摩が朝鮮出兵の際に連れてきた朝鮮人の後裔(こうえい)だが、朝鮮語の使用や習俗を藩命によって維持していた。そのため、血統的には地元民との婚姻によってすっかり日本化していたのだが、意識としては朝鮮人であることを誇りとして生きていた。
しかし、国民国家化が進展していくなかで、朝鮮の姓を名乗る彼らに対する差別が醸成されていくと、多くの者がこの村を離れた。日米開戦の際に外務大臣であった東郷茂徳は、その代表的な人物である。
それでも、文明開化と富国強兵が進行していくなかで息苦しさを感じていた日本民衆は、朝鮮を侮蔑する一方で、同じく排除されゆく者同士という認識から、朝鮮人に対して共感する側面もあった。
講談などでは、日清戦争直前頃までそうした複雑な民衆の思いに仮託した朝鮮ものが人気を博していたという(青木然「日本民衆の西洋文明受容と朝鮮・中国認識」)。朝鮮観が侮蔑一色の方向に転じるのは、日清戦争を契機にしてである。
貶めることで植民を正当化
文明と野蛮の戦争と喧伝(けんでん)された日清戦争では、それまでも流布されていた「惰弱(だじゃく)」「因循姑息(いんじゅんこそく)」「驕慢(きょうまん)不遜」「無能」「不潔」などのステレオタイプ化された中国イメージが決定的となり、侮蔑的な「支那」観が確立した。そして、朝鮮は中国以下的なものとされ、「朝鮮人」という言葉は「おかしなもの」「卑劣なもの」とイメージされ、「ばか」の代名詞にさえなっていく。福沢諭吉などは、晩年「其の卑劣朝鮮人の如し」とか「朝鮮人見たような奴」などと平然と言った(『福翁自伝』)。
朝鮮は、陽画である日本とは非対称な陰画であった。人々の心は愛国の熱情で満たされ、朝鮮を貶めれば貶めるほど、日本人の自信は深まった。朝鮮は日本の植民地になっても仕方のない哀れな落後した国であり、朝鮮を見るにつけ日本人であることの幸せを感じることができた。
しかし現在、国力を付けた韓国は、日本と並走しようとするまでになった。グローバリゼーションが進展していくなかで自信を喪失しつつある日本人は、もはやそう簡単には韓国人を貶めることも、韓国人を見て自らを幸せだと思うこともできない。朝鮮蔑視観に根をもつ嫌韓論が蔓延するゆえんである。だが嫌韓感情は、若者にはあまりないという。未来を楽観できる芽が大きく育つことを願うばかりである。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年10月8日付掲載
日本と朝鮮や中国との関係は、古代から通じて基本的には善隣であったといえる。疎遠だった時期もあるし、「白村江の戦い」「元寇」「秀吉の朝鮮出兵」などの戦乱の時期もあった。
それが急転したのが明治期だということだ。
趙 景達
チョ・キョンダル 1954年生まれ。千葉大学教授(朝鮮近代史・近代日朝比較思想史)。『植民地朝鮮と日本』『近代朝鮮と日本』ほか
一般に隣国同士というのは、仲が良くない。日本の朝鮮蔑視観というのも古くからある。「神功皇后の三韓征伐」(注)の神話はそのことをよく物語っている。豊臣秀吉の朝鮮侵略は日本神国観を育み、それを加速した。
江戸時代には通信使による善隣外交があったことは有名だが、その裏面では、朝鮮には日本の侵略に対する疑心暗鬼があったし、日本は国内向けには朝鮮を朝貢国のように見なそうとした。対馬藩士による通信使随行員の殺害事件も起きている。幕末に吉田松陰に代表されるような征韓論が出てくるのもよく知られている。
しかし江戸時代には、やはり全体的には善隣が維持されていたと言えるであろう。通信使を一目見ようとする人びとは、来日のたびに後を絶たなかったし、彼らが帰った後には「朝鮮ブーム」が巻き起こり、人々は勝手に朝鮮服を作って「唐人踊り」に明け暮れた。日本各地には朝鮮通信使にまつわる祭りも誕生した。
