仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

連休の狭間:『モンゴル』と『流れ行く者』

2008-05-01 12:06:22 | 劇場の虎韜
4/30(水)、連休の狭間である。月曜には日本史概説と公開学習センターの「異界」話(この日は工藤さんによる刀の話。やはり、刀は異界を開くもの、またその過剰な力から身を守るツールなのだということをあらためて認識)、火曜は終日論文執筆。そして今日は午前中から会議で、その後は13:30~18:00過ぎまで続けて授業(ひぃ~)。帰りに銀座で『モンゴル』を観ようと思っていたのだが、授業が長引いたので間に合わず、諦めて帰途につき電車に乗った。しかし、もう夕方が空く日もあまりないので、思い切って川崎で下車、一度も行ったことがないチネチッタでレイトショーのチケットを手に入れた(地図など確認しなかったが、まったく迷わずに映画館までたどり着けた)。

さて、『モンゴル』。浅野忠信主演、アカデミー外国語映画賞ノミネートで話題になった映画である。血湧き肉躍る冒険活劇、壮大な歴史エンターテイメント、というタイプの映画ではなかったが、そこが某日本映画と一線を画する美点だろう。とにかくこれは、苛酷なモンゴル高原の時代・社会に翻弄されながらもお互いを信じて生き抜いた男と女、そして家族の物語といってよい。主人公テムジンは、幼い頃に族長であった父を殺され、また仲間の裏切りにあって逃亡生活を余儀なくされる。何十年もの間、捕まっては逃げ、捕まっては逃げを繰り返し、常に命の危険にさらされている。テムジンの妻ボルテは、そんな夫と共に生きることを選び、他の部族に掠われて子供を妊娠させられても彼への愛と信頼を失わず、あるときには進んで他人の愛人になってまで夫を救い出す。テムジンも、そんな妻に一片の疑惑や怒りも抱くことなく、常に感謝し慈しみ、血の繋がっていない子供も「俺の息子だ、娘だ」と心から喜んで受け容れる(単に末子相続だからというだけではないだろう)。誤解を恐れずにいうならば、ここには〈貞操〉などというマッチョな規制とは無縁な、お互いを深く信じる心の強さがある。どんな悲壮な情況に追いやられても卑屈になることなく、常に誇り高く生き抜くテムジン。ラストのセリフに象徴されるように、テムジンを導き活かす彼以上に強靱で清冽な精神を持つボルテ。ロシア人の監督セルゲイ・ボドロフは、この二人の壮大なホームドラマを、リアリズムではなく、極めて神話的な筆致で描き切った。印象としては、史劇というよりファンタジー映画に近い(ヨーロッパ的視点からは「神話にしかみえない」のかも知れないが)。天の神の象徴として現れるオオカミの姿が、胸を打つほど美しかった。

おまけ。『守り人』シリーズの最新刊が出たので紹介しておこう。バルサとタンダの子供時代を描いた短編集である。いつもながら、仮想社会の風俗慣習、人々の生きるさまを具体的に描き出す、上橋菜穂子の筆致と想像力には驚くばかりだ(人類学研究の賜物だろう)。歴史学や人類学の研究書を読むのと同じくらいの意味がある。史学科の学生には、前近代の具体像を描き出す力を養うためにも、ぜひ取り組んでほしいシリーズである(児童文学だからすぐ読めますよ)。特講で扱っている死と死者の歴史の観点からすると、「浮き籾」のなかに描かれる祖先神への祭祀のシーンは必見(明日講義で紹介しようかな)。ところで、ぼくは複数のひとから「タンダに似ている」といわれたことがある。あれほど優しく感受性豊かではないが、異界にどうしようもなく引かれているところは似ているのかな。
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