毎月積み上がってゆくばかりで一向に減らないDVDのなかから、荻上直子作品を一気に鑑賞した。『かもめ食堂』と『めがね』である。ともに、ものすごくゆるゆるしたテンション(そして枠組み)の映画だが、そのだらけ具合が大変に心地よい。「忙しい現代社会」云々、といった対立項は、絶対に設けたくない類のゆるさである。二作品を通して小林聡美ともたいまさこが好演、「このひとでなければありえない」というツボにはまった演技(なのか?)をみせてくれる。鑑賞後の爽やかさ、清々しさは、三谷幸喜『やっぱり猫が好き』や木皿泉『すいか』に類似のものがあるが、画面の片隅にのぞく〈不思議さ〉は、荻上直子独特の世界なのだろう(〈神話性〉といってもいいかも知れない。『めがね』のもたいまさこなど、まさに春に来る来訪神である。名前も「さくら」だし)。
さて、二作品に共通して気になったことがひとつ。すでにどこかで誰かが書いていることだろうが、贈与・交換のカタチへの監督のこだわりである。前者のかもめ食堂は、小林聡美がヘルシンキに開店した下町食堂風の和風レストラン。いわゆる寿司や天ぷらといったステレオタイプの和風料理ではなく、おむすびをメインメニューに、焼き魚やトンカツ、野菜炒めなどの定食を出している。当初は誰ひとり客が入らないが、片桐はいりやもたいまさこが様々な縁で関わることにより、次第にひとを誘う"風"が生まれてくる。金銭で成り立っている商売のはずなのに、客が代金を支払うシーンはほとんどない(お金を置いてゆくのが強調されるのはもたいまさこのみ。彼女が支払っているのは、本当に"お金"なのか?)。かわりに挿入されるのは、料理を口に入れたときのささやかなうなずき(決して大げさではない)、安心、そしてもうひと口ほおばろうという自然な動作である。そうした客の姿をみていて、小林らはニコッとする。彼女たちの感じる小さな幸福感は、お金からではなく、こころの交換によって育まれているのである(そして交換のきっかけが、誰しもが抱える様々の〈生きる悲しみ〉である点も重要だろう)。
後者にも印象的なシーンがある。もたいまさこが春だけ営む浜辺の小屋では、子供も大人も「たそがれさせる」不思議なかき氷が配られている。島の誰もがその氷を食べに来るが、対価として支払うのはお金ではなく、氷屋は原材料の氷を、子供は折り紙を、友人の光石研と市川実日子はマンドリンの演奏を贈る。自分が受けたものが自分にとってどれだけ大事なものか、それを贈ってくれたひとにいまの自分は何ができるか。それを考えることこそ、現代の貨幣経済においては麻痺してしまっている、贈与・交換の倫理において最も大切な行為なのだろう。
キッチンや台所用品、そしてファッションのセンスのよさも必見。ひととひととのコミュニケーション、受けること、伝えることの意味を深く考えさせる、感じさせる映画だった(妻は『アメリ』以来という惚れっぷりでした)。
もうひとつ、NHKで地上波放送の始まった『太王四神記』について書いておこう。日本古代史においても重要な好太王の生涯を描いた伝奇ファンタジーだが、第1話は檀君神話がモチーフ。火を自在に操る虎族の巫女が支配する地上に、戦争を抑止すべく天神の子ファヌンが降り立ち、熊族を核とする平和な都邑を築く。火の巫女カジンはファヌンに惹かれるが、ファヌンは熊族の英雄セオと結ばれ、三者の間に愛憎の炎が巻き起こる。ファヌンの使う白虎(風伯)・青龍(雲師)・玄武(雨師)と朱雀との戦いなど、VFXをふんだんに使ったスペクタクル映像が展開する。ハリウッド的な豪華さは演出の未熟さを助長するものだが、なかなかピーター・ジャクソンよろしく手堅い話運びをみせていた。かつて、類似のテーマを扱った『燃ゆる月』(カン・ジェギュプロデュース、2000年)という映画があったが、それより壮大で洗練された印象がある。天神が、結局は地上に混乱を呼ぶだけというのもそれらしい。テレビ東京で始まった『コーヒープリンス1号店』(『宮』の主演女優ユン・ウネの最新作)、NHK-BS2の『ファン・ジニ』(実在した妓生の生涯。今年の卒論にもあった女楽に関連)とともに、楽しみにしておきたい作品である。
