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仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

死をめぐる有縁と無縁 (2):動物の死

2006-11-16 15:40:24 | 書物の文韜
『季刊東北学』第9号

柏書房, 2006-11

上記掲載の中村生雄さんの新稿「ペット殺しと動物殺し」を読みました。先に感想を書いた、土居さんの論考と〈死をめぐる有縁/無縁〉といった共通項を持つ内容です。土居さんの〈死〉は人間のものですが、こちらは動物が対象。死者のなかには、忘却/想起以前に、記憶されることのなかったもの、認識されることすらなかったものもあります。まさに、主観レベルで〈無縁〉状態に置かれ、それゆえに生者には介入しないもの。人間以外の生命であればその割合はなおさら高く、〈ペット殺し〉など典型的な事例といえるでしょう。

中村さんは、このエッセイのなかで坂東真砂子の「子猫殺し」問題に触れ、生物が生きる意味を喪失している現代日本社会の病に対する批判こそ、彼女の告白の真の目的であったと指摘します。さらに、小林照幸氏の近著『ドリームボックス―殺されてゆくペットたち―』(毎日新聞社、2006年)を紹介、ペットブームの裏で年間40万匹に及ぶ犬猫が殺処分される現実を提示。さらに坂東真砂子の言葉を借りて、食用動物として鶏7億羽、豚1600万頭、牛126万頭がされ、人工中絶によって失われる人間の命も30万以上に上ることを浮き彫りにします。「そんな人間の側の勝手な都合が大手をふって歩いているのが現代社会の実情だが、そうしたペットへの愛情がさらに高じて溺愛になり、病理的な様相を呈するまでにいたったのが昨今の日本ではないか」「なぜそんなにペットが溺愛されるか。坂東はそれを、人間の世界における愛情の不毛と砂漠化の結果なのだと言う。ほんとうは誰か人を愛したいのに、人はことばをしゃべって反論もするし、裏切ったり見棄てたりもする。むろんペットはそんなことをしないから、人間への愛の代わりとしてペットほど都合のいいものはない。かくしてペットへの愛情は洪水のように溢れかえり、それは同時に人間どうしの愛情を不毛にし、砂漠化する。愛情の不毛は不妊につながり、生殖活動の枯渇をもたらす」(p.66)。エッセイは、坂東と批判者との応酬のなかに病理のうごめくさまを見据え、そこにより普遍的な〈動物殺し〉との連続/非連続を展望して閉じられます。

異常なほどの衛生ブームにより次々とヒットを飛ばす消毒系商品、洗剤、殺虫剤。安価なドラッグストアには薬品が溢れていますが、その大量生産の陰には、これまた無数の実験動物たちの〈意義ある死〉体が横たわっている。人間を頂点とする現代文明の生命ピラミッドが、生態系の連鎖にメスを入れてイリーガルな秩序を作り出し、無数の動植物を犠牲にすることで屹立している事実は、あらためて指摘するまでもないでしょう。人間の枯渇を癒すツールとしてのペット・ブームは、本質的には有縁である動物たちの死を無縁の闇に沈め、ピラミッドを自覚しないことで成り立っている(しかし、三角錐の頂点というのは無限に小さく、そして孤独なんですねえ)。動物との関わり方は、エコロジカルな意味ではまさに〈互酬〉的であることが理想なのでしょう。宮澤賢治の「なめとこ山の熊」のように、自らの生命のために殺し/殺されうる関係ですね(中沢新一の〈対称性〉のように、契約の魔法で動物側の対等の利益/人間側の対等の損害が封じられるのではなく)。しかし、ドメスティケーションに始まる動物との関係の文明化を解体せずに生きてゆくにしても、その改善への道が一切閉ざされているというわけではありません。家畜もペットも、人間の社会・文化を根底から揺さぶる脅威を完全に失ってはいない。中村さんのエッセイに坂東の所論としてまとめられた、「ペットは人間のように自分を傷つけない」という見方には、どこか少し違和感があります。ペットだって人間不信に陥るものもあれば、特定個人を毛嫌いする場合もある。その一挙手一投足が我々を一喜一憂させ、時には心のなかを掻きむしることもある。動物と真摯に向き合おうとすれば、そこには様々な葛藤が発生してくるはず。だからこそ、それに耐えられない人間、現状(無痛?)を維持しようとする人間が、彼らとの関係を放棄する(縁を切る、そして無縁化する)というわけでしょう。かくいう私も、動物の死を恐れて(とくにそれを早めることに自分が加担してしまうことを恐れて)ペットを飼わないわけですが、それはある意味、〈ペット殺し〉と同じくらいの残酷性を帯びているのかも分かりません。

いずれにしろ、ここでもまずは、〈個と個との関係〉ということでしょうか。
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動物と植物と人物 (イノ)
2006-11-22 09:27:06
中村さんによる引用の引用の引用になってしまうのですが、坂東さんの「人はことばをしゃべって反論もするし、裏切ったり見棄てたりもする。むろんペットはそんなことをしないから、人間への愛の代わりとしてペットほど都合のいいものはない」という理屈はなんだか当たり前すぎて、違和感どころかまったく違うんじゃないかなあと思ってしまいます。「溺愛」や「病理的様相」の説明としても、違う角度からの切り口が必要なんじゃないかと。
植物が好きな者どうしの日常会話で「ボクは(動物を飼うのではなくて)植物。植物は静かだからね。」「そうですね」というのを交わしたとき、「静か」っていうのは「植物は言葉も音声も発しないを話さない」ということだなと了解した、という覚えがあります。じゃあ植物はペットよりもさらに人を傷つけないから、植物との関係に逃げ込み、溺愛するんだろうか。そうじゃないだろう。
人は人どうしの関係だけじゃなくて、人じゃないものを含めた物との「無駄」で非対称的なバランスを欠いた関係(「愛」?)を持ちたくなってしまうのではないでしょうか。
人間が人間どうしの関係の中でのみあることを前提としている(常識的会話は人間中心主義が大前提ですよね)のが、「ペットは人間のように自分を傷つけない」(からペットとの関係にハマル)という見方にはあるのではないか。

「家畜もペットも、人間の社会・文化を根底から揺さぶる脅威を完全に失ってはいない」と私も思います。さらに植物も、人間の子どもも、と付け加えたいです。なんでだろ?あとでゆっくり考えよう(笑)。
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人間化する〈野生〉 (ほうじょう)
2006-11-27 17:24:36
仰るとおりでしょうねえ。人間の求める他の生命との関係を、生態系的な欲求として〈自然〉の範疇で捉えるのか、それとも無軌道な欲望の暴走を掣肘する防衛規制として〈人文〉の領域で捉えるのか。後者の視点に立つのはちょっと性善説的、希望的観測でしょうかね。レヴィ=ストロースでしたか、親が子供に動物のぬいぐるみなどを与えたり、ペットを飼わせたりして無意識に動物との親近性を高めようとするのは、人間が動物を通じて(つまりメディアとして)自然のなかで生きる多様な情報を得てきたからなのだ、といっていた気がします。ただ、人間は他の生命を擬人化することでしかうまくコミュニケーションできない面があるので、坂東真砂子のいうような動物との付き合い方、人間の代用品としての動物、という位置づけも少なからず存在してしまうんでしょうね。ああ、アイデンティファイの恐ろしさ。
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