曜日のない暮らし

日々の暮らしにあるささやかで素晴らしい瞬間
暮らしと心を癒してくれる生き物たち
山本弘三の写真を中心にした日記帳

広島は 今も広島雲の峰

2021年08月06日 | 日記

今日の花

向日葵と浜木綿の花   朝の散歩の途中道端で見つけました。

 


 ブログ、長らくのご無沙汰でした。至って元気に過ごしています。ただ暑い時期ですからね夜更かしができなくて、いつものように夜中にこそこそブログを書くことができませんでした。
今の時期には夜更かしをしない代わり朝が早起きです。早朝のキリットしまった空気はとても気持ちが良いですし気力も充実しています。新聞を取りに出て今日が8月6日だと気づきました。

今日のブログの表題は、「広島は今も広島雲の峰」とさせていただきましたが、この俳句は私の友人の俳句です。私の大好きな句です。若いころには俳句・短歌・詩などにほとんど縁のなかった私ですが、俳句をやっている友人と出会ってからこの句だけは一度聞いただけで頭の中にすっかり焼き付いてしまいました。今朝、新聞を手にして8月6日の日付を見た瞬間にこの句が浮かんだのです。

76年前のこの日、私はまだこの世に生まれていませんでした。当時がどんな世の中だったかは皆さんよくご存じでいらっしゃるでしょうが、この世界の片隅で様々な一人一人の世界が営まれていたのです。戦争末期で私の父は名古屋にいたそうです。何度も南方の前戦に送り出されることになっていたようですが、すでに輸送船が無くて終戦の日まで国内にとどまっていたようです。そして、母は島で子育てとみかん園を一人で守っていました。母は76年前の8月6日の朝8時過ぎに嵩山の中腹にあるみかん畑に向かっていました。その時、嵩山の横に突然太陽のような光り輝きが現れたのを見たそうです。そしてさらに数分後道を登っていた時、雷のような大きな音を聞いたそうです。大島の北側に住んでいた人たちはもっとたくさんの人が原爆の光を直接見たと聞いています。母もそうでしたがその光が何なのかは誰にも全く分からなかったと言っていました。
そして15日の敗戦日が過ぎて父も除隊になり列車で家に帰ろうとしました。そして広島駅に降り立った時のことも話してくれました。街がまったく無くなっていて廃墟になっていましたし、放射能の知識があればそんな街に降りることもなかっただろうと思いましたが列車待ちの時間街を歩いてみたようでした。夏ですから破れた水道の蛇口から漏れていた水を飲んだと話していました。でも父が戦死せず無事に帰ってきたおかげで翌年の夏に私が生まれました。そして平和な時代を生きることができて、もうすぐ75歳を迎えます。

穏やかな一日が始まる雲の峰

 


76年前の朝、この嵩山の右側に巨大な閃光が現れたそうです。

 

今朝の安下庄の街と港

 

 

いつもは夕日を撮る所から朝の風景を撮ってみました。

 

今朝も穏やかな海です。

平らかな海に写るは雲の峰

 

そろそろ人が動き始める時間となりました。