もはや常套句のようになってしまっているが、「またずいぶん更新が遅れてしまった」。もはや、このブログを定期的にチェックしている人も少ないかもしれない。申し訳ないことである。4月から一応はサバティカルに入ったのだが、前年度の「焦げ付き原稿」がいまだ処理できないうえに、シンポジウム・シーズンにまで突入してしまい、もはや手も足も出なくなってきたのである(これについては、後でちゃんと告知をしておこう)。確かに、昨年度までに比べれば校務の負担は皆無に等しいのだが、なぜかサバティカル中にもかかわらず委員の委嘱を受け会議出席を要請されたり、多少は授業もあったりするので、嘱託講師であった2006年度とあまり変わらない印象である。秋に集中的に行うつもりであった東北の調査は、もはや時間的に難しくなってきた。とりあえずは中国と韓国への調査旅行を実現させ、単行本を仕上げるという所期の目的だけは達成させねば…。なお、近況の報告はfacebook上では常時行っているのだが、やはりブログは活用しなければならないと考えなおした。よほどのことがない限り、少なくとも週に1度は更新することにしよう。2月以来、ここに書いておかねばならないことは山積しているので、時期的には前後することになるが、とりあえずは書きやすいものからアップしてゆくことにする。
1ヶ月ほど前のことになるが、5/28(日)、早稲田大学にて開催された「東京歴史科学研究会」の大会に参加してきた。新自由主義との対決を掲げる、いま歴史学系で「最もとんがった」学会といっていい。ぼく自身は会員ではないのだが、知人が多く関わっている「好きな」会であり、時間があれば足を運びたくなるのだ。大会テーマも、歴研などよりはよほど性に合っていたりする。今年の委員会企画は「生存の危機と人びとの主体性」、報告は須田努さん「自助と自浄の19世紀:暴力という主体的行為の記憶」、佐々木啓さん「敗戦前後における労働者統合」、コメントが長谷川裕子さん「『生存』をめぐる中近世移行期研究」。〆切を破り続けた某校正が終わらず、やや遅れての会場入りとなったが、なかなかの盛況で、報告にも議論にも大いに刺激を受けた。
須田さんとは、"我が青春の"方法論懇話会で研鑽を積んだ仲間。今回の主要な分析対象となった甲州騒動、「騒動記」の類も、以前その会の合宿で報告していただいたことがある。「ぼくが明らかにしたいのは、構造ではなく主体なのだ」という力強い言明には、ポスト構造主義と向かい合うなかでぼくらの共有した議論が、未だに熱く沸き立っている気がした。同主義の目線では、抑圧された存在による暴力の行使は、既定の構造を組み換える最後の希望とも捉えられる。テロリズムが横行するなかでかかる見方は影を潜めてしまったが、主体が暴力を選択するその選択肢の〈幅〉が問われなければならないだろう。それは本当に〈選択〉といえるのか、死か暴力の二者択一しかありえなかったのか。その議論のなかにこそ、初めて〈主体性〉が立ち現れる気がする(そういえば、ケガレ研究会の第2弾は、最初「暴力研」としてスタートしたのだった。初回に、須田さんらが編集した『暴力の地平を超えて』を素材に、暴力研究の射程について報告した記憶がある。その後、ぼくのこの分野での関心は「言説の暴力」に大きく傾いたが、もう一度この時点に戻って問題を整理しなおさねばならないかもしれない。なお、いずれここでもきちんと触れておきたいが、同じくこの本の編者である中嶋久人さんが、ぼくの環境/文化をめぐる議論について、原子力発電所の存在、東日本大震災の意味を問い直す一連の作業のなかで整理・検討してくださっている。関心のある方は、ぜひ参照していただきたい)。
