小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

新選組・大石鍬次郎ミステリー  完

2007-12-08 21:31:46 | 小説
 大石鍬次郎は、新選組が五兵衛新田に駐屯した際に脱走していた。三井丑之助と市村房之助も一緒である。その脱走3人組について、菊地明氏は『新選組全史 下』(新人物往来社)に、こう書いている。
〈その後、市村は出身地の大垣に帰郷するが、三井は降伏して薩摩軍に加わり、大石はその三井によって捕えられ、伊東甲子太郎殺害の罪で刑死を遂げることとなる。〉
 誠実な新選組研究者である菊地明氏は、大石の罪状をきちんとおさえておられる。
 ところで大石が新選組を脱走したのは慶応4年(明治元年)4月以前のことで、捕縛されたのは明治2年7月以前のこととわかるが、具体的な時期を特定できる史料はない。
 脱走から捕縛までの1年余の大石の生活実態も不明である。これが大石鍬次郎ミステリーのその2である。
 そして処刑されたのは明治3年10月10日とされているが、さきに紹介した公文録の内容からすれば、処刑までにずいぶん日数がかかりすぎている気もしないではない。これが大石鍬次郎ミステリーのその3である。
 ともあれ大石鍬次郎は龍馬暗殺犯として処刑されたわけではないことを強調しておこう。龍馬暗殺の嫌疑もあり、いったんは彼自身が自白したということから、処刑理由もそうだと短絡的に解釈するのは、木をみて森を見ていないのである。
 ついでながら、近藤勇の処刑についても、あたかも罪状は龍馬殺害だとするかのごとき俗説がある。公文書(注)に明記されているのは、官軍への抵抗であって、龍馬とのからみは一切ない。
 ところが、ある歴史作家などは、こういう俗説に汚染されていて、土佐藩とりわけ谷干城は近藤勇を龍馬の復讐の対象として処刑させたし、龍馬暗殺は新選組の仕業だと決めつけていたから無実の大石も処刑させたというような発言をする。そして今井信郎が見廻組 の関与を公表した『近畿評論』の記事を谷が反駁したのは、暗殺犯が新選組でないとすると近藤勇処刑の根拠が崩れて困るからだというような論法になる。
 誤解に誤解を積み重ねたら、こういう悪意のような思い込みが生成されるのである。
 谷が今井を売名の徒と決めつけたとか、「かみついた」とかしか評価できないのは谷の今井信郎実歴談に関する講演内容を虚心坦懐に読んでない証拠である。谷の講演を虚心坦懐に読めなかった今井信郎のお孫さんに皆右へならえでは困ったものである。

注:初出で「公文録」としたのは「公文書」の誤り。太政官作成の公文書で「東北征伐始末十・賊徒処分」に「元新選組近藤勇甲武両州問ニ於テ官軍ニ抗セシ科ニ依リ梟首ニ処ス」がある。
 
 


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