小楠こと横井平四郎が新政府に登用されたのは、明治元年4月である。4月23日に徴士参与、閏4月12日に制度局判事、そして21日に新官制による参与となった。
そして「従四位下」に叙せられた。出身地の熊本では、藩主の世子細川護久が同じ「従四位下」であった。なんと、知行も召し上げられ士席(籍)も剥奪され蟄居していた男が、一挙に大名と肩を並べたのである。
横井小楠の事件の一報が熊本に届いたとき、歓声をあげて喜んだ者たちがいたという。横井に対する反感は、故郷にもあった。
横井の拝命した参与には、ほかに鹿児島の大久保利通、小松帯刀、山口の木戸孝允、広沢真臣、高知の後藤象二郎、福岡孝弟、佐賀の福島種臣、福井の由利公正がいた。計9人である。
ところが横井は、大久保や木戸ほど参与としての役割をはたしていない。なにしろ暗殺されるまでに、政務についたのは実質4か月ほどでしかない。一時は重体になるほどの病気でひきこもっていた日々のほうが多かったからだ。
参与になる前から、つまり上京以前に淋病にかかっており、本人はそのせいだと思っていたようだが、横井の病は腎臓と膀胱の結核だったという説がある。
そんなわけで、外部に反感をかうような建言もないし、目立った政治活動そのものができていないのである。不思議ではないか。その横井を刺客たちはなぜ標的にせねばならなかったのか。
彼が凶刀に倒れると、洛中に落書きがあった。
そのひとつ。
「まっすぐに行けばよいのに平四郎、横井ゆくから首がころり」
さらに
「よこい(横井)ばる奴こそ天はのがさんよ(参与)、さても見苦しい(四位)今日の死にやう」
この悪意に満ちた諧謔は、しかしそれなりの教養のある人物の手になるものと容易に推測がつく。
早くも世論を誘導しようという意図の明らかな落書きである。事情のわからぬ者に「横井は殺されて当然の悪いやつ」といういうイメージを植えつけようとしているのだ。
刺客たちの背後に、ただならぬものが潜んでいるのである。
そして「従四位下」に叙せられた。出身地の熊本では、藩主の世子細川護久が同じ「従四位下」であった。なんと、知行も召し上げられ士席(籍)も剥奪され蟄居していた男が、一挙に大名と肩を並べたのである。
横井小楠の事件の一報が熊本に届いたとき、歓声をあげて喜んだ者たちがいたという。横井に対する反感は、故郷にもあった。
横井の拝命した参与には、ほかに鹿児島の大久保利通、小松帯刀、山口の木戸孝允、広沢真臣、高知の後藤象二郎、福岡孝弟、佐賀の福島種臣、福井の由利公正がいた。計9人である。
ところが横井は、大久保や木戸ほど参与としての役割をはたしていない。なにしろ暗殺されるまでに、政務についたのは実質4か月ほどでしかない。一時は重体になるほどの病気でひきこもっていた日々のほうが多かったからだ。
参与になる前から、つまり上京以前に淋病にかかっており、本人はそのせいだと思っていたようだが、横井の病は腎臓と膀胱の結核だったという説がある。
そんなわけで、外部に反感をかうような建言もないし、目立った政治活動そのものができていないのである。不思議ではないか。その横井を刺客たちはなぜ標的にせねばならなかったのか。
彼が凶刀に倒れると、洛中に落書きがあった。
そのひとつ。
「まっすぐに行けばよいのに平四郎、横井ゆくから首がころり」
さらに
「よこい(横井)ばる奴こそ天はのがさんよ(参与)、さても見苦しい(四位)今日の死にやう」
この悪意に満ちた諧謔は、しかしそれなりの教養のある人物の手になるものと容易に推測がつく。
早くも世論を誘導しようという意図の明らかな落書きである。事情のわからぬ者に「横井は殺されて当然の悪いやつ」といういうイメージを植えつけようとしているのだ。
刺客たちの背後に、ただならぬものが潜んでいるのである。