さて、二作品に共通して気になったことがひとつ。すでにどこかで誰かが書いていることだろうが、贈与・交換のカタチへの監督のこだわりである。前者のかもめ食堂は、小林聡美がヘルシンキに開店した下町食堂風の和風レストラン。いわゆる寿司や天ぷらといったステレオタイプの和風料理ではなく、おむすびをメインメニューに、焼き魚やトンカツ、野菜炒めなどの定食を出している。当初は誰ひとり客が入らないが、片桐はいりやもたいまさこが様々な縁で関わることにより、次第にひとを誘う"風"が生まれてくる。金銭で成り立っている商売のはずなのに、客が代金を支払うシーンはほとんどない(お金を置いてゆくのが強調されるのはもたいまさこのみ。彼女が支払っているのは、本当に"お金"なのか?)。かわりに挿入されるのは、料理を口に入れたときのささやかなうなずき(決して大げさではない)、安心、そしてもうひと口ほおばろうという自然な動作である。そうした客の姿をみていて、小林らはニコッとする。彼女たちの感じる小さな幸福感は、お金からではなく、こころの交換によって育まれているのである(そして交換のきっかけが、誰しもが抱える様々の〈生きる悲しみ〉である点も重要だろう)。
後者にも印象的なシーンがある。もたいまさこが春だけ営む浜辺の小屋では、子供も大人も「たそがれさせる」不思議なかき氷が配られている。島の誰もがその氷を食べに来るが、対価として支払うのはお金ではなく、氷屋は原材料の氷を、子供は折り紙を、友人の光石研と市川実日子はマンドリンの演奏を贈る。自分が受けたものが自分にとってどれだけ大事なものか、それを贈ってくれたひとにいまの自分は何ができるか。それを考えることこそ、現代の貨幣経済においては麻痺してしまっている、贈与・交換の倫理において最も大切な行為なのだろう。
キッチンや台所用品、そしてファッションのセンスのよさも必見。ひととひととのコミュニケーション、受けること、伝えることの意味を深く考えさせる、感じさせる映画だった(妻は『アメリ』以来という惚れっぷりでした)。
もうひとつ、NHKで地上波放送の始まった『太王四神記』について書いておこう。日本古代史においても重要な好太王の生涯を描いた伝奇ファンタジーだが、第1話は檀君神話がモチーフ。火を自在に操る虎族の巫女が支配する地上に、戦争を抑止すべく天神の子ファヌンが降り立ち、熊族を核とする平和な都邑を築く。火の巫女カジンはファヌンに惹かれるが、ファヌンは熊族の英雄セオと結ばれ、三者の間に愛憎の炎が巻き起こる。ファヌンの使う白虎(風伯)・青龍(雲師)・玄武(雨師)と朱雀との戦いなど、VFXをふんだんに使ったスペクタクル映像が展開する。ハリウッド的な豪華さは演出の未熟さを助長するものだが、なかなかピーター・ジャクソンよろしく手堅い話運びをみせていた。かつて、類似のテーマを扱った『燃ゆる月』(カン・ジェギュプロデュース、2000年)という映画があったが、それより壮大で洗練された印象がある。天神が、結局は地上に混乱を呼ぶだけというのもそれらしい。テレビ東京で始まった『コーヒープリンス1号店』(『宮』の主演女優ユン・ウネの最新作)、NHK-BS2の『ファン・ジニ』(実在した妓生の生涯。今年の卒論にもあった女楽に関連)とともに、楽しみにしておきたい作品である。
私はこの二つは珍しく劇場で観ました。「さくらさん」について、先日「くわっぱさん」が同じように来訪神、って言ってらっしゃいましたよ。もうお二人とも研究者の鏡というか、サガですね~。私はあまりにもテンポが自分の呼吸に近すぎて分析不可能です(笑)
『めがね』は、他の登場人物の位置付けも気になりますよね。もっとも感情移入しやすいはずの主人公が、じつはほとんど素性を明かされず、神から愛される素質のみが現れ羨望の的になる。ファンタジーの主人公の王道ですよ、「実は...」というありきたりの種あかしはないけれども。
う~ん、『千と千尋』の世界構造に近い気もしますね。神は島をホカフけれども、自分も活力を得て去ってゆく(ミアレ神事?)。小林聡美や加瀬亮は、癒されて帰ってゆく異人でしょうか(歓待?)。小林は旅人、加昻の天然ぶりは神に近い気もしますが(ラストではさくらさんにくっついてくるし。カオナシ?)。
つまりは映画は両者の出会いの場だけスポットをあてているわけで、その場所だけを見ることができないとあれこれいろいろ文句が出てくるのですね。
ファンタジーって何か、と最近考えているのですが。「めがね」はハイ・ファンタジーとして観るべきなんだよな。。。