佐々木さんの報告は、これまでまったく関知してこなかった分野で、最初から最後まで教えられることばかりであった。彼が専門としている〈労働文化〉(史学史的には、広義の政治文化の一種として扱えるだろうか)は、ぼくの研究している〈環境文化〉とも交錯する分野である(そもそも、マルクスにとっては、「自然を作りかえる」ことこそが労働なのだから)。今後しっかり学んでゆかねばならないが、そのこととも関連して少々気になったのは、〈生存のための諸実践〉が、どうも経済学あるいは経済史的な概念での実践、物質的レベルで生命を繋ぐ作業に限定されすぎているのではないか、ということだった。この点は佐々木さんの報告だけではなく、歴史学においてなされてきた近年の生存をめぐる取り組みすべてにいえることなのかもしれないが…生存の危機に直面すればするほど、人間は鬱屈した日常のなかに何らかの形で娯楽を求め、ストレスを解消し精神を活性化させようとする。とすると、緊張した生業のあいだに生まれるちょっとした遊びなども、重要な〈生存のための実践〉ということになろう。そうした感性や心性のレベルの問題が問われることで、〈生存〉のありようもより立体的にみえてくるはずである。佐々木さんには、マイナー・サブシステンスなどを例に質問させていただき、労働争議における演奏活動などについて教えていただいた。そういえば、反原発デモでも楽隊は目立った。田遊びや田楽、その他生業に関わる多様な民謡、労働歌のことを考えると、生存と音楽という重要な視点も起ち上がってくる。
長谷川さんの理路整然としたまとめからは、環境史の議論も生存のそれにしっかりと繋げられるようにしなければならない、と自覚した(長谷川さんには、その後、FB上での議論にも付き合っていただいた。感謝)。以前、民衆史研究会の大会で、まさに「環境史と生存」がテーマとして採り上げられたことがあった。東日本大震災のような激甚災害を眼前にすると、災害の問題ばかりが突出してしまいがちになるが、環境は生存のための前提を形成する。それを自然決定論にならないよう整理してゆくためにはどうするか。また、生存をめぐる歴史を、文化を含めたより豊かで多様な方法・概念に構築してゆくためにはどうするか。3人の畏友から、大きな宿題をいただいた気分である。
懇親会には、校正を郵便局の本局で速達して、やはり遅刻しての参加。須田さんや中嶋さんとデリダを読む会を構想したり、茂木健之介さんと宮澤賢治論や死者研オフ会の企画をぶち上げたり、小山亮さんから写真論・メディア論についてご講義いただいたりした。感謝感謝である。東京歴史学研究会では、7/28(日)に、20年来の付き合いになる黒田智さんと、歴史学入門講座を担当させていただくことになった(テーマ「水をめぐる感性と心性:大津波のあとに環境史を学ぶ意義」)。今回得たことを再吟味しつつ、議論を組み立ててゆくことにしよう。
1ヶ月ほど前のことになるが、5/28(日)、早稲田大学にて開催された「東京歴史科学研究会」の大会に参加してきた。新自由主義との対決を掲げる、いま歴史学系で「最もとんがった」学会といっていい。ぼく自身は会員ではないのだが、知人が多く関わっている「好きな」会であり、時間があれば足を運びたくなるのだ。大会テーマも、歴研などよりはよほど性に合っていたりする。今年の委員会企画は「生存の危機と人びとの主体性」、報告は須田努さん「自助と自浄の19世紀:暴力という主体的行為の記憶」、佐々木啓さん「敗戦前後における労働者統合」、コメントが長谷川裕子さん「『生存』をめぐる中近世移行期研究」。〆切を破り続けた某校正が終わらず、やや遅れての会場入りとなったが、なかなかの盛況で、報告にも議論にも大いに刺激を受けた。
