18日(金)は4年生の卒論指導の後に、大妻で倉田実さんを囲む研究会。モモが大慌てで調えた報告を「開く」ために援護射撃し、終了後は、例のごとく参加者の服藤早苗さんらと飲み会。そもそも倉田さんの還暦論集を準備するために始められた会なのだが、申し訳ないことに、ぼくら2人は一体いつ原稿を出せるか分からない。なんと服藤さんは、中公新書の新刊を、シルバーウィークの4日で100枚余り書く勢いという。とても真似できない。
20日(日)はカトリックAO入試と学科会議。8時過ぎに出勤して準備し、すべての会議が終了したのが17時であった。受験生にプレゼンを課す上記の面接は相変わらず面白かったが、1名に30分程度かかるのでくたくたになる。翌21~22日(月・火)は卒論合宿で、これも多彩な題目が並び、下級生の質疑も活発で面白かったが(ただし、全体的に作業が遅れており、完成するか心配な人もいた…)、すべて聞き終えた後は本当に疲れ切った。
森話社刊『日本神話の視界』掲載の「神話とCG表現」も脱稿。ちょっと技術的な問題に偏ってしまった感があるが、文系だと作品論ばかりになるので、そうしたアプローチも必要だろう。「歴史学とサブカルチャー7」掲載の『歴史評論』も発売。今回は、「おもちゃ箱のなかの戦争」というタイトルで、70年代の子供たちを取り巻いていた戦争愛好の問題を扱った。
ところでこの「サブカルチャー」、あと1回で連載終了となるのだが、最後に何を扱うか迷っている。ちょっと前まではジブリを論じるつもりだったが、最近手に取った『獣の奏者』の探求篇・完結篇を放っておけなくなってきた。闘蛇篇・王獣篇を読んだ際には「守り人シリーズの方がいいな」という印象だったのだが、物語も後半に入って面白さが倍増している。
上橋作品はどの物語においても、神話・歴史・伝承が構築されてくる政治性とその相対化が主題のひとつをなしているが、『獣の奏者』ではそこに自然環境と人間との関係が絡んでくる。主人公エリンは、人と獣との関係を束縛してきたリョザ神王国伝来の「王獣規範」「闘蛇衆の掟」、過去の大惨事を再び引き起こすまいとする〈霧の民〉の戒律に抗いながら、人と獣の新たな関係の構築を目指す。それぞれの神話や伝承には、一体どのような意味、意図が隠されているのか。パンドラの箱を開けてしまうのではないかという恐怖と闘いながら、どんな理由があろうと生命の方向をねじ曲げるのは誤りであると信じて、獣たちと関わってゆく。その姿は、神殺しや祟りの神話・伝承のありようを探究しているぼく自身のベクトルとも重なる。
闘蛇篇・王獣篇だけならば「ナウシカの焼き直し」という評価もされたろうが、探求篇・完結篇で母親となった主人公を描ききった点は素晴らしい。ぼくは基本的に甘えん坊なので、自らも母親となったエリンが幼い頃に死んだ母の痛みや苦しみに気付いてゆく過程には、本当にシンクロして切なくなってしまう。登場人物の細かい感情表現描写は、ときに「演出家の過剰な欲望」、わざとらしさを感じさせる部分もあるが、それらは大した問題ではあるまい。環境文化史の観点に立って、正面から受けとめたい作品である。上橋菜穂子、恐るべし。
20日(日)はカトリックAO入試と学科会議。8時過ぎに出勤して準備し、すべての会議が終了したのが17時であった。受験生にプレゼンを課す上記の面接は相変わらず面白かったが、1名に30分程度かかるのでくたくたになる。翌21~22日(月・火)は卒論合宿で、これも多彩な題目が並び、下級生の質疑も活発で面白かったが(ただし、全体的に作業が遅れており、完成するか心配な人もいた…)、すべて聞き終えた後は本当に疲れ切った。
森話社刊『日本神話の視界』掲載の「神話とCG表現」も脱稿。ちょっと技術的な問題に偏ってしまった感があるが、文系だと作品論ばかりになるので、そうしたアプローチも必要だろう。「歴史学とサブカルチャー7」掲載の『歴史評論』も発売。今回は、「おもちゃ箱のなかの戦争」というタイトルで、70年代の子供たちを取り巻いていた戦争愛好の問題を扱った。
ところでこの「サブカルチャー」、あと1回で連載終了となるのだが、最後に何を扱うか迷っている。ちょっと前まではジブリを論じるつもりだったが、最近手に取った『獣の奏者』の探求篇・完結篇を放っておけなくなってきた。闘蛇篇・王獣篇を読んだ際には「守り人シリーズの方がいいな」という印象だったのだが、物語も後半に入って面白さが倍増している。
上橋作品はどの物語においても、神話・歴史・伝承が構築されてくる政治性とその相対化が主題のひとつをなしているが、『獣の奏者』ではそこに自然環境と人間との関係が絡んでくる。主人公エリンは、人と獣との関係を束縛してきたリョザ神王国伝来の「王獣規範」「闘蛇衆の掟」、過去の大惨事を再び引き起こすまいとする〈霧の民〉の戒律に抗いながら、人と獣の新たな関係の構築を目指す。それぞれの神話や伝承には、一体どのような意味、意図が隠されているのか。パンドラの箱を開けてしまうのではないかという恐怖と闘いながら、どんな理由があろうと生命の方向をねじ曲げるのは誤りであると信じて、獣たちと関わってゆく。その姿は、神殺しや祟りの神話・伝承のありようを探究しているぼく自身のベクトルとも重なる。
闘蛇篇・王獣篇だけならば「ナウシカの焼き直し」という評価もされたろうが、探求篇・完結篇で母親となった主人公を描ききった点は素晴らしい。ぼくは基本的に甘えん坊なので、自らも母親となったエリンが幼い頃に死んだ母の痛みや苦しみに気付いてゆく過程には、本当にシンクロして切なくなってしまう。登場人物の細かい感情表現描写は、ときに「演出家の過剰な欲望」、わざとらしさを感じさせる部分もあるが、それらは大した問題ではあるまい。環境文化史の観点に立って、正面から受けとめたい作品である。上橋菜穂子、恐るべし。
「人という獣」という言い方をエリンが(考えているときに)していたように思います。やっぱりここから考えるしかないかもね、と思いました。
が、人と獣とのかかわりについては、何か視点が得られるのではないか!と読む前に期待しすぎてしまって。物語に答えを求めちゃいけません
人と獣の関係については、「生の獣」と触れあうことによって既成の知的枠組み、歴史を超えてゆくという視点が、『神なるオオカミ』と共通していて面白かったです。擬人化されていた『狐笛の彼方』より、他者表象の深さは増したのではないでしょうか(しかし、「王獣」というネーミングは、どうしても「王蟲」を連想してしまいますね)。