【彦根城を借景とする大名庭園、6年前に水田を復元】
滋賀県彦根市の国の名勝「玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)」は彦根城の北側に位置し、江戸時代には「槻(けやき)御殿」と呼ばれた。造営が始まったのは井伊直興が4代藩主だった1677年(延宝5年)。以来、藩主の居館や饗応の場、退位後の隠居所などとして使われた。現在は庭園部分が「玄宮園」、建物部分が「楽々園」と呼ばれている。
玄宮園は彦根城天守閣を借景とする広大な大名庭園で、当初は「槻之御庭(けやきのおんにわ)」などと呼ばれた。池の中に置かれた4つの島や入り江を9つの橋で結び、畔や小高い場所に「臨池閣」「鳳翔台」などと呼ばれるひなびた建物が立つ。中国・洞庭湖の「瀟湘(しょうしょう)八景」あるいは「近江八景」を模して作庭されたといわれる。8年前の発掘調査で庭園の一角から水田の畦の跡が見つかった。「神田」と書かれた江戸後期の絵図もあり、藩主が領内の五穀豊穣を祈って田植え神事を行ったとみられる。6年前にはその水田を復元し、毎年稲を育てている。
楽々園は庭園の西側に位置する。11代藩主直中が1812年(文化9年)に隠居するとき能舞台が設けられるなど大規模な増改築が行われた。その頃、建物全体の規模は現在の10倍ほどもあったそうだ。「安政の大獄」や「桜田門外の変」で知られる幕末の大老、井伊直弼も1815年、当時「槻御殿」と呼ばれていたこの地で生まれた。今も残る建物は「御書院」「地震の間」「楽々の間」など。「地震の間」は自然石を多く配した築山に建てられた茶室で、耐震構造になっていることからこう呼ばれているが、元々の名は「茶座敷」だった。
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