神功皇后札(1円、1881年発行)。日本の紙幣で初めて人物の顔が入った(日本銀行貨幣博物館蔵)
神功皇后の三韓征伐
『古事記』『日本書紀』に登場する、新羅、百済、高句麗を服属したとする神話。戦前、学校教育や紙幣の顔写真などを通じ史実として教え込まれた
善隣の外交が明治期に急転
こうした事態が急転するのは、明治時代に入ってからである。1876(明治9)年、明治政府の発足以来途絶えていた外交関係の修復のために、およそ100年ぶりに朝鮮からやって来た修信使に対して、東京の民衆は、維新政府が進める文明開化政策の論理を内面化し、そのまなざしから侮蔑的に嘲笑したことが分かっている。明治初期にあった日本人の西洋人への劣等意識が、朝鮮を他者化し劣位に置くことで解消されていく。
各地にあった通信使にまつわる祭りも消滅していった。現在では、津祭(三重県)や川越祭(埼玉県)など、わずかに残されている程度である。
こうしたなか、日本の中の朝鮮として特異な位置を占めていた鹿児島の苗代川(なえしろがわ)の人々は、大変苦しんだ。彼らは薩摩が朝鮮出兵の際に連れてきた朝鮮人の後裔(こうえい)だが、朝鮮語の使用や習俗を藩命によって維持していた。そのため、血統的には地元民との婚姻によってすっかり日本化していたのだが、意識としては朝鮮人であることを誇りとして生きていた。
しかし、国民国家化が進展していくなかで、朝鮮の姓を名乗る彼らに対する差別が醸成されていくと、多くの者がこの村を離れた。日米開戦の際に外務大臣であった東郷茂徳は、その代表的な人物である。
それでも、文明開化と富国強兵が進行していくなかで息苦しさを感じていた日本民衆は、朝鮮を侮蔑する一方で、同じく排除されゆく者同士という認識から、朝鮮人に対して共感する側面もあった。
講談などでは、日清戦争直前頃までそうした複雑な民衆の思いに仮託した朝鮮ものが人気を博していたという(青木然「日本民衆の西洋文明受容と朝鮮・中国認識」)。朝鮮観が侮蔑一色の方向に転じるのは、日清戦争を契機にしてである。
貶めることで植民を正当化
文明と野蛮の戦争と喧伝(けんでん)された日清戦争では、それまでも流布されていた「惰弱(だじゃく)」「因循姑息(いんじゅんこそく)」「驕慢(きょうまん)不遜」「無能」「不潔」などのステレオタイプ化された中国イメージが決定的となり、侮蔑的な「支那」観が確立した。そして、朝鮮は中国以下的なものとされ、「朝鮮人」という言葉は「おかしなもの」「卑劣なもの」とイメージされ、「ばか」の代名詞にさえなっていく。福沢諭吉などは、晩年「其の卑劣朝鮮人の如し」とか「朝鮮人見たような奴」などと平然と言った(『福翁自伝』)。
朝鮮は、陽画である日本とは非対称な陰画であった。人々の心は愛国の熱情で満たされ、朝鮮を貶めれば貶めるほど、日本人の自信は深まった。朝鮮は日本の植民地になっても仕方のない哀れな落後した国であり、朝鮮を見るにつけ日本人であることの幸せを感じることができた。
しかし現在、国力を付けた韓国は、日本と並走しようとするまでになった。グローバリゼーションが進展していくなかで自信を喪失しつつある日本人は、もはやそう簡単には韓国人を貶めることも、韓国人を見て自らを幸せだと思うこともできない。朝鮮蔑視観に根をもつ嫌韓論が蔓延するゆえんである。だが嫌韓感情は、若者にはあまりないという。未来を楽観できる芽が大きく育つことを願うばかりである。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年10月8日付掲載
日本と朝鮮や中国との関係は、古代から通じて基本的には善隣であったといえる。疎遠だった時期もあるし、「白村江の戦い」「元寇」「秀吉の朝鮮出兵」などの戦乱の時期もあった。
それが急転したのが明治期だということだ。