須田さんとは、"我が青春の"方法論懇話会で研鑽を積んだ仲間。今回の主要な分析対象となった甲州騒動、「騒動記」の類も、以前その会の合宿で報告していただいたことがある。「ぼくが明らかにしたいのは、構造ではなく主体なのだ」という力強い言明には、ポスト構造主義と向かい合うなかでぼくらの共有した議論が、未だに熱く沸き立っている気がした。同主義の目線では、抑圧された存在による暴力の行使は、既定の構造を組み換える最後の希望とも捉えられる。テロリズムが横行するなかでかかる見方は影を潜めてしまったが、主体が暴力を選択するその選択肢の〈幅〉が問われなければならないだろう。それは本当に〈選択〉といえるのか、死か暴力の二者択一しかありえなかったのか。その議論のなかにこそ、初めて〈主体性〉が立ち現れる気がする(そういえば、ケガレ研究会の第2弾は、最初「暴力研」としてスタートしたのだった。初回に、須田さんらが編集した『暴力の地平を超えて』を素材に、暴力研究の射程について報告した記憶がある。その後、ぼくのこの分野での関心は「言説の暴力」に大きく傾いたが、もう一度この時点に戻って問題を整理しなおさねばならないかもしれない。なお、いずれここでもきちんと触れておきたいが、同じくこの本の編者である中嶋久人さんが、ぼくの環境/文化をめぐる議論について、原子力発電所の存在、東日本大震災の意味を問い直す一連の作業のなかで整理・検討してくださっている。関心のある方は、ぜひ参照していただきたい)。
佐々木さんの報告は、これまでまったく関知してこなかった分野で、最初から最後まで教えられることばかりであった。彼が専門としている〈労働文化〉(史学史的には、広義の政治文化の一種として扱えるだろうか)は、ぼくの研究している〈環境文化〉とも交錯する分野である(そもそも、マルクスにとっては、「自然を作りかえる」ことこそが労働なのだから)。今後しっかり学んでゆかねばならないが、そのこととも関連して少々気になったのは、〈生存のための諸実践〉が、どうも経済学あるいは経済史的な概念での実践、物質的レベルで生命を繋ぐ作業に限定されすぎているのではないか、ということだった。この点は佐々木さんの報告だけではなく、歴史学においてなされてきた近年の生存をめぐる取り組みすべてにいえることなのかもしれないが…生存の危機に直面すればするほど、人間は鬱屈した日常のなかに何らかの形で娯楽を求め、ストレスを解消し精神を活性化させようとする。とすると、緊張した生業のあいだに生まれるちょっとした遊びなども、重要な〈生存のための実践〉ということになろう。そうした感性や心性のレベルの問題が問われることで、〈生存〉のありようもより立体的にみえてくるはずである。佐々木さんには、マイナー・サブシステンスなどを例に質問させていただき、労働争議における演奏活動などについて教えていただいた。そういえば、反原発デモでも楽隊は目立った。田遊びや田楽、その他生業に関わる多様な民謡、労働歌のことを考えると、生存と音楽という重要な視点も起ち上がってくる。
長谷川さんの理路整然としたまとめからは、環境史の議論も生存のそれにしっかりと繋げられるようにしなければならない、と自覚した(長谷川さんには、その後、FB上での議論にも付き合っていただいた。感謝)。以前、民衆史研究会の大会で、まさに「環境史と生存」がテーマとして採り上げられたことがあった。東日本大震災のような激甚災害を眼前にすると、災害の問題ばかりが突出してしまいがちになるが、環境は生存のための前提を形成する。それを自然決定論にならないよう整理してゆくためにはどうするか。また、生存をめぐる歴史を、文化を含めたより豊かで多様な方法・概念に構築してゆくためにはどうするか。3人の畏友から、大きな宿題をいただいた気分である。
懇親会には、校正を郵便局の本局で速達して、やはり遅刻しての参加。須田さんや中嶋さんとデリダを読む会を構想したり、茂木健之介さんと宮澤賢治論や死者研オフ会の企画をぶち上げたり、小山亮さんから写真論・メディア論についてご講義いただいたりした。感謝感謝である。東京歴史学研究会では、7/28(日)に、20年来の付き合いになる黒田智さんと、歴史学入門講座を担当させていただくことになった(テーマ「水をめぐる感性と心性:大津波のあとに環境史を学ぶ意義」)。今回得たことを再吟味しつつ、議論を組み立ててゆくことにしよう。